見出し画像

エンタメ異人伝 Vol.9 小山順一朗(a.k.aコヤ所長)

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

今回はバンダイナムコエンターテイメントに於いて、様々なアーケード向けゲームコンテンツをプロデュースし、現在は、8月に新宿ミラノ跡に開業したVR ZONE SHINJUKUでのコンテンツをプロデュースする小山順一郎氏にお話を伺いました。幼少期から現在に至るキャラクターやコンテンツへの熱い愛と、未来のエンタテインメントへの強い想いを伺いました。

※注意)2017年 エンタメステーションに掲載されたインタビュー取材記事を復刊させてものです。

本文はすべて無料公開です。このゲーム考古学を支援いただけるかたのみ、有料部分「あとがき」を購入いただければ幸いです。

 ■キャラクターブームの洗礼と没入の始まり

写真 幼稚園年長期(左)

――今日はよろしくお願いします。小山さんは何年のお生まれで、ご出身はどちらでしょうか。

小山 1966年生まれです。ビートルズが来た年です。出身は静岡県の沼津です、ハイ。

――幼少期はどのような環境で過ごされていたのでしょうか。

小山 来ましたね。じつは自己紹介含めて作ってきたんです。ハイ、これが小学生のときです! 仮面ライダー!

小学1年生当時

小山さんは今回の取材のためにいろいろ準備をしてくれていたようで、まず仮面ライダーのポーズを取る自身の小学生時代の写真と当時の学校の成績をモニターに表示。それによると成績は国語4、算数4、理科5、社会4、音楽2、図工5、体育5、100メートル走の記録は12.8秒であった。

――これはすごい(笑)。成績優秀ですね。

小山 音楽とかは全然ダメですけどね。

――いや、でも一様に成績は非常に良いじゃないですか。100メートル12.8秒も速いですし。

小山 ちょっと自慢かな(笑)。

――やはり、仮面ライダーをはじめとしたテレビの娯楽番組をよく見ていたんですか?

小山 もちろんです。テレビゲームはまだない時代ですから。仮面ライダーの光る回る変身ベルトも持っていました。バンダイです! ポピー時代ですね(注1)。小学校1年生の頃はミクロマン(注2)とか超合金にもハマっていました。

注1:1971年にバンダイグループのキャラクター玩具専業メーカーとして設立された会社で、超合金などを手がけたことで知られる。1983年のグループ再編時にバンダイ本社に吸収合併となった。

注2:タカラ(現タカラトミー)から発売されたサイボーグの小型フィギュアのシリーズ。バリエーションが豊富で70年代に子供たちの間で大ブームとなった。

――この頃からバンダイの洗礼を受けていたわけですね。

小山 ミクロマンはタカラトミーですけどね(笑)。当時は、キャラクターグッズの全盛期でしたね。幼少期はブルマァク(注3)の怪獣ソフビなども持っていました。エレキングの目が取れて穴だらけになったり。あと、仮面ライダーカード! ライダーカードについては、まさしくあの事件(注4)を起こすような子でしたね。

注3:『ウルトラマン』シリーズの怪獣ソフビ人形を販売していた玩具メーカー。同社の怪獣ソフビは当時大人気だった。

注4:仮面ライダーカードは「仮面ライダースナック」というお菓子のオマケだったのだが、スナック購入後にカードだけ取ってスナックは捨ててしまうという行為が続発したことから社会問題となった。

――そうだったんですか。カードだけは取っておいて中身はポイって感じでした。すみません。お店の人もよく売ってくれましたよね。当時は良い時代だったかも知れないですね(苦笑)。

■VRに繋がる?!『人造人間キカイダー』3D映画鑑賞

――他に熱中されていたものはありましたか?

小山 映画の東映まんがまつりとか行きましたね。『人造人間キカイダー』を赤青メガネの立体視で見たのを覚えています。今のVRにつながっていますね。とにかく、そういうキャラクター商売に乗っかりまくりました。

――その洗礼をモロに受けた世代だったわけですね。

小山 ハイ。みんながキャラクターグッズを卒業していっても、自分だけは買い続けてました。だいたい普通は小学校3年生くらいでやめちゃうんですよね。「ジャンボマシンダー(注5)買ったぜ!」とか友達に言うと「バカじゃねえの?」って。でも、自分はまったく卒業しませんでしたね。もう大好きで、大好きで、超合金もいっぱい集めて。

注5:ポピーが発売したマジンガーZのポリプロピレン製のフィギュア。全長60センチという巨大さが人気を呼んだ。

――超合金とかけっこう高かったと思うのですが、お小遣いはどうされていたんですか。

小山 僕が小学生になる前くらいに両親が離婚しちゃったんですね。それで、母の実家で暮らしていたんですが、一緒に住んでいたおじいちゃんとか叔父さんとかが、けっこう甘やかしてくれて。好きなものを好きなだけ買ってもらってました(笑)。駅前に美容室をかまえていたので、ものすごく潤っていたみたいです。

中学校時代の同級生と(向かって右から二人目

■圧倒的な完成度!『宇宙刑事シャリバン』のオマージュ映像

――ちなみに、ご兄弟は?

小山 弟がひとりですね。今は千葉で建築関係の仕事をしていますが、高校3年生の頃に兄弟で『宇宙刑事シャリバン』のビデオとか作ったりしました。叔父さんがビデオカメラを持っていたので、それをコソコソっと借りて作ったんです。宇宙刑事の服もボール紙で作って。今でいうコスプレですよね。今でも動画が残ってますよ。

#特撮ムービーから  改造人間手術のシーン

弟さんと撮ったという特撮動画を見ることができたのだが、全身スーツを着込むなど、思った以上にコスプレが本格的で驚いた。美容室のマネキンを使って改造手術のシーンを撮ったり、戦闘シーンにBGMを付けていたりと映像もかなり凝っていて、当時の小山兄弟の熱中ぶりがうかがえる。

――そういうことに関して、すごく寛容な環境だったんですね。それが今に繋がっているんでしょうね。

小山 小学5年生のころはスーパーカーブーム。スーパーカー消しゴムも段ボールがいっぱいになるくらい持っていました。

――そんなに持っていましたか。やっぱりケタが違いますね。

小山 今考えたら、よくないですよね。あとラジコンブーム!

■スーパーカー、ラジコン、プラモデルへの傾倒からマイコンブームへ

――この頃のラジコンって、すごく高かったですよね。

小山 高かったですよ。タミヤのセリカターボのラジコンを自作しましたが、プロポ代とか全部合わせると4万円くらいしました(※)

※パワポに映っていたタミヤのセリカLBターボの発売時の本体価格が12000円で、当時のプロポが2万円前後だったので、だいたい小山さんの記憶どおりです。

――すごいなあ~。僕が小学生の頃はちょうど京商とかが出てきたときで、もっと高かった印象があります。だから、僕は買えなかったですね。

小山 ヤマトのプラモデルも作ってました。イメージモデルというんですけど、船首の形がラッパみたいで不評だったんですよね。なんでこんなの出すんだ~って。

――(「コンピューターの片鱗に触れる」というスライドを見て)これは何歳くらいのときですか?

小山 小学6年か中学1年くらいですね。半田ゴテでトランジスタとか使って、お風呂ブザーを作ったりとか。ビーとかブーとか鳴るだけの、ありましたよね?

――ありました。確かにこの時代にすごく流行りましたよね。何かきっかけがあったんですか?

小山 本が好きで図書館で週に6冊くらい借りて、かたっぱしから読んでいたんですね。その中にコンピューターとかマイコンとかっていう言葉があって、「これはなんじゃらホイ?」と。それで、沼津に1軒しかないラジオセンターみたいなショップに行って、店のオジサンに「この回路をやりたいんだけど」とか相談しながら作っていました。電子ブロック(注6)も流行っていたんですが、あれは軟弱だなあと思ってましたね(笑)。

注6:学研から発売された電子回路の基礎が学べるキット。電子部品や配線が組み込まれた半透明のブロックを組み合わせることで、さまざまな電子実験を行うことができる。

――まあ、あれは組むだけですもんね。

小山 そうそう。友達んちであれこれやったんですが、すぐ飽きちゃって。「自分で全部作れんじゃーん」みたいな。

――半田づけから何から全部自分でやっていたわけですか。

小山 そうです、そうです。それで、2進法とか知るわけです。本を読みながら「フェライト磁石が黒と白にこう……あ、こうなっているんだあ」とか、いろいろ構造を知ったりして。そういうのが好きでしたね~。

――当時の静岡の沼津で、これだけのエンターテインメントを浴びるように体験できた家庭は珍しかったんじゃないですか?

