『LA-MULANA2』レビュー ~現代に蘇る『ドルアーガの塔』は果たして受け入れられるのか~

はじめに

この文章なんですが、書き始めたのは2018年の年末頃でして、書いたままずっと放置していたのですが、『LA-MULANA2』のコンシューマ版の発売が決まったので、このタイミングで公開することにしました。

という前提でお読みいただければ幸いです。

ゲームレビューを公開するということ

ゲームというのは本来遊んだ人によって感じるところはそれぞれであり、ゲームの感想をWebに載せても、面倒なことはあっても得なことなどほとんどない、と近年では常々思っているので、あまり書かないようにはしていたのですが、先日遊んだ(今も遊んでいる)『LA-MULANA2』には思うところがいろいろあったので、後で自分で読み返すためにも残そうと思いました。

見出しには「レビュー」などと偉そうに書いてますが、単なる個人的な感想です。推測や考察も多分に含みますがご了承ください。

『LA-MULANA2』と俺

『LA-MULANA2』というゲームがあります。「ラ・ムラーナ・ツー」と読みます。ここを読まれているということは、おそらくこのゲームのことを知ってたどり着いたものかと思われますので、ここでゲームの説明はしません。

私は前作の『LA-MULANA』もプレイしました。前作はフリーソフト版とコンシューマ版(という言い方は最近あまり言わない気もしますが)があり、私がプレイしたのはWiiWare版の方です。当時ほとんど有名メディアにも取り上げられることなく、フリーゲーム愛好家の方だけが知っているというゲームでしたが、ちょうど海外を中心に『洞窟物語』に端を発する(と言っていいと思う)今につながるインディーゲームのムーブメントが来ており、その流れで私がDSiWareやWiiWareのオリジナルゲームをDIGるのにハマっていたこと、私の好きな2D探索アクションゲームだったこと、開発元のNIGOROの他のゲームも知っていたということもあり、迷わず購入しました。

結果から言うと、ゲームは大変楽しんだものの、クリアすることはできませんでした。途中で自力でのクリアを諦めて、ネットで攻略情報を調べましたが、当時攻略サイトもなく(フリーソフト版の攻略サイトはありましたが、コンシューマ版ではかなりゲームが変わっています)投げ出してしまいました。この手のジャンルはそれなりの数プレイし、都度クリアしてきた私でしたが、その程度には難易度の高いゲームです。

それから時が経ち、『LA-MULANA2』のクラウドファンディングが始まりました。気持ちとしてはバッカーになってもいいなとは思ったのですが、続編と言えど、お金を集めただけでゲーム開発がうまくいく保証などないというのは実体験としてよく分かっていたので、きちんと出来上がったものを見てお金を出そうと思い、静観することにしました。
(余談ですが、クラウドファンディングは、アイデアはあるが実績や知名度がない若い人のための仕組みであり、知名度だけでお金を集めようとする大人が利用することについて私は懐疑的ですがそれはさておき)

『LA-MULANA2』との初めての出会いは、2015年のBitSummitでした(「BitSummit」についても、おそらくこれを読んでいる方はご存知かと思うので詳細は割愛しますが、京都で毎年開催されている、インディーゲームを集めたゲームショーです)。私が初めて訪れたBitSummitがこの年です。プレイアブル出展されていた『LA-MULANA2』を見て、プレイしたい欲は湧きましたが、本編プレイ時のインパクトが薄れると思ったので、開発者の方に応援の言葉だけお伝えして、おみやげ(たしかステッカーとバッジ)をいただき、プレイしないままそのときはお別れしました。

時は流れて2018年、もうそろそろどうなったかな、と思っていた頃に、まさに「電撃的に」リリース日が発表され、間もなく発売されましたが、私はそのとき他のゲームで遊んでいたため、それが落ち着いてから購入しよう、ということで、リリースから遅れること数カ月後に購入し、プレイを始めました。

ファーストインプレッション

遊び始めたときの私の印象は「これこれ!」といった歓喜に満ちたものでした。謎に満ちた広大なフィールドを自由に駆け回り、散らばるヒントを集め推理し、仕掛けを解いた先のボスと戦ってアイテムを入手し、さらに世界が広がっていく。いわゆる(このゲームがそう呼ばれることに対して肯定的かどうかはさておき)「メトロイドヴァニア系」の「探索→戦闘→成長」というゲームサイクルの面白さをとことん追求した傑作だと思いました。ある瞬間が訪れるまでは。

