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ここらへんの史跡をゆく⑮~久能山

一泊二日で静岡を旅した。天候に恵まれ、富士山を充分堪能できた。その感動の程を伝えるには、私の筆力が少し足りない。富士山は日本一の高さを誇る山にして、その景観に海を添えることができる類まれなる山なのだ。
ほら、神奈川沖浪裏も然り‥ そういうことです!

今回私たち (私と細君) は、焼津港、三保の松原、日本平、そしてホテルの大浴場から富士山を愛でた。   

静岡の観光資源は、富士山がぶっちぎりの第一位。
あとは食べ物。殊にマグロ、金目鯛、桜エビ、釜揚げしらすなどの海の幸は新鮮でとにかく美味しい。県外不出「さわやか」のげんこつハンバーグは相変わらず絶品だったが、私は静岡おでんを全く理解できなかった。

三保の松原からの富士

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私の note「ここらへんの史跡をゆく」シリーズは、2022年の2月「桶狭間」からスタートした。その頃はとてもヒマにしていて「ここらにたくさんある戦国時代の史跡に行ったら note のネタがなんか見つかるんじゃね?」と、始めた動機はいたって不純だった。

そもそも私の歴史への興味は薄く、知識は浅かった (今もそう変わらない)。桶狭間古戦場跡にも行ったことはなかったし、よく行くイオンモールからほど近い、桶狭間において家康が兵糧入れで功を成した大高城の存在も忘れていた。義父母のお墓があるお寺は、今川義元の首級改めをした場所で、ご本尊は今川方を供養するために駿府から奉安されたものだったことも最近知ったような訳で…

そんな私が2年あまり「ここらへんの史跡をゆく」シリーズを続けてきた。記事に歴史的な見解を述べることは避け、なるべく紀行文側に振ることを旨とした。史跡の説明は公式HPに丸投げすることも度々。ある回は、フォローしている noterさんの記事を貼り付けて「詳しくはこの記事を読んで下さい」なる荒業まで繰り出した。

本シリーズはこれまで、プロローグ編と番外編を含め16編の記事を掲載。
振り返ると、私の「ここらへん」は家康絡みがほとんどだった。岡崎~桶狭間~長篠~長久手~江戸~関ケ原等々。それらの史跡に立ち、俄仕込みの知識で古(いにしえ)に空想を巡らせる。そんなことを続けていると、だんだん私の頭の中には「私の家康」が出来上がっていった。

昨年の大河ドラマ「どうする家康」の家康(松本潤)は、ずっと「私の家康」とギャップがあった。家康だけではない。脇を固めるキャストも同様。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、真田信繁らはことごとくキャラが歪曲されていて、そこに尊敬や愛が感じられなかった。女神然とした築山殿や、あざとさを強調した淀殿の描き方にも違和感を感じっぱなしで…

私は毎回ブツブツ文句を言いながら、全48話を完全視聴した。傍らの細君は「ドラマはドラマ、そういうもの。しょうがないの。文句を言うのは野暮。嫌なら見るな!」と私はずっと叱られていた。

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閑話休題。今日も前フリが長かった。ようやく本題に入る。
静岡は徳川家康が75歳(数え年)でその生涯を閉じた場所。昨年の大河ドラマ放送の間、静岡市は「家康が愛したまち」をキャッチフレーズにしていた。岡崎市の「誕生の地」や 浜松市の「出世の街」と比較し優越感が覗く。

家康の居住地の変遷をまとめてみた (⇩)。滞在時期や滞在年数から見て、確かに静岡(駿府)は家康が最も「愛したまち」だったのだろうと想像できる。

【家康の住民票の変遷】
 岡崎 ⇒ 名古屋 ⇒ 静岡 ⇒ 岡崎 ⇒ 浜松 ⇒ 静岡 ⇒ 東京 ⇒ 静岡
 住んだ街は5箇所。 引っ越しは7回。
 場所別のおおよその滞在年数は以下のとおり。
      岡崎(三河) ・・・ 11年
      名古屋(尾張) ・・・ 2年
      静岡(駿府) ・・・ 26年
   浜松(遠江) ・・・ 19年
      東京(江戸) ・・・ 15年

家康は自らの死後の扱いに関して以下の遺言を残した。
 「臨終候はば御躰をば久能へ納 (遺体は駿府の久能山に葬る)」
 「御葬禮をば增上寺にて申付  (江戸の増上寺で葬儀を行う)」
 「御位牌をば三川之大樹寺に立 (三河の大樹寺に位牌を納める)」
 「一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて勧請し候へ
         (一周忌を過ぎてから日光に小堂を建てて分霊する)」

遺言通り死去からすぐ、家康の遺体は久能山に埋葬された。そして一周忌を過ぎた後日光に分霊されている。遺体の在り処については議論が尽きないようだが、「日光に運ばれた神柩の中に遺体はなかった」が現在の有力説とWikipedia に書いてあったので、私はその説を採ることにする。

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まず私たちは久能山東照宮に向かった。海側の表参道口に着くと、鳥居の向こうに切り立った山があり、その山肌にへばり付くように九十九折の石段が上に延びている。頂上付近に神社らしき建物が見える。どうやらあれが目指す場所のようだ。駐車場のおじさんに訊ねると「1159段の石段で200mほど上ったところに社殿がある」「無理なら車で北側の日本平へ行きそこからロープウェイを下って行く方法もある」と言う。私は日本平へ向かうことを即断した。1159段は絶対無理。

ぐるりと大きく北に回り込み、標高307mの日本平からロープウェイを使って久能山東照宮に入った。日光東照宮よりも小ぶりで派手さも控えめだが、建物には細密な装飾が施され、静謐で荘厳な空気に満ちていた。

楼門を潜り拝殿~正殿へと石段を上って行くと、宮内最頂部に神廟がある。この石造宝塔の下に家康が眠っている(と私は信じる)と思うと、少なからず感動を覚える。私ごときが言うのも何だし今更ながらなのだが、私は家康に「お疲れ様」と呟いて手を合わせた。

どこかで誰かが「久能山は徳川家康を祀る関係者向けのプライベートな墓所で、日光は神格化された東照大権現を祀る一般向けのテーマパーク」と書いていた。分かり易い説明だと思うがいかがでしょう。

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翌日は駿府城跡を見学。静岡領内で「さわやか」のハンバーグに満足した後、県境を越え帰路についた。

< 了 >


以降しばらく画像とキャプションが続きますが、一番最後に私が解けなかった疑問を書いています。どなたかお教え下されば嬉しく存じます。

江戸時代の絵図 急坂を上った頂上付近に久能山東照宮の社殿がある
絵では省略されているが 麓の鳥居と楼門の標高差は約200m 1,159段の石段を上る
日本平からロープウェイで高低差100mを下って久能山東照宮へ 所要時間約5分
久能山東照宮から日本平を見上げる
久能山東照宮 楼門
久能山東照宮の最も奥 最高部にある神廟 ここに家康公の遺体が葬られている(有力説)

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 駿府城跡 現在天守台の発掘調査が行われている
駿府城本丸跡に立つ徳川家康公之像

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「さわやか」のげんこつハンバーグ 店舗展開は静岡県内のみ

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【疑問】

久能山東照宮と日光東照宮を結ぶライン上に富士山の頂上がある

久能山と日光を結んだライン上に富士山の山頂が位置するのは何故?
 ① 単なる偶然
 ② 久能山と富士山を結んだラインの先に日光の輪王寺や二荒山神社(これらは奈良時代の創建)があったので、その隣に日光東照宮を建てた。
 ③ 日光と富士山を結んだラインの先に久能山東照宮を建てた。

教えて下さい!

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