見出し画像

サムエル記下 5章

・あらすじ
王位を巡る対立相手のサウル家が崩壊したことにより、ダビデは本章においてイスラエル全部族の長老たちから油を注がれ統一イスラエルの君主となる。
統一イスラエル王ダビデはそれまで異教徒のエブス人が居住していた街エルサレムを攻め落とし、ヘブロンに代わりエルサレムがダビデ王朝の首都となる。
ペリシテ人たちが統一イスラエルに戦いを挑んで来たがダビデは逆に彼らを返り討ちにする。

1.異邦人の街エルサレム
エルサレムは元々ユダヤ教の聖地ではないし、そもそもユダヤ人の街ですらない。
ダビデの息子であるソロモンがエルサレムに神殿を建設し、そこに契約の櫃を安置するまでの間、イスラエル民族は移動時や重要な戦いがある際には契約の櫃を担いで移動しており、(参照 民数記10:33-36、ヨシュア記6章)いわば神殿は動き回るものであった。

また、本章において記されているように現代では様々な一神教の聖地とされるエルサレムという街それ自体も、異邦人であるエブス人の街であり、元々はイスラエルの街ではない。(参照 士師記19:10)

2.ダビデの街エルサレム

王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。
エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。
「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
しかしダビデはシオンの要害を陥れた。
これがダビデの町である。
そのとき、ダビデは言った。
「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」
このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。

‭‭サムエル記下‬ ‭5‬:‭6‬-‭8‬ 新共同訳‬

このエブス人の街エルサレムは本章において水くみのトンネルを通り街に入ったダビデ軍に攻め落とされる。天然の要害であり、かつ中東において貴重な水源、ギホンの泉を擁するエルサレムをダビデは王都とし、この街は「ダビデの町」と呼ばれるようになる。

また、神殿に障害者が入れない理由として、エブス人の挑発に対してダビデが不具者たちを討つよう命じたからだとの説明がなされる。


3.聖書における差別的表現
聖書は約3000-2000年前に書かれた書であるため、現代人が読むと面食らう差別的表現が時折現れる。
現代においてよく問題となるのがパウロ書簡において女性差別、LGBT差別を肯定していると捉えられる箇所であるが、旧約には障害者差別の表現も頻出する。本章も例外ではない。

また、これは人権という世俗の平等に関する話ではない。本章だけではなく聖書には聖による差別を感じさせる聖句が確かに存在する。(参照 ‭‭レビ記‬ ‭21‬:‭18‬-‭21‬など)

では、これらの差別、世俗的な差別はともかく聖性に対する差別を正統化するとしか思えないものをどのように解釈すべきだろうか。

4.キリストの時代のエルサレム
エルサレムは水源を擁するとはいえ、主要なものはギホンの泉と呼ばれるものだけである。
ダビデの子孫であるユダ王国の国王ヒゼキヤはアッシリアからの侵略に備え、このギホンの泉からエルサレム市内へと水を引くために地下水路を引く。(参照 歴代誌下 32:30)

この地下水路を通り、キリストの時代のエルサレムに水を供給していたのがシロアムの池である。

こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。
そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。‬

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭9‬:‭6‬-‭7‬ 新共同訳

かつてエブス人の街エルサレムを攻め落とす際に「水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」とダビデ王は命じた。
街が攻め落とされる際に盲目の人間の命を奪うために使われた水の通り道、その同じ水がキリストにおいては命を運ぶものとなった。

「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」と言われていたために、キリストの時代にも身体障害者は神殿には入れず、その外にある境内から神に祈りを捧げるしかなかった。

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。
「こう書いてある。 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。‬

‭‭マタイによる福音書‬ ‭21‬:‭12‬-‭14

共観福音書によるとキリストは十字架に向かう前に神殿の境内で両替人の台を倒し、神殿に入れず境内で祈るしかなかった目や足の不自由な人々を癒した。

このエピソードにおいてキリストがひっくり返したのは両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けだけだろうか?
それだけではなく、「聖とは何か?」という価値観をひっくり返したのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?