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サムエル記下23章/詩としてのダビデ、散文としてのダビデ

・本記事は何を書くか

本章における詩としてのダビデの最期のことばと、列王記2章の散文として書かれた彼の最期のことばを比較する。

・二つのダビデ解釈

本章においてダビデは詩で最期の言葉を語る。
丁度、創世記49章でヤコブが、申命記33章でモーセが自らの死を前に詠ったように。

神に従って人を治める者 神を畏れて治める者は
太陽の輝き出る朝の光 雲もない朝の光
雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。

サムエル記下 23:3-4 新共同訳

非常に明るく穏やかな調子でダビデの最期の詩は詠まれる。
神が選んだ王であるダビデと(サムエル記上 16:1)、その王朝には恵みが永遠に与えられる(サムエル記下 7:12)。
印象派絵画のようにすべては光の中で調和が取れており、悪も暗さも全ては画面外にあるものでしかない(本章 6-7)。

では、このダビデ観が聖書が描いたものだろうか。
ダビデは詩的で英雄的な、幻想的存在か。
この聖書が示すダビデ観には聖書それ自身が意義を唱える。

ダビデの最期の言葉は本章では詩として書かれているが、列王記上2章では散文で書かれている。
そこで彼は自分の王位を継承するソロモンに対していくつかの指令を残す。

それは、前軍司令官および前王朝の生き残りへの暗殺指令である。
神の子キリストの予型であるダビデは映画ゴッドファーザーの登場人物のようにこう語る。

「あなたは知恵に従って行動し、彼が白髪をたくわえて安らかに陰府に下ることをゆるしてはならない。」(列王記上 2:6)

「あなたは知恵ある者であり、彼に何をなすべきか分かっているからである。
あの白髪を血に染めて陰府に送り込まなければならない。」(同 9節)

列王記上2章に記されたダビデは明暗があまりにはっきりしている。
王とは所詮幻想的な存在などではなく、暴力により民から財産や労働力を収奪する存在でしかないからだ(サムエル記上 8:10-20)。

その家が繁栄していくためには賢くあらねばならない。何があろうと恵まれるなどと思い込んではならない。恵みは条件付きでしかない(列王記上 2:4)。
光も闇も暗さも醜さも全ては画面の中にある。

このどちらのダビデ解釈、そしてダビデを通じた信仰解釈が妥当なのだろうか?
詩的な印象派絵画のようなダビデか、散文的な明暗がはっきりしたバロック絵画のようなダビデか。

このどちらもがダビデとして聖書には書かれている。


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