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老いの下拵え

老いは避け難い現象

いのちには限りがあり、身体機能や認知機能は低下し、いずれは他者の手を借りなければ生きていくことができなくなる。自分だけの力で立ち上がり、歩き、口から食べ、トイレに行き、風呂に入る。当たり前にできていたことができなくなる。場合によっては、病によって早められてしまうこともある。

トイレぐらいは自分で行きたい」入院中の患者さんが、必ずと言っていいほど口にする言葉だ。見方を変えれば、生まれてきた時に戻っていくだけのことなのだが、他者に対して負担をかけることや恥ずかしさなど様々な思いから葛藤を覚える。これまで人を扱ってきた経営者などが、自分の体さえ管理できなくなる事実(自己コントロール感の喪失)を受け入れ難いことは察するに余りある。

下山を楽しむ

登山は山頂に到達するという目的があり、下山には出発点に還るという目的がある。しかし、下山する時には、登ってきた時には気づかなかった景色を眺めることができるはずだ。

老いていく体で仕舞いの道を歩んでいくのであれば、楽しみながら老いて行きたいものである。納得したエンド・オブ・ライフのためには、準備が必要である。

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手灯明

仏陀は入滅前、「自灯明、法灯明」という言葉を遺している。自らを拠り所とし、法(真理・仏陀の教え)を拠り所として生きよという言葉である。しかし、自分のことが自分でできなくなった時、家族、友人、医療従事者などの他者に頼らざるを得ない。

納得しながら下山をするためには、自分を支えてくれる「手」が必要だ。仏陀の遺言に追加すると、「手灯明」が求められるのではないか。その手は誰の手でも良いというわけではない、誤嚥しないように食べさせてくれ、長時間でも漏れずに不快にならないおむつをつけてくれ、認知症になった私に優しさを示しながら支えてくれる「」が拠り所になるはずである。

最期まで口から食べる

たとえ動けなくなったとしても、口から食べることは最大の楽しみである。嚥下機能は低下し、手も上手に使えなくなった場合には、誰かに食べさせてもらわなければならない。

この食事介助の技術を徹底的に研究し、実践し、普及啓発してこられたのが小山珠美先生である。口から食べる幸せを守る会を主宰され、我が国における食事介助の技術のボトムアップを目指しておられる。私が自分の力で食べられなくなったら、この食事介助の技術を習得した方に食べさせてほしいと思う。

ユマニチュード 優しさを伝える技術

認知症の人とどう接すれば良いのか、あるいは、自分が認知症になった時にどう接してほしいか。多くの人はこの問いに容易には答えられない。本田美和子先生イブ・ジネスト先生に出会っていなかったら、日本における認知症ケアは闇の中であり続けたかもしれない。

ユマニチュードは認知症の方へケアを提供するためのメソッドであるが、非常に洗練されたスキルであり、根底には人を人として尊重するという確固たる哲学がある。3年前、研修会に参加した時に、本田先生は「ユマニチュードは魔法ではなくて技術」と言い切っておられた。

私が認知症になる可能性も決して低くはなく、家族にはせめてユマニチュードの基本だけでも学んでいて欲しいと思う。また、病院や施設で過ごさざるを得ない状況になるのであれば、ユマニチュードのスキルをもったスタッフの方々にケアをお願いしたい。

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おむつフィッター

京都にあるむつき庵では、排泄ケアに関する情報提供を行なっている。排泄ケアのスペシャリスト養成のため、おむつフィッター研修を開催している。おむつがピッタリとフィットしていると、長時間座っていることも苦痛ではないという。介護者にとっても、安心して排泄ケアができることは介護負担が減ることにつながる。

ユマニチュード同様に家族あるいはケア提供者には、おむつフィッター3級だけでも良いので学んでおいて欲しいと思う。

人に委ねる

自灯明から手灯明に切り替えなければならない時は、誰にでも訪れる。その時に大切なことは、人(手)に上手に委ねるということであろう。作者不明とされているが、以下のような文章がある。

手紙

年老いた私がある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい

私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい

あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように
見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい

あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ 旅立ちの前の
準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない
足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったなら

あなたがか弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私にどうかあなたの手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど

私を理解して 支えてくれる心だけを持っていて欲しい
きっとそれだけでそれだけで私には勇気がわいてくるのです

あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい
私の子供たちへ 愛する子供たちへ

誰もが赤ちゃんで生まれて、赤ちゃんになって最期を迎える。それは、決して恥ずかしいことでも迷惑なことでもないはずである。その時が来る前に、人に委ねる手に任せることを練習しておく必要があるのではないだろうか。

社会全体における老いへの準備

こうした準備は、介護用ベッドや簡易型トイレを借りるように一朝一夕でできるものではない。入念な下拵えなくして、納得のいく老いを迎えることはあり得ない。個人や家族単位にとどまらず、地域や社会全体が成熟することなくして理想的なエンド・オブ・ライフというのは実現不可能であろう。

食べること、排泄すること、優しさを伝えること、各々の技術を備えたcare giverを一人でも多く養成していくことが求められている。他人事とするのではなく、どれか一つだけでも学んでみてはいかがであろうか。


大坂 巌(おおさか いわお)
社会医療法人石川記念会HITO病院 緩和ケア内科 部長。
1995年千葉大学医学部卒業。静岡県立静岡がんセンター緩和医療科(2002~2018)を経て、愛媛県で病棟、外来、在宅にて適切な時期に最適な緩和ケアを提供することを模索中。
社会医療法人石川記念会HITO病院
人が真ん中になると、医療は変わる。


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