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エフェソ人への手紙1章/多様性と調和

エフェソ人への手紙のテーマは多様性とキリストによる調和である。
先ず一章においてこれが示される。次章においてユダヤ人と異邦人という「二つのものを一つに」(2:14)するものとしてキリストの十字架が示される。

また4章において唯一の神による一致が説かれる(4:3-6)。

が、その一致とは全ての差異を消し去るものではないし、個を消滅させるものでもない。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(4:16)

この多様性と調和の問題は第一コリントでは神殿の比喩として語られ(第一コリント 3:16-17)、本書簡でも二章において同様の比喩が用いられている(2:18-22)。

教会がキリストと結び合わせられることにより最高の良さへ向かい作られているならば、それは一層一つになっていくものとはならない。
それは一層多によって構成されるのではないか。

教会よりも一つの民族であるユダヤ人が、一つの民族よりも一つの家が、一つの家よりも一人の人の方がより一層ひとつである。
が、万民のための救済である十字架はそのようなものではない。

シンバル奏者だけが100人居ても交響曲は奏でられはしないし、水だけ大量にあったとしても美味しいスープを作れはしない。

信仰が完全に自足している人間ならば教会は不要であろう。
しかしながら信仰の共同体を必要とせず、完全に一人で自立自足している人間の信仰は人間的なものというよりはもはや"神"ではないか。

ゆえに教会はその成り立ちからも、論理的にも一層多であることが要請されるのではないか。
なぜならば、より一層一つになるほどに、教会は一つの民族、一つの家、一つの人間に近づくからである。

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