士師記 10章

イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、


アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。


彼らは主を捨て、主に仕えなかった。


主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。」
‭‭士師記‬ ‭10:6-7‬



「彼らの偶像は銀や金、人の手で造られたもの。


口があっても語れず、目があっても見えない。


耳があっても聞けず、鼻があっても嗅げない。


手があっても触れず、足があっても歩けず、喉から声を出せない。



偶像を造る者はそれと等しくなる


すべて、偶像に信頼する者もまた。」


詩篇 115:4-8(フランシスコ会



キリスト教一神教なので偶像崇拝が原理的に禁止されている。そして偶像崇拝は原理的に多神教と結びついている。



多神教偶像崇拝は非常にリアルな救い、信頼できる良さ、具体的な成功、確かな達成等と結びつくのだろう。



しかしながら、あらゆるこの世の確かさは、己自身も含めて全てが塵に過ぎない。


自身が唯一であるというのと、神が唯一であるというのと、どちらが確からしいだろうか。



人間はいわば自身というプレイアブルキャラクターの一人称視点でこの世界をプレイする以上、偶像崇拝多神教に寄りやすいのはある意味当然かもしれない。


自分という唯一の存在からの視点である以上、神だろうと正義だろうと悪だろうと真理だろうと、それらが複数同時に存在していたとしても特に問題にならない、なりにくいので。

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