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サムエル記下 12章/「その男はあなただ」

・本章を要約すると

部下の妻を寝取り妊娠させ、その隠蔽に部下を死に追いやった王を預言者がたとえを用いて諭す。王は悔い改めるが、罪の結果として自分の子が死ぬ。妻を慰めた王は新しい子を授かる。
プライベートでの失敗や不幸とは裏腹に、王は宿敵の首都を滅ぼす。

・心に残った聖句

ナタンはダビデに向かって言った。
「その男はあなただ。」

サムエル記下‬ ‭12‬:‭7‬ 新共同訳

ウリヤの妻バトシェバを寝取り妊娠させ、しかもその罪を隠蔽しようと臣下であるウリヤを死地に赴かせたダビデ王。主から遣わされた預言者ナタンはたとえ話を用いて彼を叱責する。

わたしたちはここまであからさまな権力の濫用や、罪を隠蔽するため更に罪を増し加えることはないかもしれない。しかしながら、それでもダビデの姿はあらゆるわたしたちに重なりはしないか。

本章には救いがある。ダビデは凄まじい罪を犯したが言い訳せずに己れの罪を素直に認め、それにより主は彼の罪を赦す(13節)。

主への向き合い方として、このダビデの振る舞いはやはり模範となるのではないか。

・サムエル記における本章

本章は前章と併せて"ダビデとバトシェバ"のエピソードを構成している。
この逸話は"アマレク人によるツィクラグの襲撃"(サムエル記上 30章)と並ぶダビデ物語の重要な転換点であり、かつサウル物語のターニング・ポイントである"アマレク人との戦い"(サムエル記上 15章)と酷似した意味合いをストーリーに与えている。

1.ダビデ物語における"ダビデとバトシェバ"のエピソード

第一のターニング・ポイントである"アマレク人によるツィクラグの襲撃"以降、ダビデは上昇を続けるが、本エピソード以降再び全てが崩れ始める。

バトシェバとの子は死に(18節)、近親相姦と兄弟殺しで家庭は崩壊し(サムエル記下 13章)、自分の息子に反乱を起こされる(サムエル記下 15章)。
さらに自分のブレーンや親友の息子にも裏切られ(サムエル記下 15-16章)、彼はかつて貧しい羊飼いだった頃のように(サムエル記上 17:28)、サウルから命を狙われていた時のように荒野へと落ち延び、自分の家である側女たちが隣人である"新しい王"アブサロムのものとなる(11節)。

2.サウル物語における"アマレク人との戦い"

本エピソード以降サウル王は下降を続ける。
新しい王となる"我が子ダビデ"に油が注がれ(サムエル記上 16章)、悪霊に苛まれるようになり、ペリシテ人の剣でダビデを殺すのに失敗し(サムエル記上 18章)、自分の息子ヨナタンや祭司アヒメレクに裏切られたと思い込み、自分の家であるイスラエルが隣人である"新しい王"ダビデのものとなる(サムエル記上 15:28)

サムエル記のメインストーリーであるダビデ物語とサブストーリーのサウル物語は構造が相似と言える。
では二人の何が違うのか。

3.サウルの信仰

危機の際のサウルの信仰は実に合理的である。
自分は神に選ばれた王であると証明する祭祀が遅れ、それにより兵士たちがサウルの正当性を疑い逃散し出すとそれを食い止めるため勝手に生贄を捧げる(サムエル記上 13:1-11)。
また、預言者サムエルから不信仰を非難されてもサウルは民や長老たちへの体面を心配し、アマレクとの戦いからの凱旋を共にするようサムエルへ懇願する(サムエル記上 15:30)。
更に、ペリシテ軍に追い詰められ自害することになるギルボア山での戦いを前にし彼は霊媒師の元を訪れるが、その理由も自らが成すべきことを主に教えてもらうためである。
そしてゴリアテに代表される危機についてダビデと語り合う際に、サウルは合理的にこう言う。
「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」(サムエル記上‬ ‭17‬:‭33)

ではダビデはどうか。

4.ダビデの信仰

ダビデにはさまざまな汚点が確かに存在するが、彼は物語上重要な局面ではかなり率直に主に依り頼む。

本章においては預言者ナタンから不信仰を非難されると素直に罪を認め(13節)、全てを失った"アマレク人によるツィクラグの襲撃"では部下に殺されかけている最中に「その神、主によって力を奮い起こし」(サムエル記上 30:6)、そしてゴリアテとの戦いに赴く前にサウルと語り合うダビデは神に依り頼みこう言う。
「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」(サムエル記上‬ ‭17‬:‭37‬)

これが本章前半までのダビデである。

5.合理的になるダビデ

本章中盤にはダビデとバトシェバの第一子が亡くなるエピソードが記述されている。
ダビデは弱っている我が子を救ってくださるよう断食し地に伏して主に祈り続ける。が、彼はその子が亡くなると身を洗い、香油を塗り、食事をする。訝しむ家臣に対しダビデはこう言う。
「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。
だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。」(サムエル記下‬ ‭12‬:‭22‬-‭23)‬‬

サムエル記の本編はサムエル記下20章までであり、21-24章は回想シーンのような役割を果たしている。
この回想シーンを除くならば、"合理的に"なったダビデが主に語りかけはしても、主からダビデに語りかけることは無くなる。丁度サウルに対して夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても主が語りかけなくなったように(サムエル記上 28:6)。

・たとえを用いて語る

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭13‬:‭34‬-‭35‬ 新共同訳‬

キリストがこの聖句で引用しているのは詩篇78章の呼びかけ部分である。それはイスラエルの歴史というたとえ話や寓話にある教訓を学べと読者へ訴える。
本章において預言者ナタンはダビデの罪を直接糾弾せず、たとえ話を用いて非難した。直接的な糾弾と異なり、良い物語は聞き手に感情移入させ、かつ語られる内容に対し客観的な判断をさせるという二つの側面がある。ダビデは聞く耳を持ち、心が鈍くなり果ててはいなかったのでナタンによる"羊を一頭しか持たない貧しい男と、有り余るほどの家畜を持つ金持ちの男"のたとえ話を聞き、悔い改めることが出来た。
聖書における歴史物語という"たとえ話"をわたしたちが読む意味合いもここにあるのではないか。

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