小山 かもしれないです。東京から転校生がきて、「(お父さんは)なんのお仕事をしてるの?」、「セールスマンです」ってなったときに、みんな「うわ~、すげえ!」、「〇〇マンだぜ!?」みたいになってました。漁師とか農家の子がほとんどで、親が会社勤めの人ってクラスにほとんどいなかったですからね。

――そういう時代ですか。

小山 そういう時代です。ちなみに、彼はそのあと私立の中学に行きました。当時は私立中学に進む子は学校で200人中1人くらいしかいなかったです。そんな田舎だったんです。

――小山さんは公立ですか?

小山 はい。田舎なので中学で私立っていう選択肢はなかったんですよね。私立に行く人間が出てくるのは高校からでした。

――ちなみに、成績は維持できていたんですか?

小山 その当時はあまり勉強をしなくても、ちょっと塾に行くだけで何とかなってました。周りで塾に行っている子もあんまりいなかったですからね。

――中学生ではやっぱり『ガンダム』ですか。

小山 特にガンプラです。中学2年のときかな。あのときのガンプラブームは半端じゃなかったですね。『HOW TO BUILD GUNDAM』っていうホビージャパンの別冊が出て、みんなものすごい夢中になってました。近所の模型店にはしょっちゅう通っていましたね。ジオラマを作って店に飾ってもらおうと持っていったり。もちろん、アニメの方にもハマっていて、映画を見るために前の日の夜から並んだりしました。

――え、中学生ですよね? よく許されましたね。

小山 ねえ。中学3年生のときです。封切の前の日に行くと特別にフィルムのカットしたところをもらえたんです。で、世話係みたいなお兄さんたち、今でいうオタクの先輩たちがいて、「ここに並ぶんですよ~」とか言うんです。それで、『ガンダム』の音楽をかけながらみんなで一晩中並ぶ。

――すごい情熱ですね。ひとつのジャンルとか、ひとつのモノに関わると徹底的に突き詰めていくような感じがします。ずっとそうだったんですか?

小山 そのときに流行りそうなヤツに飛びついていただけです。でも、こうしてみると、いわゆるスポーツは何にも出てこないですよね(笑)。

■正月の夜、暴走族に追いかけられた思い出…

 ――スポーツは特にやらなかったんですか?

小山 得意だったんですけど、「みんな、やってるし」みたいな感じで。ただ、沼津だったので釣りはよくやっていました。これもハマるっていうより『釣りキチ三平』(注7)ブームに乗っかっていただけですけど。家の前が釣り具屋だったので、毎日行って矢口先生の本を読んでは友達と釣りに行っていましたね。

注7:週刊少年マガジンで連載されていた矢口高雄原作の釣りを題材としたマンガ。アニメ化もされ、子供たちの間で釣りが大人気となった。

釣りは現在も趣味として行っている

――海ですか、川ですか?

小山 両方です。あと、事故があって行っちゃいけないって言われていた沼とかね。

――いろいろ危ない話が多いですねえ。

小山 危険な遊びは山ほどしました。近くにあったスマートボール場が潰れまして、廃墟になってしまって、そこに友だちと忍び込んで冒険したりとか、さっき、弟と宇宙刑事のコスチュームを作った話をしましたけど、自転車も改造して、ふたりで正月の夜の町を走り回って暴走族に追いかけられたこともありました。

――えぇ、暴走族に?

小山 はい。「やべえ、捕まったら死ぬ」となって、そのまま河原の土手に逃げて隠れたんですが、弟とはぐれちゃって「あいつ死んだかな?」みたいな。それで、後で合流したときに「おお、生きてたか」って(笑)。

――はあ~~ホントにいろいろやってますねえ~。オタク系ですけど、ちょっと違うタイプのオタクですよね。

小山 そうですね。僕が中学3年のときにコミケが始まって、晴海(注8)でそういうのをやっているらしいみたいなことは聞いて知っていましたけど、「あんなのに行っちゃダメだな」みたいに思っていました。

注8:初期のコミケは晴海の東京国際見本市会場で行われていた。

――そこまではやっぱり距離がありましたか?

小山 いや、「群れちゃダメだ」みたいに思っていたんです。オタク同士が集まったら、なんかエラさが決まっちゃうじゃないですか。これは知ってるか、あれは知ってるか、みたいな。そういうのがヤだったんでしょうね。

――でも、多分参加していたらしていたで、きっとえらくなっていたと思いますよ。

小山 いやいや、好きなようにやりたかっただけです。いつ飽きるかも分かんないですし、そういう仲間に拘束されるのもヤなので勝手にやってましたね。

――(モニターに『インベーダーゲーム』が表示される)おお、『インベーダー』ですね。

小山 『スペースインベーダー』は中学1年のときです。子供は行っちゃいけないってやつですね。『インベーダー』をやっているっていう友達が現れ始めて、「なんだそりゃあ」となったときには、もう補導員たちがウロウロしていて「中学生は補導されちゃうぞ!」って。

――でも、やっていたんですよね。

小山 もちろんです。大人が背中を丸めて100円玉をいっぱい積んでやっている中に、中学生4人くらいで入っていって。すみっこの方で『インベーダー』じゃない、ニセモノみたいなのをやらせてもらっていました。当時は『スペースアタック』とか、『スペースインベーダー』の亜流がいっぱいあったんです。

――ありました、ありました。

小山 そうやって遊んでいると、台を空ける空けないで大人同士のケンカが始まったりして。警察が来たので、みんな逃げちゃいましたが、20歳すぎた大人たちが暴れるのはすごい怖かったですよ。

■テレビが「観る」ものから、「動かす」ものへと変化した時代

――インベーダーハウスとかインベーダー喫茶とか雰囲気が怖かったですよね。

小山 大人のものでしたよね。今のビリヤードとかダーツみたいな感じでした。

――初めて見たときは、やはりすごい衝撃がありましたか?

小山 テレビゲーム自体はすでに『PONG(ポン)』(注9)的なものがあったじゃないですか。あと、ボウリング場とかに置いてあった投影式のドライブゲームとか。

注9:1972年にアタリが発表した黎明期のテレビゲーム。ネットを挟んでラケットを上下に動かしてボールを打ち合う。

――ありましたね、『スピードレース』(注10)とか。

小山 そういうのが出てきているのは知っていましたが、画面の中のものを自分で動かせるってところは衝撃でしたよね。テレビは見るものだったのに自分が動かすものになったっていう。

注10:1974年にタイトーが発売した見下ろし型のレースゲーム。ハンドル、アクセルでの操作やギアチェンジなどが可能になっていた。

――なるほど、確かにそのとおりですよね。

小山 すごい衝撃的でしたよ。それで、テレビゲームもやっぱり買ってもらったりして(笑)。

――いろいろな機種がありましたけど、何を買ってもらいましたか?

小山 ええとね……オートバイを運転をして「ピョン」ってジャンプするゲームなんですけどね…。なんだっけ、あれ? とにかく、それだけしか遊べないヤツです。つまんねえなあと思って、すぐ飽きちゃいましたね。

■みんなの溜まり場-ゲームセンター小山 エピソード

――パソコンの方にはいかなかったんですか?

小山 さすがに値段が高すぎました。1色で表示するタイプでも15万円、8色のカラーなら25万円ですよ? 高校生のときだったんですけど、これはさすがにね。母子家庭だし、買ってくれとは言えなかったです。持っているのもクラスに1人か2人くらいでしたね。それで、その友達の家に行って遊ばせてもらいました。

でもね、映像がボロいんです。『ゼビウス』はゲームセンターで本当によくやってましたけど、25万円(パソコン版)のほうは……。『マッピー』なんてアイテムの金庫とかが「キンコ.」っていう文字ですからね。しかも、カッ、カッ、カッとしかスクロールしない。

――1回でも多くやりたいってなっていましたね。

小山 FL管(注11)や液晶のゲームはすごい持っていましたね。『パックマン』とか、『ギャラクシアン』とか、任天堂の『ゲーム&ウォッチ』とか。バンダイからもガンダムのゲームとか出ていましたよね。ああいうのをいっぱい持っていたので、友達が家に来てよく遊んでいました。

注11:電子機器のデジタル表示部分などに使われていたもので蛍光表示管ともいう。当時はこのFL管を使って表示する電子ゲームが人気となっていた。

――みんなが集まってくるたまり場みたいになっていたんですね。

小山 そうですね。「ゲームセンター小山」っていってましたね。

■日大理工学部在学中はハイテクセガランドでアルバイト

 

大学生の頃 右

――大学はどちらに行かれたんですか?

小山 日大理工学部です。

――やっぱり理工系というか科学系を勉強したいっていうのがおありになったんですか?

小山 文系はまったく興味がなかったです。だって歴史とか覚えるだけじゃないですか。でも、数学とか理科は理屈を覚えれば応用がきく。あとゲームとかアニメとかSFとかが大好きだったので、どっちにしても文系にはいかなかったと思いますね。

――日大を選ばれたのは何か理由があったんですか?

