『背ガール』


 教室のはしのほうでみんなと笑っていたら顔面になんかきた。視界が急に白んで鼻の奥がツーンと破裂したみたいになり、まぶたはぎゅっと緊張したままわわわわわわと頭の中がやかましいのと、実際に周りの女子が騒ぎ出したのとで気が遠くなる。
 ジェシー様の怒鳴り声がする。
「ちょっと藤森!」
「顔だよ顔!」
「信じらんない!」
 藤森くんは同じクラスのサッカー部で運動神経がめちゃくちゃいいので、今日みたいに部活へ行くまでのちょっとの時間に教室の後ろのほうでほかの男子と丸めた教科書をバットがわりに野球をしたりするのだけど、ってことはいまわたしの顔に当たったのはボールか? ゴム製の。
 あ、なんだゴムか。
 なら大丈夫だ。
 とわたしは固く閉じたまぶたをあけ、たまっていた涙を瞬きと指で散らしながら顔を上げる。何度か鼻の頭を指先で撫でたりはするが、それ以上は触らない。ちょっと痺れた感じが残っているが、平気であることを伝えなくちゃ。
「なっちゃんだいじょうぶ?」
 と大声で聞いてくるのがジェシー様。すぐとなりでわたしの肩に手を添えつつ「見して」と言うのは美玖ちゃん。わたしはまず両手のひらを胸の前に掲げる。やべー、という感じで目を見開かせた藤森くんが「え、ごめん、だいじょうぶ? ごめんごめんごめん」と近づいてくるので静止させる意味も込めて。
「ん、大丈夫!」
 と言ったその瞬間、わたしのことを見ていた全員が「あ」と言った。
「鼻血」
「え?」
「なっちゃん、鼻血でてるよ」
 でてないよ、とわたしは言った。鼻の奥からサラサラしたものが伝ってくるのがわかったのに、わたしの手が動かなかった謎。

 保健室の先生はボールがゴム製であることを知ったとたん「もっと大変なこと起こったと思ったじゃない」と言って新しいティッシュをくれた。あ、すいませんと反射的に謝っちゃったわたしを見てジェシー様が不満を覚えたのを感じる。実際に保健室を出てすぐに「あのおばさん、死ねばいいのに」と結構な声量で言う。わたしはあははと笑うだけで、つっこんだりとかはちょっと無理だった。すさまじく疲れていたので。鼻がまだちょっとだけ熱っぽいし、その温度がそのまま頭までうつっちゃった感じだった。教室に戻ると藤森くんたちはもう部活に行ったあとだったけど、黒板にチョークででっかく

 後藤さん、すいませんでした!

