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ドリキャスと、青春と、シェンムーIII

ドリームキャスト、セガの128bit級ゲーム機で、愛称はドリキャス。『シェンムー』を語るには、このハードとの出会いから語らないといけない。
ドリキャスは初めてオンライン機能が標準搭載されたゲーム機で、ドリームパスポートでネットにつなぐとそこにBBSがあり、ゲームについて面白い、面白くないだのと語ることができ、たくさんの友達ができた(オフ会に参加したら高校生からおっさんまでいた)。
あまり良いことではないが、購入した当時、『バーチャストライカー2』をはじめとして出荷されすぎた良作が投げ売りされていて、ジャンルを選ばなければいくらでも学生でも無限にゲームを遊べた。

ドリキャスで無数のジャンルのゲームを遊び、ゲームについてたくさん書いたことがその後、自分がゲームライターになる原点だったのは間違いない。ドリームキャストは、私の青春であり、その後を決めたハードだった。

で、そんなドリキャスで何よりも素晴らしかったのは……身もふたもないが、その性能だった。
それまでのゲーム機のポリゴンは荒く、ゲーム世界に入りきれない疎外感があった。ゲームセンターでは楽しめる3Dゲームが、家ではなんだかノれない。
『FF7』などのポリゴンゲームは「まだ、ゲーム表現としてドット絵を超えるに至っていない」と感じていた。そして、だんだんと『俺の屍を越えてゆけ』のような2Dゲームだとか、古いハードのゲームを遊ぶようになっていた。

ところがどうだろう。
ドリキャスと同時に購入した『ソウルキャリバー』(下画像はスマホ移植版)には、はっきり世界を感じられて、即座にゲーム世界のとりこになってしまった。

そして、それまでの家庭用3Dゲームアレルギーが嘘のように消え去り、とにかくゲームしまくった。
不思議なもので、3Dゲームのお約束になれるとだんだんと粗いポリゴンゲームも楽しめるようになり、ドリキャス購入後に『パンツァードラグーン』やら『バイオハザード』など、過去のゲームにも熱中した。

自分にとって、ドリームキャストはその性能を持ってゲームの空間を押し広げたゲーム機だった。

シェンムーの発売

そして、『シェンムー』がやってくる。
ソフトがやや不足気味だったドリームキャストにおいて、『シェンムー』の扱いはものすごかった。
ドリームキャストの雑誌は毎号『シェンムー』の開発状況を掲載していたように記憶している。ずっと、ずっとだ。劣勢のドリキャスも「これが出れば風向きは変わる!」という体で語っていた。

ハイエンドモデルが見られるディスクが配布されたり、湯川専務が出てくるディスクが配布されたりと、体験版にもいくつか種類があったように記憶している。
(※あとから調べてみたら同じディスクの別機能だった。昔のことなので記憶が混乱していたっぽい)

ただ、そんなにすごいらしい『シェンムー』は一向に発売されなかった。いつまでたってもゲームの発売日は決まらず、雑誌は期待感ばかりを煽っていた。
延期が発表されてもひたすら書き続けるので、半ばネタのようになっているときもあった。ドリキャス雑誌においてドラクエ級……いや、それ以上の扱いだった。

もう、待てない。ずるずる予定が伸びすぎている。
そう思った頃、発売日が1999年10月28日に決まるが、発売が迫った頃に2000年春への延期が発表され、我々をガックリさせる。そして、『シェンムー』は最終的にそれより早い1999年12月29日に急遽発売された。
当時、周囲の仲間は発売することを信じておらず、実際に私にも『シェンムー』が発売されたことに現実感がなかった。店頭に並んでいるのを見て初めて「本当に発売したのか」と思ったほどだ。

シェンムーは、世界だった

そんなこんなで出てきた『シェンムー』だが、すごいけど面白いゲームではなかったかもしれない。
ある友人は、「とにかく作りこまれているけど、それを見飽きたら簡単に終わってしまうし、不便だ」と語った。
確かにそうだ。もともと本作は全11章構成で、その中でもチュートリアル部分を引き延ばしたもの。つまり、『シェンムー』は完成品として発売できなかったのだ。
物語としても「オープニングで父を中国人拳法家に殺され、主人公の涼はその行方を追って中国行きの船に乗る」だけ。普通にプレイすると、あっけなく終わってしまう。

だが、このゲームに選ばれたプレイヤーは、これを無限に楽しめた。
『シェンムー』のジャンルは、アドベンチャーでもRPGでもない。ジャンルはFREE(フル・リアクティブ・アイズ・エンターテイメント)だ。
ゲーム内の目に映るすべてを見て、それが反応するエンターテイメントという意味で名づけられたはずだ。当時、オープンワールドという言葉がなかったためにつけられた名前だと思うが、それぐらい新しい体験ではあった。

当時「2Dを使わないフル3D!」なんて売り文句のゲームはあったが、なんだかんだで全部3Dにするとポリゴンが足りずにショボくなる。
が、『シェンムー』は3Dで、世界を美しく描いていた。
池を見ればちゃんと鯉が泳いでいて、3Dでリアルに描画されている。そこにまず驚いた。それは「鯉に見えるように描いたもの」ではなく、鯉だった。

ある友人は「畳の目を数えられる!(当時のテクスチャ解像度では、普通ありえなかったこと)」と言って驚き、畳の目を数えて笑っていた。
私は引き出しを開けると中にモノが入っているとか、普通のゲームで触れない場所すべてに触れることが嬉しく、すべてを触りまくっていた。
ゲーム機は、ドリームキャストの登場で世界を3Dで表現するに至ったのだ。