小山 それはね、10個受けてそこしか受からなかったからです(大笑い)。

――そういうことかなとは思ったんですけどね(笑)。

小山 ハハハハ、そうです、そうですよー。

――僕もそのクチなので、よく分かります。やっぱりいろいろお受けになったんですか。

小山 受けますよね、この時代は共通一次試験(注12)があって、そのあと私立を受けてっていう。でも、やっぱり田舎でオタクで遊んでばっかりいたら、それなりの成績にしかならないので。それでまあ日大しか受からなかったと、ハイ。

注12:現在の大学入試センター試験にあたるもの。当時は国公立大のみが対象で私大の入試はたいてい共通一次と国公立の本試験である二次試験の間に行われていた。

――大学時代はいかがでしたか?

小山 すっごい自由でしたね。ファミコンブームがちょうどきていて、入学と同時くらいにファミコンを買って、その当時、持っていたお金はファミコンソフトとゲームセンターにすべてつぎ込みましたね。

――すべて!?

小山 すべてつぎ込んで、ソフト全部揃えましたね、ワハハハハハハ(大爆笑)。

――すごいですね、それは。アルバイトは何をされていたんですか。

小山 ゲームセンターの店員です。西葛西のハイテクセガランドで働いていました。なので、アーケードゲームもバリバリ遊び倒しました(※)。

■『スペースハリアー』はワンコインで全クリはあたりまえ!

 

 ――特によくプレイしたのは何ですか?

小山 『スペースハリアー』はよくやりましたね。ワンコインクリアできるテクになってたので、店の制服を着たままずっとやってて、酔っ払いサラリーマン達に「お兄ちゃんすごいね!」ってほめられてました。今では出来ないでしょうけど、一応バイト誌の募集には「ゲームインストラクター」って書いてあったんで(笑)。もちろん、掃除とか店の業務もちゃんとやってましたよ。

――では、その頃から完全にビデオゲームにのめり込んでいた感じですか。

小山 メッチャメチャ、のめり込んでました。いろんなジャンルを片っ端から全部やりましたね。クソゲーも全部やりました。コレクター状態になっていたので、セガマークIIIもPCエンジンも、とにかく集めまくってました。

――全部買って持っていたんですね。

小山 そうですね。『ドラゴンクエストIII』はいいぞ、いいぞと友達には言うけど、あれだけ人気なら、あとからでも手に入れられるから、今は別のソフトを、買うみたいな。ひねくれてますね~。

注12:当時放映されていた同名アニメのキャラクターゲーム。『ロックマン』に似たタイプのアクションゲームで、とにかく難易度が高い。

――みんながやっているものよりエッジの立ったやつをと。面白いですね、その感覚は。

小山 だって、今手に入れておかないと多分消えちゃうんで。マークIIIのソフトは流通量も少なかったですし、今のうちに確保しておこうと。セガの3Dシステム(注13)が出た、FMサウンドユニット(注14)が出たと、次から次へとゲットしてましたね。

注13:対応ゲームを立体映像で楽しめるようにするサングラス型の周辺機器。

注14:セガマークIIIの周辺機器で対応ソフトのサウンドが標準音源にFM音源を加えたものになる。

――へえ~、面白いですね。

小山 「ファミコン改造マニュアル」を読んでハードを自分で改造とかもしていました。理工学部で研究室にいろんな機材が揃っているんで、好き勝手に改造できたわけです。例えば、ファミコンをRGB出力ができるようにしてみようとか。今だったらきっとデータを吸い出して改造とか、エミュレーター的なこともやっていたでしょうねえ、アハハハハ(笑)

――まさか、本当に今やっていたりしないでしょうね。

小山 グカァ~(寝たふり)……いや、今はやってないです、やってないです。

■就職活動 第一希望はバンダイ

入社当時の写真

――でも、本当にゲームがお好きだったんですね。

小山 そうですね、本当に好きで……でも、ついに就職活動のときが。4年間テレビゲームにすべて注ぎ込んでいましたから、成績は250人中248位でしゅーりょーみたいな。4年生なのにまだ1年のドイツ語とかやってましたからね。

――卒業はできたんですか?

小山 できました、できました。留年もしていません。就職ももうナムコに決まってましたし。バンダイも受けたんですよ。第1希望がバンダイ、第2希望がセガ、第3希望がナムコでしたね。

――バンダイを志望されたのは、やはりガンプラとかをやりたかったからですか?

小山 そうですね、オモチャもやりたかったです。バンダイってゲームからオモチャから何でもやれる気がしたんですね。キャラクターも大好きでしたし。でも、書類選考であの世行きでした、アハハハ。

教授がちゃんと推薦してくれなかったんですよね。セガもダメって言われたんですよ。あそこは外資系だから危ないぞとか。そんなに推薦してくれないんだったら、やめようと。それで、ナムコにしたわけですね。

――当時のナムコはどうでしたか?

小山 2部上場するかしないかくらいのときでした。当時は世の中バブル景気だったので誰でも入れたと思います。就職先はどこでも選べる夢の時代でした。

――さすがに誰でもということはないでしょうけど…。

■「ゲ-ム会社なんていつ潰れるか解らないから止めておきなさい」

小山 はい。そのときの友達も仕事選びの基準が「大企業か」でしたからね。理工学部の精密機械工学科なので、みんなやっぱり三菱重工とかIHI(石川島播磨)とか自動車関係に就職が決まっていくわけです。もう大手に入ると安心みたいな感じでした。でも、自分はゲームが好きだったので。

――教授が難色を示したということでしたが、やっぱり「ゲームなんか」みたいなことを言われたんですか?

小山 言われましたよ~。「いつ潰れるか分かんない」とか「そんなピコピコやってる会社なんか行くんじゃねえ」とか「世界の役に立たないだろ」とか。

――まだ、世間では認められてなかったですよね。

小山 ゲームセンター=不良のたまり場ってまだ言われてましたし。ファミコンも出版会社とか貿易会社とか、いろんなところが参入してきていましたが、売れないとすぐに潰れたりするような。ちょっと前のスマホ業界みたいな状態だったので、そんな不安定なところ行ってどうすんだって、すごい言われましたね。それで、悩みまくりましたけど、これからは自分の力で生きていかなきゃならないわけで、だったら好きなことをやろうと決心しました。

――当時のナムコは故・中村雅哉さん(注15)が社長の頃だと思うんですけど。

小山 そうです。

注15:ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)の創業者。ゲーム業界においては立志伝中の人物。

――僕も中村さんのいろんなエピソードを聞いていて、けっこう保守的なところもあれば、社員の熱意によっては「ああ、いいよ」っていうところもあるという。何か中村さんのかけ声ひとつで会社が動くみたいなところがあったそうですけど、実際どうでしたか?

小山 思いっ切りトップダウンの会社です。それで、開発には優しく営業やロケには厳しい。

■ナムコの秘密兵器?謎の筐体「忘我(ぼうが)」で気絶

――中村さん自身がモノづくりの人でしたからね。

小山 で、金勘定は厳しい。当時のナムコはゲームセンターのほうを営業、セールスは販売って呼んでいて、販売には特に厳しかったですねえ。どんな方法でも売ってこい、みたいな。

『ボウガ』という装置を作っていたのも覚えています。「我を忘れる」って書いて『忘我(ボウガ)』。なんか真っ黒い機体で風とか匂いとか出るヤツで、入社1年目の自分がそこに座らされたんですが気持ちよくてすぐに寝てしまって5分で意識がなくなりました(笑)。

――ええ~、5分で!?

小山 ハッと気がついたら「はい、もう昼休み終わってるよー」って言われて、「はあ~、何だこりゃあ」みたいな。

――当時、シンクロエナジャイザーっていう目の周りが光ってリラックスさせるみたいなのありましたよね。

小山 はいはい、クルクルクル~って回るやつですよね。ありました、ありました。

――それに近いものですか?

小山 近いものだとは思いますが、装置としてはもっと大がかりなもので、もう5年も研究しているって言っていました。研究自体を止めるか止めないかっていう寸前の頃で、新入社員だからということで実験台にさせられたんですね。

――それは寝ちゃうくらい気持ち良かったんですか?

小山 今考えるとなんで寝ちゃったんだろう? 風とか匂いとか感じなくなって音も聞こえなくなって。

――面白いものがあったんですねえ。ちなみに、それはいつの間にかプロジェクトとしてクローズしちゃったんですか?

小山 そうですね。今ではもう、覚えている人もほとんどいないと思います。

■アーケードゲームの世相が変わり始めた1990年代

――ナムコに入社されてメカエンジニアに配属されたわけですが、ご自身の希望だったんですか?