 と書いてあって困る。このまま帰ったら明日の朝までこれ残るよね。かといってみんなの前でそうそうに消しちゃうとやっぱり怒っていた人みたいになりそうで、なんだかなあ。なんだかなあってことばかりだなあ。それで疲れてるのかもなあ。ということで荷物だけとって、みんなと一緒にそのまま塾へと向かう。玄関を抜けて外の空気を吸ったとたん、鼻の奥がまだまだ生臭いことに気がつく。今朝の星座占いでわたしは十一位だった。なんか十一位っぽいな、といまは思う。実を言うと、わたしは星座占いで挙げられる星座が十二までしかないことをこれまでしっかりと意識したことがなくて、十一位と言われてもそれが上と下、どちら寄りのランクなのかピンときていなかった。それを聞いたジェシー様は、「なっちゃんってそういうとこあるよね」と言って、みんなが笑ったので、そのへんからわりと疲れていた。
 塾ではみんなといっしょに日本史を学ぶ。わたしはまた血が流れ出したらどうしようとそればかりが気になって、ついつい鼻を手で覆ったまま過ごしてしまい、日本史担当の池田さんに「どうしたの?」と聞かれてしまった。池田さんはメガネをかけたひょろひょろの大学生で、接しやすいからと塾生たちに好かれているのだけど、わたしはあんまり教壇から絡んでほしいタイプではないので普通くらいだった。で、いつものようにへらへらしながら「なんでもないです」と答えると、となりのジェシー様が声を潜めて「なっちゃん、鼻怪我したんです」と言った。
「鼻? なんで?」
 わたしは相変わらずあははと笑いながら、答えるより先に笑うことに息切れして、そのまま黙ってしまった。へんな間が生まれてみんながこっちを見るし、「ん?」と池田さんが言うと小さな笑いが起こった。わたしは気づくと息を止めていた。まずい。トイレに行くことにする。
 個室のなかでトイレットペーパーを巻き取り、何度も鼻をかんだ。まだちょっとだけ血が出てくる。使った紙を便器に放り込んで、またかんで、放り込んでを繰り返していると、そのまま過呼吸になってひっっひっひっひと泣いてしまい、鼻水がより止まらなくなって、今日はもうこのまま最後までトイレにいようと決めた。日本史の授業が終わるくらいに教室に戻って荷物を回収しよう。プランを練りながらも、わたしは涙を止めることができない。頭の中だけ冷静なふりをしてもなにもついてきてくれない。集中したほうがいいのか? ためしにふざけるなと念じてみた。怒りだってゼロじゃないだろうけど、百でもないみたいで、いまいちピンと来なかった。たくさんの言葉を浮かべてみた。情けないが近い気がした。なんで情けないんだ? 謎。うける。うけません。みんな死ね。うそです。ちょっと本当。などと繰り返し、ドアと天井の隙間から見える薄ぼんやりとした蛍光灯の細かい点滅を無心鑑賞しているとふいに人の気配。息をひそめる。するとドアがノックされる音がして、え、隣? としらばっくれてみるも確実にこのドア。
 考えよう。
 その強くも弱くもない力加減が、こちらに思考を悟らせないようにしているみたいでちょっと怖い。隣は空いているのにノックしてきたってことは、ジェシー様とか? ノックを返す。
 コンコン、とまた鳴る。
 いや、返事したんだが。念のため顔中を手でぬぐってからもう一度ノックを返そうとすると、
「サボり」
 知らない声だった。あと、質問なのか独り言なのかもわからない、語尾のかすれたへんな言い方だった。誰何怒ってる? 上から水とか降ってこないかなと急に怖くなって背後のタイルにピッタリ張り付く。すると、気配が音と一緒にドアから離れていくのがわかった。向こうにいるのはひとりっぽい。え、だれ? 
 それから何分か沈黙と逡巡にひたったわたしは、鍵を開け、個室から出る。そんですぐにしまったと思った。洗面台のところに人がいて、わたしのことを見ていた。それは樋口さんだった。たぶん樋口さん。ここでしか見かけない違う中学の人だけど、髪が長くて背が高くてちょっと怖そうで、なんなら高校生っぽくも見えるけどたぶん同い年。
 樋口さんは待ちくたびれた様子で歩いてくると、正面に立ち、わたしの着ているシワのよったベストのすそを下に引っ張ってくれる。
「かえれば?」
 樋口さんの息は、ちょっとだけ苦いにおいがした。
「え?」
「気分悪いんなら帰れば」
 はあ。
「我慢しちゃダメだよ」
 また泣きそうだ。
「癖になるよ」
 はい、と答えていた。樋口さんはそこまで言うと、そのままトイレから出て行ってしまう。え、待って。わたしも慌ててあとを追おうとするけど、ふと鏡に映った自分の目が妙に開きすぎな気がしてちょっと引いて、足も重くなる。顔、洗ってくか。わたしは手のひらを水で湿らせ、目の周囲をこすってみる。ちょっとだけぬるぬるする。
 樋口さんのさっきの言葉に頭がようやく追いついてきた。
 我慢するのに慣れすぎると、みんなどんどん我慢させにくるよ……
 もっと話したかったな、とわたしは鼻をすする。 むせる。生きる。

 その日のわたしがなにも告げずに塾から帰ってしまったことを、ジェシー様は「塾サボりの乱」と呼んでいるらしかった。わたしの乱は継続中。放課後にはいったん教室から離れることでジェシー様たちといっしょに塾に向かわなくても済むようになる。自然と距離もできる。
「なっちゃんて、なんでなっちゃんなの?」
 ある日の休み時間、久々に話しかけてきたジェシー様はそう言った。なんで? と聞くと「だってなっちゃんの名前、夏緒じゃん」とジェシー様。
「うん」
「うん」
「あ、『なつ』って音がないのになんでなっちゃんかってこと?」
「はい、そうです」
 いやなリズムだな、と思った。話に参加していなかった隣の席のユウコちゃんが笑う。能登ちゃんやゆっちゃんもこっちを見ている。美玖ちゃんは自分の席で本を読んでいる。本。好きだったっけ。
「たぶんだけど、音じゃなくて漢字からつけてくれたんだと思う。小学四年くらいのときかな。友達が」
「そうなんだ。じゃあわたしはカオちゃんって呼んでもいい?」
「ああ、いいよもちろんなんでも」
 遅れてわたしは、いまの会話なんか変だよなと思った。考えすぎかな? 自意識過剰? わたしは席に座って悟られないように息を吐く。過剰の反対ってなんだろう? 電子辞書で調べてみる。過剰の反対は不足。自意識不足。不足というにはまだ考えているほうでは。
 自意識適量。

 親にはどこまで話さなきゃならないんだろう? 塾に行きたくないという態度をほのめかすと、パパは言った。
「勉強だけはちゃんとしておけ」
 あはは。
 わたしは制服に着替え、リュックを背負って玄関で靴下を履く。で、爪先に空いた穴を見つける。
「お母さん、靴下に穴空いてる」
「えーなに? 新しいのに履き替えればいいでしょ」
「面倒くさい」
「やめて、恥ずかしいじゃない。履き替えるだけでしょ」
「学校行きたくない」
 靴下の穴くらいで大げさなわたし、を演じることも忘れない。