いや、その考えは甘かった。黒電話を触れば電話をかけられるし、ゲーム機があれば電源を入れて遊べる。
今になってみると「そこにあるものを眺めてリアルを感じられる」ゲームは多い。しかし、「そこにあるものを使ってリアルを感じる」ゲームは現代でも珍しいはずだ。

ドリキャスが採用したGDロムの容量が足りずに語彙が少なくなり、「そうか」と言い続ける涼さんはシュールで、ハードの限界を感じさせたが、とにかくフルボイスも実現した。

街に繰り出すとまた驚く。そこには、クソリアルがあった。
横須賀の街は薄汚く、いかつい顔のおっちゃんが歩いている。当時「美少女ゲーム」が勢いを誇っていたが、そんなものはあまり気にしないといわんばかりのクソリアル。
ゲーム的なずるい便利さもクソリアルに取って変わられた。例えば、バスを待つために時刻表を覚えないといけない。
なんで時刻表を覚えるかって?
発着所に行けばすぐバスがやってくるようなゲーム的なズルはシェンムーに存在しないから、時刻を覚えてプレイヤーが合わせるのだ。

(今、手元の雑誌を見たら、続編のIIでは待つことで時間スキップできるシステムが追加されることが書いてあった。当時はこれを見て「日和やがった」なんて思ったが、まあ正解だったと思うし、実際使いまくった)

しかも、出てくるキャラクターもすべてに生活スケジュールが用意されていて、土方のおっちゃんは決まった時間に働き、帰っていく。
よく見ていると、ときどきいない人がいて「今日は休みか!」と驚く。ゲームの常識を超えた細かさに、私はモブキャラ1人1人を尾行し、生活の様子を見て楽しんだ。
この世界の人も、モノも生活しているのだ。

最後に、当時「タイムギャルじゃん。古いよ」と馬鹿にされがちだったQTEに関しても私は感動していた。
『タイムギャル』とは、画面に合わせてタイミングよくボタンを押してアニメを楽しむゲームだ。操作を失敗するとたいていは即死亡という難しいゲームで、当時知られるQTEゲームはそんなものだった。
ところが、『シェンムー』のQTEは成功すればよし、失敗したときには失敗時のイベントが始まった。失敗してもいいのか、シェンムーは!
そりゃ、生きていれば失敗してもいいわけで、主人公はちょっとしたQTEに失敗しただけですべてを諦めたりしないはずだ。
ゲームイベントにおいても、『シェンムー』は世界を拡張した。

この世界の物は触れるし、人は生きている。そして、プレイヤー自身も生きているかのように行動できる。
ゲームを始めて半日後、『シェンムー』の3Dは世界を表現するに至った、という驚きは誤りだったことに気づいた。

『シェンムー』こそが世界なのだ!

時間がたつほどにシェンムーが恋しくなる

世界を見るエンターテイメントジャンル”FREE”は、今でこそ『GTA III』の先祖だとか、「すごかった」と言われるが、リリースされた当初、とくに自分の知る範囲では評価が低かった。

ただ、当時のその評価は仕方ないところもあったと思う。
1999年当時、「ゲーム機の性能が向上すれば、いずれ世界が表現される」などと漠然と考えていたゲーマーは結構いたはずだ。
『シェンムー』はゲーム内で世界を再現した最先端の作品ではあるが、たまたま先陣を切っただけで、セガが未来を先取りしすぎて大ヒットはしなかった。あとからもっと完璧なものが出る。そんな見え方をしていたと思う。

私自身、当時はミニゲームや世界を楽しみつつ、「とにかくすごいけど、ゲームはいまいち」なんてしたり顔で語り、セガらしい詰めの甘さだとゲーム的でないクソリアルと、ボリューム不足をあげつらっていた。
ドリームキャストは私に3Dの世界をくれた。『シェンムー』はその限界を見せてくれた。それで、終わりのはずだった。

ところが、2019年まできてみるとどうだろう。
いまだ「現実世界をシミュレートして、視界にあるものすべてを見て、触って、使う」ことができるゲームに出会ってない。もちろん、ゲームはたくさんあるので私がプレイできていないだけ、という可能性も高いが。
『GTA III』はシェンムーの子孫だが、いらない作りこみは省かれた。『アサシンクリード』では歴史的な建物を訪れて観光できるが、モノを使うゲームではない。人を尾行しても生活していない。だって、それは普通いらない要素だから。
それは判断として正しくて、クソリアルを切り捨てたゲームはヒットした。
そして、あの偏執的なクソリアルな世界は『シェンムー』だけに押し付けられてしまった。

今あるゲームも素晴らしい。というか、自分自身、常にクソリアルを体験したいわけじゃなくて、上手に省いたゲームの方が楽しいと思っている。

しかし、それでも時間がたつほどに「あれ(シェンムー的なもの)をまた見たいな」と思ってしまう。不必要なリアリティが、世界にたりない。
あったら、面倒なのに、ずっと摂取しないと寂しい。自分だけでなく、『シェンムー』に魅入られ、待ちわびている人の中には、私のような人も多いのではないか、と思う。
RPGでも、アクションでもなく、FREEが遊びたい。だから、今どき『シェンムーIII』を応援するのだ。

これを涼さんに話したら、「そうか」とうなずいてくれる……と思う。

『シェンムーIII』もまた、そんな期待を受け止めてくれるだろうか。

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