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事実と解釈を切り分けながら、淡々と生きる道。

 実存主義が好きなんですが、物事には事実と解釈が存在していて(即時存在と対自存在)、悩みは解釈次第ですよ、というお話があります。唯、これからの日本はその「事実」に厳しいものが多くなってくるので、良い事実を自ら引き寄せる力技を行使できるようになるか、「解釈」に関してのプロにならないと生きづらいなと思います。

 「事実」というのは偶然性の高いもので、例えば「裕福な家に生まれた」とか「人生の恩師に出会えた」みたいなものは今の日本では確率の低めな事実になると思います。逆に「貧乏な家に生まれた」とか「良い出会いが無かった」という事実は今の日本では割と確率が高い事実になりそうです。

 しかもこうした事実の一つ一つは大体絡み合っていて、「裕福な家に生まれた」時点で、「人生の恩師に出会える」確率も上がってしまうという何とも格差の広がる事実があります。唯、そうした事実に対して「生まれが悪かったんだ」という解釈をしてしまうのは何も生まないので、それに対して前向きな解釈をする、もしくは事実は事実として置いておいて敢えて解釈をせずに淡々といきましょうという話ですね。

 唯、この事実も悪い事実ばかり重なるとどうしても良くない解釈のループに陥ってしまう事があるので、自ら良い事実をつくっていけるかは大切だなと感じます。偶然性に任せてしまうと「裕福な家庭に生まれる」みたいな事実に会うのは運ゲーなので厳しいですが、ニッチな分野に大量の時間を投下する(誰もしない努力をする)事であれば割と良い事実を作りやすい時代になったとも思います。例えばYoutubeの黎明期など。

 解釈のプロになろうとすると、起きている事実に動揺しない仙人みたいな悟りを開く道か、何が起きても体調だけは良くしておいて動物的に前向きに生きられる筋肉マンのような道か、もしくは屁理屈に固められた口だけのインフルエンサーみたいな道が残っているように思います。

 良い事実を淡々とつくりながら、それに対して解釈せずに、淡々と生きる人間が一番強い時代になってきたのかなと感じつつ。解釈ばかりを述べる人間が増えてきたのは、誰でも発言が可視化されやすくなったからなのか、事実に目を向ける人が減っているからなのか、そもそも人間はそういう生き物なのか。

 淡々とできるようになってきた頃にライフイベントを迎えて、また解釈の道に引きずり込まれそうになると良くないので、盛大なライフイベントに浮かれる事なく淡々と生きたいものです。

 

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