 ジェシー軍団と絡まなくなったおかげでわたしに余白が増えたのか、樋口さんと話すようになる。連絡先も交換する。塾近くのファストフード店でノートに絵を描いて過ごすこともあれば、ちょっとだけいっしょに勉強したりもする。樋口さんは六月生まれ。わたしは七月。空気の匂いが夏っぽくなってくると、テンションが上がるって話で盛り上がったのが嬉しかった。
「後藤さん、これなんて読むの」
 樋口さんは塾用の参考書に書かれたわたしの名前を指差して聞く。
「かお、だよ」
「かっこいいね」
「うそ、樋口さんの名前もかっこいいよ」
「えー、りお?」
「そうそう」
「とりあえずありがとう」
「こちらこそ」
「夏に、これおって読むんだね。どういう意味?」
「緒……なんだろうね、知らない」
 樋口さんがトイレに立ったのでしばらくぼーっとしていると彼女の置いたまんまの鞄が目に入る。チャックが開けっ放しだったので内側がのぞいていて、ペットボトルとかいろいろ入っている中に青い小箱を見つけた。大人だ。わたしは電子辞書で「緒」の意味を調べてみる。単独では「いとぐち」って読むのか。物事のはじまり、ほったん。へー。もうちょっと掘り下げると感動しそうな予感がするが、そこに樋口さんが戻ってきてこう言う。
「さっき思いついたんだけど、なっちゃんって呼んでいい?」

 これは運命?

 たぶん、そういうことってある。わたしは毎日がちょっと楽しくなる。学校での音がうるさくなくなる。すご。ジェシー様とはもう何日も話していないけど、いいんだ、どうせ。わたしたちは受験生なのだ。勉強をしている間はとりあえず無敵。透き通っていて、自然。塾サボりの乱継続中でもわたしの成績は落ちない。授業は前以上に真剣に聞いているし、あとで樋口さんに教えなきゃというひそかな使命感もある。樋口さんに教える過程でわたしも理解を深めることができる。
「なっちゃん、教えるのうまいよね」
 樋口さんは褒めるのうまいよね。
 テスト期間に入ってもわたしは樋口さんとファストフード店とかイートインコーナーで勉強したりおしゃべりしたりをやめない。これまでのテストの成績はクラスで真ん中くらいだったのに、一学期の期末テストではついにクラスで2番目になる。学年でも十位以内に入った。あんまり驚かない。いまのわたしは別に迷っていないから、こうなることもあり得るでしょうくらいに思ったのが正直な話だ。
 思えば、わたしが席次でジェシー様より上になったのはこれが初めてだった。
 わたしは学校での進路希望調査票に志望高校の名前を記入しながら、樋口さんのことを考える。
 樋口さんは高校どこにいくんだろう?

 わたしは散歩をしている。
 泣くのも運動のひとつかも、なんてことを考えて。ぐったりしてすんなり眠れたりするし、持久走とおなじ枠に入れておくべき行為なのかもよ。
 夏休みはもうすぐで、空気が湿っていて暑苦しいけど、夕暮れになればずっとマシになる。わたしは公園を見つけてそこのベンチに座ってぼーっとする。ぼーっとするったって呼吸だけじゃ飽きてくるので自販機でジュースを買ってそれを飲む。公園には自転車に乗った小学生とか、知らない同い年くらいの人たちとか結構いる。
 美玖ちゃんもいる。
「あれ、塾は?」
 と聞くと、なっちゃんこそ、と彼女は言った。隣に座った美玖ちゃんを、こんなふうに近くで見るのもなんか久しぶりだなと思った。久しぶりすぎて話すことがなにも浮かばなかったわたしは、とりあえずいろんな遊具に乗ったりのぼったりしてみた。美玖ちゃんはベンチに座ったまま、本のようなものを読んでいた。参考書かな。小説かな。
 おまんじゅう型のすべり台があって、わたしはその上にのぼるも滑らない。頂上に腰を据えると、フェンスの先にひろがる家の屋根がいくつも見えた。さらにそのずっとずっと向こうには小さなビルも何本か見える。もっともっともっと向こうには、オレンジ色の空と巨大な雲。
 ふと背後に気配があって、振り返ると美玖ちゃんが階段を上ってくる。よいしょ、と言ってわたしに背を向けて腰を下ろすと、手に持っていた本を開いて読み始める。

 樋口さんと最後に会話した日、わたしは彼女に高校の話をした。
 彼女は力なく笑っていた。ような気がする。
 記憶の中ではそういうふうになっている。

 そしてわたしはあらゆる痛み苦しみ怒りを抱えて高校生になる。いろんな人と知り合う。恋はしないが、人と付き合ったりする。漫画を描いてみる。大学に進学する。高校のころに知り合った人のことが本当は好きだったのかもなとか思う。やりたいことは曖昧なまま、できることを続ける。楽しくなったり、嫌いになったりする。
 そしてその先。
 その先の先の先。

 
 美玖ちゃんは、小説家になりたいんだと言った。
 わたしは、ジェシー様達といっしょにいるのが嫌になったと言った。
「べつになっちゃんは間違ってないよ」
 背中合わせのまま美玖ちゃんがそう言って、へへへ、わたしはまた泣いてしまった。
 よって今夜もぐっすり眠れます。

 

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