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バレエ小説「パトロンヌ」(10)

「寺田甲斐、第一ソリストとしてロイヤル・バレエの舞台に出演」

 新聞の文化欄に、その見出しとともに覚えのある写真を見つけた途端、ミチルはすぐさま記事に書いてある劇場に電話を入れた。呼び出し音が鳴る。胸の鼓動がどんどん大きくなり、耳たぶが熱くなっていくのがわかった。

「あの、ロイヤルバレエの公演ですが、土曜の昼のチケットはまだあるでしょうか?」
 そうなのだ。公演日が何日あっても、タカシにマユを預けられる日でなければ行くことはできない。
「S席は完売いたしまして、A席が多少残っておりますが」
「A席でかまいません、1枚お願いします」

(ようやく会える。寺田甲斐に、ようやく会える! 彼はどんなふうに成長したのだろう。またあのローザンヌ・コンクールの時のような鋭い切れ味で、私を魅了してくれるのか?)

 彼を観られるのなら、1万円は惜しくなかった。いつもは外国にいる彼を、日本で観られるのだから。そう、彼のためにチケットを買うのだ。彼さえ出れば、他のすべては何であってもかまわない。
 ふと、ミチルは念を押した。
「新聞で見たんですけど、これに寺田甲斐は出演しますよね?」
「誠に申し訳ありませんが、寺田はトリプルキャストになっておりまして、この日必ず出演するとはお約束いたしかねます」
「え……」
「いかがいたしましょう?」
「あの、土曜の昼以外でも、必ず出る日というのは、ありますか?」
「申し訳ございません。キャストは当日の午前中に発表されるので、その前にはわからないんです」

 クラシック・バレエでは、同じ演目を日を替えて異なるダンサーで演ずることは珍しくなく、そのすべてを観てダンサーによる解釈の違い、雰囲気の違いを比べることも、楽しみの一つである。また、バレエに怪我はつきもので、公表されているキャストのほかに、必ずアンダースタディ(代役要員)がその役を稽古している。しかし、バレエの世界には「ど」がつくほど素人なミチルにとって、「トリプルキャスト」などまったく思いもよらないことだった。
 ましてやこの時、ミチルの目的は「寺田甲斐」一点。彼が出ないかもしれないというリスクと、1万円という大金の間で、彼女は揺れた。うまくすれば、彼を観られる千載一遇のチャンスをつかめる。もしそうなるのなら、この1万円は安いものだ。でも、もしロビーに貼りだされるというキャスティングの紙に、「KAI」の文字がなかったら……。その時の落胆・脱力・絶望。そして思い知る、1万円の無駄遣い……。どうしよう……。

「すみません、やっぱりキャンセルします。お手数かけました」
 ミチルはゆっくり電話を切った。ロイヤル・バレエ団の伝統も、そのプリンシパルの妙技も、今の彼女にはまったく価値のないものだった。自ら価値を認めないもののために、1万円は払えない。夫に子守りは頼めない。
 この時彼女が観に行きたかったのは、バレエではなく、寺田甲斐だったのである。(つづく)


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