小山 いや、企画職を希望していました。でも、90年から体感ゲームブームがわき起こっていて、ナムコも花と緑の万国博覧会で大型の『ギャラクシアン3』(注16)を出展したりとか、ユーノスロードスターと提携してポリゴンを使ったユーノス・ドライビングシミュ―レターを作ったりとかしていたので、メカエンジニアが足りてなかったんですね。それで、理工学部で精密機械をやっていたということで、入ってすぐそこに配属されました。

注16:1990年に大阪鶴見で開催された国際博覧会。ナムコは28人同時プレイと360度マルチスクリーンを採用した『ギャラクシアン3』を出展した。

――あの時代、セガの『ハングオン』や『バーチャレ-シング』などから始まった体感ゲームが一大人気になっていましたね。ナムコさんで言えば『アルペンレーサー』もそうですよね。

小山 そうですね。一番最初にセガさんの『ハングオン』、『スペースハリアー』があって、『アウトラン』が出た頃に『ファイナルラップ』。あれがナムコの最初の体感ゲームですね。で、[澤井1] ポリゴンを初めて使った『ウイニングラン』を作って、ヘリコプターで上下する『メタルホーク』があって、そのときに、「こりゃあナムコもいいなあ」と。(セガに)追いついてきたなあって思って、最終的にナムコに決めるきっかけになりました。そういうゲームセンターが遊園地みたいになっていく瞬間でしたね。

――大学生や社会人が遊んだりとか、女の子が一緒に見に来たりとか。多分あそこでゲームといいますか、アーケードの世相が変わったんですよね。

小山 ゲームセンターからアミューズメントパークへ、みたいに言われてましたね。ちょうど僕が入社したころに、ハイパーエンターテインメント構想っていうのがナムコにあって。それで『ギャラクシアン3』みたいなのとか、ワンダーエッグ(注17)につながっていくんですね。

注17:ナムコが運営していたテーマパークで1992年に開園。ゲームメーカーが運営する日本初のテーマパークとして話題を呼んだが2000年に閉園となった。

――ワンダーエッグ、懐かしいですねえ。

小山 遊園地をやりたいっていう中村雅哉の夢を実現しようということになって東急二子玉川に作ったんですよね。入社して1、2年目でメカエンジニアとして、その中のものをバリバリ作っていました。

■毎日が苦痛だった新人時代を振り返る

――(入社直後「毎日が苦痛」、「毎日叱られる日々」というスライドを見て)当時はこんな感じだったんですか?

小山 大学で勉強していなかったんで図面も書けなかったんです。ただね、やっぱり1個任せてもらうと、どんどんできるようになるわけです。そのとき最初に作ったのが『スティールガンナー』で、次が『シュータウェイII』。クレー射撃のゲームで、当時は入社2年目のぺーぺーだったんですが、その心臓部を任せてもらいました。しかも、中村雅哉の直命です。そのゲームの原型自体は15年前の商品なんですよね。それを、その当時の1991年の力で作れってことになって。しかも開発は半年でやれって。

――半年とは厳しいですね。

小山 そのとき、自分の大恩師である大杉さんというメカのプロフェッショナルに手取り足取り教えてもらって、それで仕事が楽しくなったんです。ホント、あれがターニングポイントでしたね。

――でも、自分で全部作るっていうのはプレッシャーもあったんじゃないんですか?

小山 プレッシャーを感じる余裕もなかったですね。3日連続徹夜とかしてましたから。今だったらブラック企業ですよね(笑)。

――今はなかなかできないですよね。そこで任せてもらったことで、小山さんののびしろが広がった感じですか?

小山 そうですね。図面を書いて、それがすぐモノになる。電気のエンジニアとふたりで組んで、どんどん作っていくっていうのがすっごい楽しくて。しかも、当時はCADもなくて、みんな手で計算して書くので、ひとつひとつ全部自分で作ったっていう実感がすごいありました。

■筐体の中で本当に走っている『エースドライバー』の心臓部

――いい時代ですけど大変だったでしょうね。

小山 大変でしたねえ。でも、そういうモノづくりの本質みたいなものに、そこで触れたおかげで、体感ゲームの心臓部を任されるようになったんですね。『エースドライバー』っていうレースゲームも自分が作りました。あれの心臓部はすごくてですね。簡単に説明すると「本当に走って」いるんです。

――「本当に走っている」とは、どういうことでしょうか?

小山 はい、中で鉄のドラムにタイヤをつけてグルングルン回して、ハンドルを切るとそのタイヤも曲がるようにしたんです。だから、本っ当に走ってるんですよ。そのとき、初めてアメリカ出張をしまして、当時のAMOAショウ(注18)でアワードを獲ったんですけど、外国人の人から「これはなんなんだ、Gフォースを感じるぞ?」と言われて、「重力を制御してるんです」なんて答えてました(笑)。

注18:アメリカで開催されているアミューズメント、音楽、ファミリーエンターテインメント機器等の展示会。正式名称はAmusement and Music Operators Association show。

――本当に中で動かしていることによって、そのように感じるわけですね。

小山 そうですね。アナログレコードの音はCDより本物の音に近いなって思い込んでしまうようなものです。細かな制御を自分たちであれこれ考えて組まなくても、人間はナマのままだとナマで感じるんだっていうのがありますね。

――なるほど、すごい(感心)。

小山 そのあとも『アルペンレーサー』や『アクアジェット』を作ったりとか、いろいろやりましたね、うん。いっぱい作りました。

■リメイク・リブートの本質と効率化のせめぎ合い

――『シュータウェイ』の話に戻るんですけど、それってちょっと今に通じるところがありませんか? 例えば、『プロップサイクル』(注19)のリブートが今あるとか。横井軍平さんもそれに近いことを言っていますが、過去の作品を今風にリブートとかリメイクするというのは、当時のご自身が体感されたものだったのでしょうか。

注19:自転車型の筐体に乗って、ペダルをこぐことで人力飛行機「ラペロプター」を飛ばすナムコの体感ゲーム。

小山 『プロップサイクル』を『ハネチャリ』にしたっていうのとはまた違っていて。『シュータウェイ』はオリジナル版の構造が本当にすごかったんです。コンピューターを一切使っていないのに、ちゃんと制御するんですね。カムが何重構造にもなっていて、それを単純化するっていうことについての、その効率の追求みたいなことをいち早くやっていたんです。

ただ、これはあんまりいうとアレなんですけど、ナムコってメカエンジニアも昔の先輩の技術やテクノロジーを受け継いで、それを工夫してモノを作らなきゃダメだっていう風潮があって。世の中にある最新のデバイスとかを使って、それと似たようなことを表現したらアカン、みたいな感じがあったんです。

――いわゆる旧ナムコイズムみたいなものがあったんですかね。

小山 あったんです。引き出しのレールを使って、夏休みの工作的に『コズモギャングズ』(注20)を作ったりとか。今あるテクノロジーで効率よく作ろうっていう、横井さんの「枯れた技術の水平思考」的なことをすでにやってたんですね。「あんなことしなくても、これでできるじゃん」みたいな。

でも、自分は逆のタイプだったんですね。自分の設計に基づいて、商社とかに心臓部の制作を発注して。「こういうのできない? うまくいったら500台、最終的には2500台までいくかもしれないですよ~」とか言って、安く作ってもらったりしたんですが、上司にえらい怒られまして。「なんで自分でやらないんだ!」みたいな。ズルしてるとか、楽をしてる的なことをよく言われましたけど、自分的には「楽じゃないよー」と(笑)。本当にどうしようもないところは自分たちでやらなきゃいけないですけど、プロがいるなら任せられられるところは任したほうがいいじゃんって思ってました。

注20:次々に迫りくるモンスターたちを光線銃で撃っていくエレメカタイプのガンシューティングゲーム。

■株式会社ソニー 久夛良木健 部長の来訪

――『アルペンレーサー』と同じくらいの時期に家庭用で初代プレイステーションが出て、『リッジレーサー』が新しい時代のバーチャル・リアリティーの幕開けみたいに言われたんですよね。

小山 そうです、そうです。初代の『リッジレーサー』はテクスチャーマッピングが貼られた初めての作品だったので業界みんなが驚いたんです。そういえば『アルペンレーサー』を作ってたときに久夛良木健さんが来ましたよ。当時は部長でしたね。

――久夛良木部長でしたか!

小山 開発室にやってきて、「ナムコさん、すごいんですねえ」みたいな感じだったです。多分、まだ任天堂とソニーが一緒にやってた時期です。ソニーが自分たちだけでプレイステーションを立ち上げる2年くらい前でしたね。

――その時代ですか。プレイステーションが出てきたときはどう思われましたか?

小山 もう体感ゲームは終わるなって思いましたね。もう自分たちの技術とか言ってたらヤバいぞと。

――家庭用ハードがここまできたということに、業務用のエンジニアとして、すごい危機感を感じたわけですね?

