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ここらへんの史跡をゆく【スピンオフ編】~ 補陀洛/ふだらく

ひと月ほど前「シリーズ⑮~久能山」の文末に、私のある疑問を書いた。       


その疑問とは‥
「久能山東照宮と日光東照宮を結んだ線上に富士山があるのは何故?」

家康は一度も日光を訪れたことがないにも関わらず、自らを日光に祀るよう(久能山からの移霊) 遺言を残している。

ネットや YouTubeを見てみると‥

古来より富士山は不老長寿信仰の霊峰であった。「富士」は「不死」に通じる。家康は、亡くなって久能山に祀られた後に、「不死の道」を通って日光に遷座することで、永遠の神になることを望んだ。

ほとんどの記事がこんな趣旨だった。私も「そういうことなんだろう」とは思うが、何かモヤモヤする。

そのモヤモヤは‥ 日光東照宮は家康の死後建立されたが、その場所にはずっと前から輪王寺と二荒山(ふたらさん)神社が存在していた。久能山の歴史もかなり古いと聞いた。であれば、「久能山、富士山、日光の配置は、東照宮以外の "別の必然" があったはず」ということ。

更に調べてみた(と言っても文献を漁った訳ではなくネットで)。

久能山の歴史】  ※Wikipediaより要約
推古天皇の頃(592-628年)、秦氏にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立した。山号は補陀洛山(ふだらくさん)。奈良時代は多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。平安時代に天台宗に改宗。時は移り1568年 駿府を制した武田信玄は久能寺を平地に移転させ、この要害の地に久能城を築いた。しかし武田氏滅亡とともに駿河は徳川家康の領有となり、久能城もその支配下に入った。家康の死後1617年 遺命により久能山東照宮が造営された。

二荒山神社】  ※Wikipediaより要約
767年創建。日光三山をご神体として祀る神社。日光三山は男体山(古名を二荒山)、女峰山、太郎山からなる。その他の日光連山や華厳の滝、いろは坂も神社境内に含まれる。
「二荒山(ふたらさん)」の名の由来は、観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」から変化したものといわれ、後に空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする。空海の来訪は伝承の域を出ない。

補陀洛山(男体山)】  ※コトバンクより
下野(しもつけ)の修験僧勝道上人(737‐817)は初めて男体山頂をきわめ,782年(延暦1)日光山を開いたと伝える。以来,日光山の主峰である男体山は補陀洛(ふだらく)山,二荒山とも呼ばれ,神体山としてまた修験の霊場として崇敬された。

補陀洛(ふだらく)】   ※Wikipedia他資料要約
観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山。インドの南端の海岸にあるとされた。二世紀頃から観音信仰が大乗仏教に取り入れられるとともに、「補陀洛」は多数の経典に理想の地として描かれた。補陀洛思想は海上ルートで伝えられたことにより、東アジア各地に観音霊場として補陀洛山を成立させた。中国の普陀山、韓国の洛山、日本の熊野那智や日光などである。チベットのポタラ宮も同一語源。

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古代より久能山と日光は、「補陀洛」で繋がっていたと考える。久能山には補陀洛山久能寺があった。男体山=補陀洛山⇒二荒山(ふたら)⇒にこう⇒日光への変遷から、日光は「補陀洛」そのものと言える。

私の想像は‥  まず奈良時代より前、駿河の海沿いに補陀洛山久能寺が創建された。そしてそこから「不死の山」を越えた遠く山あいの地 日光が修験の場となったのではないか。

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古代にこれほど精度の高い測量技術があったことは驚きだが、正確に東西南北を測ることはできたはず。男体山から富士山を見晴るかすこともできるので、この地理的配置は可能だったに違いない。

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まとめ
このレイラインは、発祥(古代)は「補陀洛ライン」、そして徳川の時代になり「東照宮ライン」になったものと考えます。

このライン上には、他にも関連する史跡が遺されています。
鉄舟寺(旧 久能寺):静岡市清水区 1568年 武田信玄が久能寺を平地に移転させた際、ライン上に建立している。
世良田東照宮:群馬県太田市 1644年 3代徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓がある長楽寺の境内に創建。
土津神社:福島県猪苗代町 このラインを更に北に延ばした線上に建立。1675年創建 徳川秀忠の四男 会津藩主保科正之を祀っている。

以上、新米歴史マニアの考察です。ご意見、感想をお聞かせ下さい。

< 了 >

※現在2月26日朝 4:45。大事なことを書き忘れていました。ふとんの中で思い出し眠れなくなって、今机に向かっています。少し書き加えさせていただきます。
鎌倉市材木座にある補陀洛寺は、1181年に源頼朝が平家打倒の祈願所として建立したお寺。頼朝は、戦いに観音菩薩の念持仏を帯同したほど観音信仰が強い人物でした。鎌倉観光公式ガイドには「頼朝の供養をここですることになっていたといわれています」の記述もあります。
大の頼朝ファンの家康は、このお寺の存在や補陀洛思想をよく承知していたはず。そんな家康が、補陀洛をその名の由来とする「日光に自らを祀って欲しい」と思うのは、極めて自然な成り行きだったと考えます。

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P.S.  ハナ肇とクレージーキャッツの「ホンダラ行進曲」は1963年のヒット曲。サビ部分の「ホンダララ  ホンダララ  ホンダラホダラカホーイホイ」の「ホダラカ」は「補陀落」をもじっているそうです。作詞の青島幸男が浄土真宗の僧侶を父に持つ植木等に敢えて歌わせたのかもしれませんね。
2011年 キムタクのCM(マンダム)にもこの曲が使われていました。


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