遊びこむほどに牙を剥く

数10時間ほど遊んだ頃でしょうか、行けるフィールドはどんどん広がりますが、行ったことのない場所、見ていないヒントはだんだんと減っていき、代わりに未解決の仕掛けやヒントが増えていきます。既視のシーンが増え、新鮮味や刺激が薄れていきます。進行のスピードが徐々に徐々に鈍っていき、やがてピタリと止まります。いわゆる「詰んだ」状態が訪れます。

こうなると、あとはひたすら、見落としやひらめきを探すために、一度見たフィールドをもう一度端から探し直す「作業」が始まります。行けども行けども知った場所、知った敵、知った情報…。新しいヒントはないので、新しいひらめきもなかなか生まれません。

また、このゲーム、進行のための「クリティカルパス(ここを通過しないとその先に進めない)」が特に後半にかけて非常に多いです。迂回ルート的なものはほとんどありません。
やっとの思いでひとつ見落としを見つけ、やっと先に進める…となっても、すぐに次の「詰み」が来て進めなくなるというのもザラです。

この段階に入ると、非常に退屈な時間が続くようになります。こうして、このゲームからじゃんじゃんと出ていた旨味が急速に失われていきます。

開発者VS集合知

「LA-MULANA2」ですが、他の2D探索アクションと比較しても、アクション、謎解きの難易度は高いと思います。
おそらくですが、何のヒントも外から得ずに、完全に自力でクリアできる人というのはほとんどいないのではと思ってしまうほどです。

こういうゲームデザインは、80年代後半の、特にPCにおけるアドベンチャーゲーム、RPGに多く見られたものです。クリアできる人が褒め称えられる時代です。インターネットもなかった頃ですので、雑誌の攻略記事や攻略本の情報価値が非常に高かった時代でもあります。

この頃のゲームの楽しみ方として、一緒に遊んでいる友人との情報交換も含めて楽しむというスタイルがありました。
今でこそ「誰でもクリアできる」印象として捉えられている『ドラゴンクエスト』シリーズですが、『II』における紋章集めなどは、クリアした人の中でも大半が、友達に聞いた、雑誌で見た人が多かったのではないかと思います。

こういった高難度ゲームとして私が思い浮かぶのがナムコの『ドルアーガの塔』です。
プレイしたことのある方は分かるかと思いますが、このゲーム、アイテムの入手方法やその効果が完全にノーヒントだったため、ゲームセンターに置かれていたコミュニケーションノートなどで情報交換が行われていました。
私はアーケード版ではなくファミコン版で初めて遊んだため、すべての攻略情報がそのときにはすでにありましたが、当時遊んでいた人達がどのような過程でエンディングに到達できたのかは、残念ながら知るところではありません。

時は流れて現代において、「難しくてクリアできない」ゲームというのはあまり歓迎されません。作業感を与えない程度に適度に誘導してあげつつ、自力でクリアできたという達成感を与えてあげる方がよいゲームと言えます。
となると、攻略情報が誰でも手軽かつ無料で手に入ってしまう昨今、逆に「攻略を見てゲームをする」ことが、「甘え」「ヘタレ」のように見下される風潮は間違いなく存在します。

『LA-MULANA2』においては、そういった昔のアドベンチャーゲームへのオマージュであることもあり、ターゲットはその当時を知る高めの年齢層の人がボリュームゾーンだと思います。
リリースされた当初は匿名掲示板などで、攻略に関する話題で盛り上がる「古き良き」時代を思わせるスレッドが見受けられます。
「ここでこうしたらこうなった」「ひょっとしたらこういうことなんじゃないのか」といった、憶測も含む断片的な情報から、ひとつひとつ謎を解き進めていく感じは、それ自体がひとつの面白さと言えます。

「攻略情報」というクリエイティビティ

私が『LA-MULANA2』を購入したのは、先述の通りこれらの盛り上がりが終息した、もう少し後のことです。先人たちの試行錯誤の末に残ったのは、一切の過程を飛ばした「解答」のみでした。
私がゲームに行き詰まり、無駄に退屈な時間を過ごさないためにも、攻略サイトを見てしまったことがあるのですが、どのサイト、どの動画を見ても、味が抜けたガムのように全く面白くありませんでした。