小山 そうです。レポートも書いて出しましたからね。もう無理だ、止めたほうがいいみたいな。もう堅いものも柔らかいものも全部表現されちゃうぞーと。すぐに『バーチャファイター』も出てきましたし。思いっきり危機を感じましたね。アーケードの『リッジレーサー』チームも家庭用のチームに全然協力しなかったですし

――そうだったんですか?

小山 そうです。家庭用の『リッジレーサー』は、今、『アイドルマスター』のプロデューサーをやっている坂上陽三君が3人くらいで作っていました。

――当時のセガはプロジェクトが終わるとメンバーをドラスティックにバラして、もう1回作り直すみたい感じだったんですけど、ナムコさんもやっぱりそんな感じだったんですか?

小山 チーム的なものが始まったのは『鉄拳』くらいからだったと思います。『鉄拳』と『ソウルキャリバー』……『ソウルエッジ』からですね。それまではそういうチーム的なものはなくて、終わったら分解して、また次っていう感じでした。

■ナムコ VR研究のルーツは『バーチャリティ2000』から

―一方で92年くらいから『バーチャリティ2000』(注21)を研究されていたとインタビューなどで語られていますが。

小山 入社した頃、3次元(3D)コンピュータグラフィックス・ポリゴン技術というのは『ウイニングラン』くらいしかなくて、3D空間の中で自由自在にカメラを変えられるってことに、「すげえ、すげえ」ってなってたんです。そこに、その空間の中を歩き回れる技術がイギリスにあるっていうのを聞いてビックリしまして。そのとき自分はまだ入社2年目くらいで、多分輸入してきたのは澤野(注22)さんだったと思うのですが、これをゲームセンターに置いて実験してみようとなったわけですね。

注21:90年代にイギリスで開発されたVRマシンで、ヘッドマウントディスプレイやデータグローブを着けての操作が可能になっていた。

注22:『ギャラクシアン』、『ポールポジション』などの開発を手がけた澤野和則氏のこと。

――御社なりのカスタマイズを何かされたのでしょうか。

小山 いや、まったくしていないです。自分が最初にやったのはデータグローブとヘッドマウントディスプレイを着けて、部屋の中で紙飛行機を投げて飛ばすとか、空中のものをつかんでみるとかいったものですが、イメージとしては「なんじゃ、こりゃ?」でした。振り向いたら画像が追従してこないし、映像もテクスチャーを貼っていないので市松模様みたいですし。

ポリゴンの解像度もすごく荒くて、動きもカッ、カッ、カッって感じで。頭の中で「(ハリアーが)飛んでるんだあ~」って思い込まないとダメで、概念はすごいけど、これはモノになるのかなあと思いましたね。コインオペレーション(注・ゲームセンター仕様)用に改造して、大阪の千日前に4台くらい設置してテストしましたが、やっぱり評判は悪かったです。「500円でこれかよ」とか、よく言われました。

――近未来的だけど、やってみると全然近未来的ではないと。

小山 はい。ですから、セガさんがジョイボリスで「VR-1」(注23)とかやったときにはすごいなと思いましたね。

――確かにあの頃のセガはそういう研究がすごく進んでいて、けっこういろんなトライをしましたよね。『R-360』(注24)もそうですし、あの頃はナムコとセガが切磋琢磨していたところがあったと思います。

小山 確かにそうでしたよね。

注23:ヘッドマウントディスプレイを装着して8人乗りのライドに乗り込み、出現する敵を撃ち落としていくセガのVRアトラクション。1994年より横浜ジョイポリスにて稼働開始となった。

注24:筐体が前後左右360度に回転するセガの体感シューティングゲーム。

■「バーチャル・リアリティーの呪われた時代」を経て

――そのあとはバーチャルのことはあまり意識せず、『アイドルマスター』の仕事に移られたのでしょうか?

小山 いやいや、「バーチャル・リアリティー」っていう言葉はもう独り歩きしていて、3Dでポリゴン使っていて箱庭世界なら「バーチャル」って感じで、仮想現実を拡大解釈するものになっていました。セガさんもタイトルに「バーチャ」と付くものを出しまくっていましたよね。

――そうでしたね。

小山 つまり、馬に乗ってレースができるものも、スキーをやるものも全部「バーチャルもの」だったんです。そう定義付けされてましたね。

――小山さんがよく言われている、「バーチャル・リアリティーの呪われた時代」ですね。

小山 そうですね。ヘッドマウントディスプレイが再登場してくるまでは「バーチャル~?」みたいな。

――ちょっと怪しげなものという感じでしたね。

小山 それで、ここからですが、急に『アイマス』に行ったわけではなくてですね。途中で企画マンに転向させられるわけです。「もうメカ止めて、企画にならない?」と。それで、31歳のときゲーム全体を指揮する企画マンになったんですけど、「TOPの人」が「今年中に利益を出せ!」とか言うわけです。

――うわあ。

小山 クリエイターの人たちもクリエイターの人たちで、あれこれ言うんです。ドームスクリーンを初めて開発した菊池君(注25)たちも「小山さん、まだこの技術が世の中に出るのは~」みたいな。でも、2000年にはアーケード部門に危機が迫っていたんです。

注25:ドーム型体感ゲーム機『O.R.B.S』開発の中心メンバーのひとりだった菊池徹氏のこと。

■アーケードゲーム冬の時代の迷走と多種量産のツケ

 

――確かに当時はアーケード不況みたいなものがありました。

小山 セガさんは『ダービーオーナーズクラブ』で抜けていましたし、コナミさんも『DDR(ダンスダンスレボリューション)』や『ビートマニア』といった音ゲーを出して波に乗っていたんですけど、当時のナムコはそういうのがなかったですからね。家庭用はプレイステーション2が出て、どんどん伸びているのに、アーケードは10年前の実績まで落ちちゃっていたんです。このままいったら、もうゲームセンターはダメになっちゃうんじゃないか。2015年頃には完全に町から消えてなくなるんじゃないかって。

――いっとき本当にそんな気配がありましたよね。

小山 そんなときにソフトチームが全員、神奈川新町のビルに移って、いなくなっちゃったんですよ。それで、残った人たちで何かやってやろうってことになってアイディア募集が始まったんですけど……地獄です。もう、売れないものばかりが次々と(モニターにこの時期のナムコのアーケードマシンが表示される)。

――アハハハハハ。

小山 このときはちょうど企画に転向した瞬間だったんですね。だから、自分も思い切り加担してます。見て下さい、『つっこみ養成ギプス ナイス★ツッコミ』。知ってますか? ツッコミ用の人形に「なんでやねん!」とか言って突っ込むゲームです。アメリカザリガニさんとか実際の芸人さんたちにタダ同然でご協力いただきました。

音ゲーが流行ってたからといって音ゲーばっかり、いっぺんに作ったり。『ウンジャマ・ラミー』(注26)とか『クエストフォーフェイム』(注27)とか。あと、『ミリオンヒッツ』。これはカラオケシステムの日光堂と組んで、毎月新しい曲を配信するというヤツでして、これが曲の権利関係のビジネスの元になりました。そういう点ではよかったですけど、まあどれも売れなかったですな。

『ゴルゴ13』のゲームとかも作りましたよ。これは売れた方かな~。1発しか撃てないシューティングです。主人公がゴルゴ13なのでターゲットを外したらおしまいという。

注26:『パラッパラッパー』の続編として発売されたプレイステーションの音ゲーのアーケード版。

注27:エアロスミスの曲を演奏できるリズムギターゲーム。こちらもプレステ、PCからの移植。

――そういうゲームなんですか、面白そうですけど。

小山 一応、さいとう・たかを先生に気に入っていただいて、原作のマンガにも出てきます。あと、『バイオハザード』のガンシューティングをやらせてってカプコンに言いに行ったりとか。「いいよ」って三並達也さん(注28)が言ってくれたんで、「じゃあやりましょう、やりましょう」って作ったのが『ガンサバイバー2 バイオハザード CODE:Veronica』ですが、これも売れなかった(笑)。

こんなのは知ってます? 『ホンネ発見キ』。ウソ発見器の逆で、PHPとかケータイを繋いで奥さんと電話して質問に答えると「浮気してますね」とか判定が出るんです。ちゃんとイスラエルで軍事用に開発された音声認識技術を使っているんですよ。あと『トラック狂走曲』。デコトラのレースゲームで冠二郎さんとコラボしたりしました。でも、どれもこれも売れなくてね~。

注28:『ロックマン』、『バイオハザード』、『Devil May Cry』など数多くのカプコンの名作の開発に携わったことで知られるゲームクリエイター。

――すごい! これだけの企画がよく通りましたね。

小山 ソフトチームのプロデューサーのような企画全体を見て判断する人がいなくなって、メカエンジニアと電気エンジニアと筐体のデザイナーしかいない組織でしたからね。クレーンゲームと簡単なメダルゲームしか作ったことのない人たちですから、四季報のア行からいろんな会社に電話して、「アトリエ〇〇さん、ゲーム作りませんか~?」みたいなね。とにかく、組めるところとどんどん組んでやっていました。

■「これがおまえの作ったゲームが壊れる音だ!」

――この頃ですか、小山さんの作ったアーケードゲームの在庫を燃やすぞと言われたというのは。

小山 そーーです、そーーです! 本当に燃やされましたからね。恐ろしいでしょう? 除却処分している場所から電話がかかってきて「もしもし……小山かぁ。これがお前のゲーム筐体がバリバリ壊れる音だ」って。在庫を処分するってことは、どれだけ大変なのかってことをここで勉強させていただきました。

――それまでは、モノづくりだけを考えていたけど、ここでプロデューサー感覚といいますか、ビジネスのことも考えられるようになったと。

小山 さらにですね、当時のナムコは構造改革という名のもとに、いわゆる普通の会社組織を止めて文鎮のような組織にしましょうとなりまして。役職を全部撤廃して、役員以下全員平社員にするという制度が始まったんですよ。

――ホントにそんなことやったんですか?

