でかいチワワ【前編】


“クレイジーボーイCLUB”という落書きが学校近くの地下道の壁にサインペンで描かれていたとのことで近隣住人から苦情が届き、犯人がうちの高校の生徒だという確証はないけどそういうのはやめてね、と生徒指導担当の児島先生が全校集会でいっていたけど、そもそも “クレイジーボーイCLUB”ってなんなん? やばいよね、とみんなで笑っていると、ぱん! と鋭い音がして梨絵子ちゃんが世界一かわいい「きゃ」を発した。みんなのびっくりも帳消しにしてくれる響きだった。顔の前にとっさにかかげられた手の甲には「シュシュ×4」とマジックで書いてあるのが見えて、わたしはどういうわけかめちゃくちゃテンションが上がっちゃったった。
「ぶっ……もー、びっくりした」
 もしかしていま「ぶっ殺す」っていおうとした? パンクした風船の噛みかけのガムみたいなかけらをつまむ男子たちをこまりまゆで睨む梨絵子ちゃんの隣で、戸田さんがだはは、おもろ、と声を漏らす。戸田さんの肩に手を添えた梨絵子ちゃんが「ぜんぜんだから」というが、それでもまったく相手にしない戸田さんはわたしのほうを向いて「きゃっ」と繰り返しながら何度も肩を強張らせてみせる。
「うそ、こいつ」と梨絵子ちゃん。「超うざい!」
 それでもなお戸田さんは驚いた梨絵子ちゃんの真似をさらに五回くらい続ける。それは廊下の壁にもたれかかりながらくの字に折れるわたしを見て調子にのったからでもあるのだ。忍びないところですが、梨絵子ちゃんの怒りも折れて天を大きく仰いで笑っていたから、心置き無くって感じになれたのだった。
 みんななんだか機嫌がよかった。

 奇跡?