ゲームを遊ぶ上で「解答」というのは、ほとんど価値がありません。解答の通りにゲームを進めることは、単なる「作業」や「操作」であって、「遊び」とは言えないためです。

数学において、問題を解く過程を飛ばして解答だけを見ても、その問題を解いたことにはなりませんし、なぞなぞにしても、解答だけでは何が面白いのか全く分かりません。

そして、多くの場合「解答」は一つしかありませんが、そこに至る過程は複数あり、さらには、その過程をどう伝えるか、については、人の数だけ方法があります。つまり、ここに書き手の「個性」や「技量」が反映されるのです。
昔のゲームの情報交換が楽しかったのは、そこに情報元となる人の個性が反映され、真偽の入り乱れる中で自分で情報を再構築する過程が含まれるからであり、また、当時の攻略本が面白かったのは、書き手がその攻略情報を伝える「プロフェッショナル」だったからです。

先述の通り、現代のゲームでは、攻略情報はゲームの外ではなく中に含まれることが求められます。それは、インターネットが普及したことにより、外部の攻略情報提供者が「素人」ばかりになってしまったことが大きいのかもしれません。
彼らの目的は「正解を伝えてアクセスを稼ぐこと」あるいは「ただの自己満足」であり、「ゲームを遊んでいる人に攻略を楽しんでもらうこと」ではありません。
それができるのはクリエイティビティを持ったプロフェッショナルの人達だけであり、攻略本ビジネスが厳しくなってしまった昨今においては「開発者自身」しか残されていません。

話を元に戻しますが、『LA-MULANA2』には、そういった攻略情報をサポートする部分がもうひとつ欠けていたように感じました。
邪推をすると、まるでその部分の練り込みが完了するより前に世の中に生み出されてしまったかのような。

このゲームにおいて、アクションの難易度が高いことはさほど問題とは感じませんでした。きっとここをこうすれば勝てるのだろう、という点が明確であり、後はテクニックを磨き、敵の挙動を見極めることで克服できるからです。
しかし、謎解きに関しては残念ながらそれを見出すことができない箇所が多数ありました。謎解きが難しいこと自体は問題ではなく、それに関するフォローが足りていなかったのが問題のように感じました。

「自分が作るんだったらこうする」というのはいくつかありますが(例えば、石碑、会話、部屋名を記憶する機能はデフォルトで有効にして制限をなくすとか)、すでに大分長くなってしまったので割愛します。

私などが今さら言う話ではないですが、私がベストゲームのひとつとして絶賛している、任天堂の『ゼルダの伝説』シリーズは、この「フォロー」が神がかり的によくできており、これが今でも名作として語り継がれる理由なのではと思います。
『LA-MULANA2』においても、謎解きのギミックの緻密さ、斬新さの部分だけを見れば、過去の名作アクションアドベンチャーゲームに劣るとは決して思いません。

結局のところ

ゲームデザインの話としては、このゲームの「高難易度」は、『ダークソウル』や『ロックマン』のようなアクション面でのチャレンジングな方向ではなく、謎解きにおいて退屈な方向に作用してしまっている点は大きな課題のように感じました。
もちろん、クリアできなかったから面白くない、とも言い切れないのがゲームの不思議で面白いところであり、そういう見方ができる人には問題にはならないでしょう。(世間で評価の高いゲームであっても、トロフィーの取得率を見れば購入者の大半がゲームをクリアしていないのがわかります)

そして、このゲームが往年のPCゲームやアーケードゲームの時代の名作とは違うのは、当時のゲーマー達のコミュニティと現在のそれの有り様が変わってしまったことがひとつの大きな理由のように思います。
インターネットの持つ「ゲームへの破壊性」を過小評価していたことや、ゲーマーコミュニティやゲームメディアがプレイヤーを気持ちよくクリアまで誘導してくれることに対する過度な期待があったのかもしれないと思いました。
厳しい言い方をしますが、作り手として思うのは、自分達が生み出したゲームを外の人間に壊されるくらいなら、最初から自分達でゲームを守るための防衛策を張っておくのが(悲しいかな)今のゲームに求められることなのです。

さて、来たる6/27には、『LA-MULANA2』のSwitch/PS4/Xbox One版が発売されます。このタイミングでまた新規のプレイヤーが増えるでしょう。おそらくそこでまたコミュニティが活性化するはずです。そのときには、『ドルアーガの塔』のような往年のコミュニティの空気が再現されるかもしれません。もし『LA-MULANA2』に興味があるが未プレイだという方は、このチャンスを逃すと、ゲームの有り様が別物に変わる可能性がある、ということだけをお伝えして締めさせていただきます。

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