小山 そうですよ? 「部長」って呼んでた人を次の日から「さん」づけで呼ぶように。で、希望退職です。

――失礼な言い方ですが、先ほどのことがあったのによく残れましたね。それはやっぱり、モノづくりということに対して会社が評価してくれていたわけですか?

小山 う~ん、なんだかんだいって売れているものもありましたからね。もちろん、ダメなものもいっぱい出していたわけで、こうなった片棒を担いだと言えるかもしれません。けど、「やる」っていうエンジンを持っていたのは大きかったかもしれませんね。

■文鎮型の組織改革と意識改革

――やっぱり、そこは残したんですね。

小山 はい。それで、残った人たちで、「こんなに出しちゃダメだよ」とか、「レースゲームの売れているデザインはこうだよ」とか、残念な結果に終わったゲームを一生懸命分析して。「なんのために、誰のためにモノを創っていたんだ」ということを考え直したんです。

――なるほど、大事なことですよね。

小山 そうすると、やっぱりね。お客様のニーズを考えるというより、「ユニークなアイディアでお客さんをトリコにしたーい」とか、「最新の技術を使いたーい」とか、「名声を得たーい」とか。そういう人たちはいなくなっていったんですね。こう思っている人たちが多くなると、こういう状態になっちゃうんだと。

――そういえば、ナムコさんは職場の環境がいい[馬渕2] という話をよく聞きました

小山 甘さはありましたよね。これは当時の求職者向けの広告ですけど、こんな感じでしたもん。「大学8年生に届いた採用通知」とか「集まれ前科者」とか。

――(モニターに表示された当時のナムコの求人広告を見て)すごいなあ、こうなっていましたか。

小山 「Cが多くてもいいじゃないか」とかねえ。普通じゃない人集まってこーい、みたいな感じだったので。Cが多くても、なにか光ったモノがあればいいという意味だったと思うのですが。いつしか、わがまま集団な部分が強く残ってしまった。でも、これではやっていけないとなり、お客様の方を向いていこうと。お客様のほうを向いていこうと。

ということで、お客様の「わがままニーズ」を取り入れた商品とそうでない商品を分けて分析して。2002年くらいのことでしたね。

――つまり、アーケードチームの考え方を変えたということですか。

小山 変えましたねえ、ガラリと。

――でも、これほどドラスティックに変わるものですか。

小山 やっぱり役職をなくしたことは大きかったです。「誰に従うか」がなくなりましたから。自分で考えて、利益を出さない人はいなくなってくださいっていう組織になったので、誰も守ってくれなくなったんですね。

――すごいショック療法ですね。

小山 成功報酬としてのインセンティブ制度も大きく働いたと思います。利益の一定比率をプロジェクトに還元するみたいな感じになっていて、ミニボーナス的なもので配分されるという。ただ、商品が出なければ配分されないので、開発に3年かけたらその間は一切なしという。

■『アイドルマスター』の原点は『ドラゴンクロニクル』

――なるほど、それはすごいなあ。それが功を奏して『太鼓の達人』やアーケード版『マリオカート』、『アイドルマスター』にいたったわけですね。『アイマス』はその前からプロジェクト自体は進行していたんですか?

小山 『アイドルマスター』は自分が考えました。『ドラゴンクロニクル』って分かります? 当時、セガの『ダービーオーナーズクラブ』が当たっていたので、ナムコでもああいった継続して遊べるものを何かやんなきゃねってことになって作り始めたんです。カードを使ってドラゴンを育成して戦わせるという、『ダービーオーナーズクラブ』の馬がドラゴンになったような感じですね。

結局、これは売れたんですけど、営業は当初すごい懐疑的で。開発費もかかるし200台も出ないんじゃないのって。今のバンダイナムコホールディングス会長の石川祝男(注29)も「小山、小山。『ドラゴン』が売れなかったらどうする。バックアップでなんか考えてくれよ」と。「オッケー、じゃあ考える」って言って、『バイオハザード』を一緒にやった石原君(注30) とふたりで考えて、「今ギャルゲーがダメだからさ、ギャルゲーにしよう」と。

注29:『ワニワニパニック』などを開発、バンダイナムコホールディングスの社長を経て、現在は同社の代表取締役会長を務める。

注30:『アイドルマスター』シリーズの総合ディレクターを務めた石原章弘氏のこと。

――そういえば、当時はギャルゲーが下火でしたね。

■『ASAYAN』からのヒント!ゲーマーをプロデューサーに!

 

 小山 厳しい話はあちこちで聞いていましたからね。そんなときだったので逆にというのと、自分はつんく♂さんの『ASAYAN』をよく見ていてゲーマーをプロデューサーにしようと。

――それは面白い発想ですね。

小山 自分は「『ASAYAN』がいいよ、アイドルだよ」、石原君は「プロレスがいいよ、女子プロが」みたいなやり取りをよくしていました。ただ、アニメの絵で動かすっていうのは大変だったんですね。某会社に行って、「歌って踊るシーンをアニメで作ってください」って言ったら、すっごい金額を返されて、「ウチの予算じゃムリっす」みたいな。どうしようってことで、そのときちょっと流行り始めてたトゥーンシェイダーでやってみることにしたんです。

でも、あのときは自由自在に動くアイドルのアニメ絵のカットとかなかったんです。仕方ないので、女性3人にアイドルの動きをしてもらって、それをモーションキャプチャーで撮って。カメラを自由に動かしたら、アイドルが歌っているように見えるんじゃね?――みたいな考えだったんですけど、やってみたらホントにそう見えて、「なかなかいいじゃーん!」と。

――そういう経緯だったんですか。

小山 あと影ですね……影が動くのがちょっと気持ち悪くて、データ的にもけっこう重かったので「影をつけるのはやめよう、最初から描いちゃおう」と。そこにこだわるよりも自由自在に60フレームで動いてカメラを回せて、アイドルが歌ったり踊ったりしてるように見えたほうがいいじゃんってなったんですね。ちなみに、(影が)アザみたいに見えるから「アザーシステム」と呼んでました(笑)。

――なるほど~。

小山 とにかくお金がなくて、フルボイスだったのですが、声優さんたちには2年間手弁当で頑張ってもらいました。新人さんたちばっかりだったから、できたんですけどね。今はもうみんな有名になっちゃいましたけど、ありがたかったです。

――でも、すごい長寿コンテンツですよね。家庭用に移植されて今はスマホになり。本当にすごいものを作られましたよね。

小山 最初のロケテストを池袋のサントロペでやったときは5時間待ちになって、それを見たオペレーターたちが「これはすげえ!」となりましたね。結果、500台くらい出て、インセンティブもすごい入ってきて大成功でした。ただ、インセンティブをみんなに分けるのは大変でしたね。「これだけやった」ってみんな言い出して、自分もプロデューサーだから「これくらいいいでしょ?」みたいな(笑)。

――でも、励みになりますよね。

小山 そうですね。20代、30代前半で何百万と一気にもらえますからね。シールプリント機とか『太鼓の達人』チームはすごいもらってましたよ。

――ちなみに、今もそのシステムはあるんですか?

小山 (バンダイとの)会社統合後はなくなりましたね。自分は『戦場の絆』が最後でした。

■『ガンダム』を作りたくてバンダイ(当時)大下さんに相談した

 

――『戦場の絆』もなかなか難産だったという話をうかがっています。ドーム型スクリーンの実験に『スウィートランド』(注31)のアクリルの球体を使っていたとか。やはり、かなり苦労されたんですか?

注31:ドーム状の筐体内に積まれた、さまざまな景品の獲得を目指すナムコのプライズゲーム。

小山 確か、2001年にドームスクリーンを使ってAMショーに『スターブレード オペレーションブループラネット』[澤井3] っていう『スターブレード』(注32)の続編を出したんですね。でも、そのときは、さっきも説明したとおり、ナムコのアーケードがもう全然魅力的じゃない組織になっていて、ソフトチームの人たちも、なんかボランティア的というか、弱っているところをなんとか良くしてあげようみたいな気持ちだったみたいなんです。

そうして作ったものはセールスの人たちとはやっぱり合わないわけですね。セールスの人たちってカネになることに対して、ちゃんと向き合っているプロデューサーとしかしゃべらないです。結局、折り合いがつかなくて、2年間くらいこの技術が塩漬けになってたんですね。

注32:『ギャラクシアン3』の世界観を踏襲した3Dシューティングゲーム。

――そうみたいですね。

小山 その頃、自分たちはカプコンさんが『ガンダム』のゲームを作っているらしいと聞いていて、じゃあ僕らも作りたいってことでバンダイに話に行ったんです。そのときは大下さん(注33)と最初話したのかな? 大下さんはワンダースワンでナムコとコラボしたいと言っていて、GPSを使ったゲームを提案したことがあったんです。浅草でGPSを使って鬼ごっこをしたり、モンスターを探して捕まえたりっていう、今でいう『ポケモンGo』的なものを。その企画はいろんなことがあって頓挫したんですけど、そのときのつながりがあったので「ガンダムやらせてください」と。そうしたら、「まあ、いいよ」ってことで、稲垣さん(注34)と馬場さん(注35)を紹介してもらったんです。

それから、ガンダムのドームスクリーンを使った企画について、毎月毎月会議をしましたけど、やっぱり時間がかかりましたね。というのも、やりたいのはモビルスーツ同士のチーム戦なんですけど、とても「通信」で「リアルタイム」で「店舗同士」で戦うなんてこと口には出せない。

注33:現バンダイナムコエンターテインメント代表取締役社長の大下聡氏のこと。(取材当時)

注34:『機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY』、『機動戦士ガンダム戦記』など数々のガンダムゲームの開発を手がけた稲垣浩文氏のこと。

注35:『機動戦士ガンダムVS.』シリーズのプロデューサーなどを務めたことで知られる馬場龍一郎氏のこと。

■『戦場の絆』はネットワーク対戦ゲームにします…と宣言

――当時はやっぱり通信環境が……。

小山 はい。『麻雀格闘倶楽部』が出て、リアルタイムじゃないけど、なんとか店舗同士で通信対戦できるようになったなっていう時期でした。『ダービーオーナーズクラブ』とか『ワールドクラブチャンピオンフットボール』も、時間制で天皇杯とかやっていた頃です。

――2002年くらいですか、まだちょっとなかなか厳しかったですよね。

小山 でも、プレゼンで役員を前にしたら言っちゃったんですね。『戦場の絆』はネットワーク対戦ゲームにしますって。技術者たちはみんなギョっとしていました。

――言ってしまいましたか……。

小山 そもそも人が全然集まらなかったです。そのときは家庭用ゲームがすごくて、200名くらい抱えているような状態のチームが3つか4つあったので、そこから人をっていうのはなかなか難しかったんですよね。

――そうでしょうね。

小山 なので、すごい簡単なひな形みたいなものを作って……そのとき神奈川新町の10階に間借りしていたんですけど、そこにその試作機を置いて「アーケードは楽しいよ」という会を何回か開いたんです。「アーケードのことは知らない」、「自分は『鉄拳』を作るんです」みたいな人たち400人くらいに遊んでもらいましたたかね。そうしたら「僕もやりたいんですけど、いいですか?」って人が5、6人でてきてくれて。

ただ、その人たちね、みんな派遣とか準社員なんです。『エースコンバット』の格納庫しか作ったことありませんとか、草しか作れませんとか。そんな人たちばっかりだったんですけど、専門学校や大学でひととおり学んでいるはずなので、「できる、できる!」って言って。「じゃあ、君はエフェクトリーダー、君はマップリーダー」って。「ええっ!?」ってなってたけど、「いや、もうここではリーダーです!」と。で、8人くらいしかいないから全員がリーダーに(笑)。

■チーム構成から始まった『戦場の絆』

戦場の絆開発ルームにて

――いいですねえ。やっぱり、そこまでおやりになったんですね。でも、相当苦労もされたんじゃないですか。組織を作っていくところからやったわけですよね。

小山 今、プロデューサーをやっている高橋雄二が、ちょうど前の会社を辞めてフラフラしていたんです。彼はそれまで音ゲーをずっとやっていたのですが、絵のセンスがすごいんです。ゲームについての造詣も深いので、「ぜひぜひ来てくれ」、「イチから組織を立ち上げるって面白いぞ」って言ったら「オッケー」って。彼が一緒になって組織を作ってくれましたね。

あと、PC-6001の『タイニーゼビウス』(注36)を作った松島徹さんが、『ゴルゴ13』を通じて知人だったので、「松島さん、来てくんない?」、「キミ、フリーランスだけど、ちょっとサラリーマンごっこしない?」みたいな。彼は天才プログラマーですからね。ドームスクリーンの技術も1日でサッと作ってきたくらいですので。ほかにも『ドラゴンクロニクル』で知り合いにになったディレクターとか。そうやって人が集まっていきました。

注36:『ゼビウス』のPC-6001移植版。制作した松島徹氏は当時まだ中学生だった。

――なるほど~、恵まれましたね。

小山 恵まれました。

――でも、僕は小山さんの人柄だと思いますよ。人柄とそうやって人を動かす気持ちがすごく強いんじゃないかと。

小山 うまくいくかどうか分からないよって最初にちゃんと言ってますしね(笑)。

■『ガンダム』ならばみんな知っている!

――いやでも大成功じゃないですか。すごいところから生まれましたね。

小山 はい。もう絵はボロくていいから、とにかくネットワーク通信対戦でFPSを日本で作ってみよう、みたいな。当時、FPSはまだそんなにメジャーではなかったですが、ガンダムならできるんです。

例えば、渋谷を歩いているその辺の人たちに「M1A2エイブラムス(戦車の名称)って知ってる?」、「MP5(機関銃の名称)は?」って聞いても、ほとんどの人は知らないですよね。でも、ガンタンクは、ビームライフルは「知ってます!」ってなるんです。日本で兵器っていったら本物じゃなくてガンダムなんです。ガンダムだったら近づいて戦うし、ガンタンクは離れて撃つって、みんな知っていますからね。

――なるほど、確かに。

小山 でも、通信対戦にたどり着くまでにもいろいろありました。そもそも、ガンダムゲームとかロボットゲームって山ほどありますよね。そこで、『ガンダム』って何だろうと改めていろいろ探ってみたんです。そうすると、やっぱり『ファースト』がダントツの人気だったんです。そこにたどり着くだけでも、けっこう大変だったんですけどね。『ガンダム』ってああだよ、こうだよみたいなことを、いろんな人たちが言いますから。

とにかく、『ファーストガンダム』で30代のサラリーマンをターゲットにしようと。さらにドーム式で「乗る」ってことをすごい大事にしたかったんで、「アムロみたいに活躍したい」っていう風にやったんですね。ガンダムの、モビルスーツのパイロットになって、ライバルに勝つ気持ち良さを得られまーすって。

で、クリエイターを確保するために作った試作を利用して、あるリクルート会社を通じて30代でガンダムがまだ好きな人たち呼んで消費者テストをしてみたんです。そうしたら、すごい高評価なんですけど遊園地のアトラクションみたいって言い出すわけですよ。何回かやったら飽きそうな気がすると。「ライバルに勝つ気持ち良さとか、ありふれてんな~」、「そんなのいっぱいあるじゃーん」って。で、「あら、あら~?」と。

――あ~、でもそうかもしれませんね。

小山 それで、また分析好きなんで、過去のアーケードの作品を「とっても欲しい度」と「わがままニーズ度」で分類してみたんですよ。そうすると、両方とも強いタイトルは「始祖」の集団だったんです。『麻雀格闘倶楽部』も『UFOキャッチャー』も『ムシキング』も。『バーチャファイター』もポリゴンで始祖だし、みんなそれぞれ新しいものがあるんですよ。

例えば、『麻雀格闘倶楽部』は、サラリーマンが会社帰りにあまり難しく考えず直感で楽しむのに最適だったんです。パチンコに行くのは罪悪感があるけどゲーセンでちょっと息抜きするんだったらいいかなあと。

UFOキャッチャーは商品がぬいぐるみになったことで大爆発しました。2、3千円するぬいぐるみが100円で取れると。UFOキャッチャーって自分が学生時代にアルバイトしていた頃からあったんですけど、そのときの商品は時計とかブレスレットとかでしたからね。

黒川塾41 「バーチャルリアリティの未来を語る」にも原田氏と登壇(SIE吉田氏・近藤氏と)

■ゲーム体験の価値観を変えないといけない

――そういえばそうですね。あそこで商品変わりましたよね。

小山 ですよね? とにかく、そういったようなめずらしい、今までにないものを1個持ってこないとアカンってなりまして。今のままではワガママ度が足りてないと。それで、チームの戦略の中で自分の得意なところを活かして、それぞれ違う役割で活躍して、互いに「いいね」と言い合えるものにしようということになったんです。そうすると、みんなが「バスケやサッカーみたい」って言い出したんです。終わったあとビールが美味そうとか(笑)。

――あ~、分かる気がします。

小山 そういえば、団体競技ってこれまでのアーケードではないし、これは実現しなきゃならないなって。「敵軍に勝つ快感をチームの仲間と共有する」っていうのをやるんだとなったんです。けど、これはネットワークを使わないと実現できないですからね。それで、さっきの話になりますが「ネットワークでやります」って言っちゃったわけです。

――そういう過程があったわけですね。

小山 でも、店舗間同士のリアルタイム対戦って前例の技術がまったくなかったんです。パイロットとして動かす装置もどこにもないし。機体も作らなきゃダメよみたいな。それでもなんとか完成にこぎつけて、おかげさまで4400台も売れました。

――今でも元気に稼働していますよね。ところで、このドームのスクリーンと同時にVRのヘッドセットの研究もされていたという話を僕の黒川塾でもうかがった記憶があるんですけど、そのころからVR-ZONEはスタートをしていたわけですか?

小山 はい、やってました、『戦場の絆』をオキュラスDK1でプレイできるようにしたりとか。まだ、DK1が出たばかりの頃で、アメリカに行ったときに誰かが、そういうことをやる技術があるらしいってことで借りてきたんです。

――なるほど。では、この頃からVRのいわゆる具体的な展開というものは考えていて、社内的にも了解を取った上で、VR-ZONEもしくはVRのコンテンツをバンダイナムコとして注力をしようとしていたわけですか?

小山 いやいやいや、これはかなり長い話なんですよ。そもそもアーケードゲームはね、コストバランスの悪循環化から抜け出せてないんです。どんどんどんどん開発にカネがかかるようになって、「三者の得の原則」がもう成立しない。三者の得って「消費者」と「メーカー」と「流通」のことで、ゲームビジネスはこれ全部が同じように幸せにならないといけないんですが、アーケードのワンプレイ100円というビジネスモデルでは、もはや成り立たっていません。

――おっしゃるとおりです。

小山 今は最初の『鉄拳』の20倍くらい開発費がかかっていますからね。そうなると、家庭用は海外に向けてどんどん売っていけばいいんですけど、アーケードはプレイ料金が100円のままなので、とにかくバランスが悪いんですね。で、『湾岸MIDNIGHT』は開発に何億もかけているのにワンプレイ100円。ところが、車のシミュレーター体験とかだと1000円を取れているんです。つまり、相場の概念を変えなきゃいけない。

例えば、仮に100円ショップと高級インテリア雑貨店に同じ品物が売っていたとします。売っているものは同じでも、価格は全然違ってきますよね。キャラクター商品でも100円ショップとかにあると100円だけど公式ストアだと……。

――きっと2、3000円とかするでしょうね。

小山 そう、その価格で買うんですよー。やっぱりね、相場ってすごい大切なんですよ。そのとき某アミューズメント企業がどんどん料金を安くして利益を伸ばしていたんです。でも、プレイ料金を安くして1位になるって、「この業界、ホントやばくね~?」みたいに思っていて。「安売りは危ないよ」、「相場を変えましょうよ」って話をしてきたんですね。

――それは大事なことだと思います。

小山 モノは代替していくという話もしましたね。例えば、将来的にですよ? 本物の釣りを全部VRで体験できるようになったら、釣り具屋での買い物も移動の手段もすべて省けてしまうかもしれないと。ちなみに、スポーツレジャー市場でいうと、釣りってアーケードと同じ4000億円市場ですからね。

スキーとかサーキットとかボルダリングとかもそうですけど、スポーツってけっこうお金がかかりますよね。そうした予算上の問題を解決できるわけで、市場もあるんです。だから、VR-ZONEでもボルダリングをやっているんです(笑)。社名も「エンターテインメント」となったんだし(注37)、すべてのエンターテインメントを代替していこうよって。

注37:2015年4月1日にバンダイナムコゲームスからバンダイナムコエンターテインメントに社名が変更された。

VR ZONE 発表会にて
VR ZONE計画に賛同してくれた社内メンバーと

■市場開拓というチャレンジの積み重ね

――なるほど、なるほど。

小山 ナムコの先輩たちも市場を開拓しようと戦ってきたんです。知っていますか? 当時、澤野さんや大杉さんたちが銀座の歩行者天国で『PONG』を路上体験させるっていうのをやったそうなんですね。テレビゲームなんて日本ではまだほとんどの人が見たことがなかった時代に、アタッシュケースに基盤やバッテリーを入れて、小さいテレビと一緒に持っていって繋いで路上でやらせてみたら、ものすごい人だかりになったらしいです。

…………………ここで当時のナムコのスタッフたちが道行くサラリーマンたちに路上でゲームをプレイさせている写真がモニターに表示。サラリーマンたちが地べたに座り込んで熱中している様子が映し出された。

――(モニターを見て)これはすごい! こんなことをされていたんですね。全然知りませんでした。

小山 まだ、ゲームセンターが夏休みの工作みたいなものしかなかった時代にね、先輩たちはこういうチャレンジしてきたんだよと。そういうDNAがオレたちにはあるでしょ、みたいな。

だから、今やらないでどうするんですか。その答えのひとつとして『戦場の絆』もやっているんで。「みんなー、VR技術はもうあるんだよー」みたいな。それを体感ゲームと組み合わせたら、過去の体感ゲームを今の技術で表したらっていう……『ハネチャリ』なんかがそうですよね? 本当に生命の危機を感じるかのようなことができるんですよ、と。

――ものすごく説得力があると思います。

小山 でもね、これを説明しても、最初はみんなピンとこないわけです。なかなかウンと言ってもらえなかったですね。ただね、スタジオの一部にこういうのが好きな人たちがいましてね。やってくれたんです、次々と。

――素晴らしいですね。

小山 はい。いろいろアイディアは出ましたが、とにかく人が来ることをやろうよ、と。で、実験レポを作って、いろんなところに広げていこう。そして、いつかVRの専用施設を作ろうよっていう。すげえ前の話ですけどね。でも。すごいでしょう? 

■「ゲーム」ではなく…「アクティビティ」を目指して

VR ZONE発表会にて

――小山さんが「アクティビティ」(注38)という言葉にこだわられていることも含めて、アーケードの遊び方が変わってくるということですね。アーケードというものへの考え方がお客さん側の意識も含めて変わっていくと、エンターテインメントとしてさらに強くなるかもしれないですね。

注38:VR-ZONEではVRマシンをあえてゲームとは呼ばず、「VRアクティビティ」と呼んでいる。

小山 今のゲームセンターって、ららぽーととかイオンのような母体の商業施設の売り上げとまったく比例しているんです。ゲームセンター自体のエネルギーでお客さんを呼べていないんです。そういうことがしばらく続いてきたので、母体のほうから新しく施設を作るときに、ゲームセンターはもういりませんって言われて、コンペに入りにくくなっちゃったんですね。

でも、とにかく人を連れてくるっていう今回の取り組みをしているおかげで、そういうところから「ぜひウチに」という引き合いがいっぱいきています。やっぱり、人が呼べるエンターテインメントをやらないとダメなんです。そして、「100円の価値」から脱却するには、ゲームにとらわれていちゃいけないんじゃないのっていうことです。だから「VRアクティビティ」って言っているんですよね。

――いいですね。すごくいいお話でした。ありがとうございました。益々のご活躍とご発展を楽しみにしております。


記事出展:エンタメステーション
編集協力:仁志睦
写真撮影:北岡一弘

著者プロフィール:黒川文雄【インタビュー取材】

くろかわ・ふみお
1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミDEにてゲームソフトビジネス、デックスエンタテインメント、NHN Japan(現LINE・NHN PlayArt)にてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。アドバイザー・顧問。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。株式会社ジェミニエンタテインメント代表。DMMオンラインサロンにて「オンラインサロン黒川塾」を展開中。黒川塾主宰。ゲームコンテンツ、映像コンテンツなどプロデュース作多数。

御高覧ありがとうございます。以下は有料部分になります。お礼しか書いていません。これからもよろしくお願いします。

ここから先は

482字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?