 ホームルームが終わってすぐ、浅野くんがわたしのところにやってきて「ちょっと頼める?」と丸めたポスター三本を机の上に置いた。わたしはおもちゃの瓶底メガネをかけて、かこちゃんやゆうぞうやまりえちゃんらの爆笑のなか無言を貫いているところだったので、あまり考えずに即答したのだけど、あとになってからえ〜? と思った。ちょっとだけね。全然いいけど。こんなとこ観られてたらこいつ暇なんだなって思われても仕方ない気もするし~、とわたしは自分が瓶底メガネをかけていることも忘れて丸められたポスターを開いてみた。ぼやけていても色彩でわかる。わたしも制作に関与したクラスポスターがついに完成したのだ。
 エアコンが使われなくなって一週間目の今日は、開け放した窓からの空気がちょっと肌寒いくらいだったけど、わたしはこのカラッとした廊下が好きで、歩くだけで冴えた気分になる。あと浮ついてくる。なにもそれはわたしだけじゃないはずだと思っている。窓の外をちらっと見やるだけで、誰かが誰かと話しているし、歩いているし、笑っているし、ちょっと焦ってる。ほらな。そういうのがやけに目に付く放課後がここ数日続いているのだ。なので簡単にのまれてしまうわたしはやることあるのになんでも引き受けてしまう。なんにせよ、断るのって難しくない? 角が立つという言葉を最近覚えたばかりなのだ。みたいなことを考えながらピロティー→部活棟→職員室前の掲示板と移動して最後のポスターにピンを刺し終えたところに、梨絵子ちゃんと戸田さんが歩いてるのが見えた。視聴覚室で後夜祭に関する話し合いを終えたところらしい。
「なっちゃんたちはなにやるんだっけ?」
 梨絵子ちゃんからその質問を受けたとき、わたしはその「なっちゃんたち」がなにをさすのかピンとこなかった。
「ほら、五組」
「あ、それはですね、劇をやります」
「あー」
「あ!」と戸田さんが両手をパンと叩いたので梨絵子ちゃんがまたびっくりする。「まえ練習してるの観た! てかあれでしょ、面白そうなやつ。女バレの人もめっちゃ笑えるって」
「ほんと?」というわたしに梨絵子ちゃんが「え、なに? オリジナル?」と眉をしかめる。
「そうそうそう、オリジナル」
 浅野くんの。
 我が五組の催しは彼書き下ろしのなんちゃって道徳劇で、わたしは深刻なクラス会議中にずっと絵を描いている女子の役……要はわたしらしかった。浅野くんもクラス全員をあてがきにしてセリフを考えたといっていたので、まあわたしなんだろう。でもわたしってそうか? 人の話くらい聞くけどな、とは思うけど、それはそれで結局は役なんだし、ほかのみんなだってなにかしら思うところあるんだろうし、どこかに落としどころを決めて演じるしかない……わたしを。
「なっちゃん、セリフあるの?」
「けっこうあるよ」
「どんなの? ちょっとだけ!」
 梨絵子ちゃんにいわれて、わたしはすこし黙ってから
「え、はい、あ、ごめんなさい、聞いてませんでした」
 とそらんじてみせる。どう? という沈黙に対して、ふたりしてぽかんとしていたけど、やがてくしゅううっと吹き出してから叫ぶ。
「え! それー?」
「え、だめー?」
「ううんそうじゃなくて、それだけ?」
「ほかにもあるけど、これ第一声」
「もっかいやって」
「え、あ、はい、ごめんなさい、聞いてませんでした」
 パンパンパン! と戸田さんも手を叩く。「顔!」
「顔?」
「ほんとうに聞いてなかった人じゃん!」
「あははは、ちゃんと出てる?」
「出てる出てる、めっちゃ出て、名演!」
 目の前の二人が「すごー」とか「めっちゃ楽しみ」といってくれるその向こうで、渡部先生が廊下を横切るのが見えた。が、わたしはいまこの瞬間の膨張する空気が素直にうれしくて「わたしも!」と反射的に返している。
「ぜったい時間見つけて七組のカフェ行くからぜったい」
「え、来て」と梨絵子ちゃんが肩を掴んでくる。「ちなみにわたしいるときなら飲み物タダだから」
 んも~、って感じ。
「泣きそう。ふつうに払うよー」
「いい、いい。どうせハアハアいうデブいっぱいくるから大丈夫だよ」
 突然の言葉にぎょっとしていると、戸田さんがパンパンパン! 「りえ、それずっといってるし!」
「え、だってくるよ。こないかな? 考えすぎ? うちやるのコスプレカフェなんだけど」
「コスプレ? うおおおお」
「でしょー」と腕を組む梨絵子ちゃん。「メイドさんとかって、なんかいろいろ古いよね、センスが。男子が出したアイディアだから、まあうちのクラスみんなテキトーだし」
「でも待って。てことは梨絵子ちゃんたちも着るの?」
「まさか」
「あー」
「メイドさんはね? ほかの衣装だけどよくわかんない。なにかしら」
「なにかしらだよねえ」
「ねー」
「だってメイド服は男子が着るから」と戸田さん。
「えなんで?」
「だって案出したのは男子なんだから男子もコスプレしないと」
「でもそうか」
「でしょー?」
「たしかにー」
「でしょー?」
 いいよね~、とふたりがさらさらさら~とほほ笑んで、それがわたしの気持ちに対してほぐし水みたいに作用するのだ。感情が調子こいてついつい視線を遠くにやると、廊下の奥からこちらに向かってまっすぐ歩いてくる上下ジャージ姿の女子と目が合う。あ、まりえちゃん、と戸田さん。まりまり、と梨絵子ちゃん。
「三人なにしてんのー!」とまりえちゃんが廊下にいる全員に呼びかける。
「なにって立ちトークですけど」
「ですけどじゃねー。あはは。わたしはなっちゃんに用があるんですけどー?」まりえちゃんがジャージのポケットに両手を突っ込んで歩いてくる。
「なんだろ、なにかあった?」
「ううん、劇の話。今日の練習五時半、体育館ね」と挙手したまま彼女は叫び、そのまま立ち止まることなく外の階段へと通じるドアに消えていった。「えー忙し」と梨絵子ちゃんが笑う。わたしの手首にかけていたガムテープのロールが肘まで降りてきて止まった。
「え、五時半? 五時半?」
 そうそう、五時半五時半とふたりが念押ししてくれるので、胸ポケットの赤いマーカーをとって手の甲に「五時半」とメモすると、それを見た梨絵子ちゃんたちがつぶやく。
「あれ、そうだ」
「うちらも百均」
「そうだった」
 装飾すっから、と梨絵子ちゃんが拳を掲げたところでなにかしらを告げるチャイムが鳴り、梨絵子ちゃんたちと同じにおいの風がわたしを静かに貫いていった。

 中庭で風船バレーをしている三年生っぽい男子二人を連絡通路の手すりにもたれてじっと眺めている一年生の女子……をちょっと離れた位置からじっと眺めるわたしは腕を組む。特になにを思ったとかではないのに、ついつい足を止めてしまった。たまに部屋の角を見つめたままフリーズするみたいな、あの心地よさだ。少しずつ復活していく脳みそがまず最初に捉えたのは肌を叩く旋律。管楽器の分厚い音が降ってくる。


 連絡通路は絶好のパワースポットだという話で桐子ちゃんと盛り上がった。校内で最も吹奏楽部のシャワーを浴びることができる場所だから、という点で彼女とは意見が合致したのがちょっと嬉しかった。あんまりそういう話したことなかったもので。桐子ちゃんは今年の後夜祭で軽音楽部のひとたちといっしょに舞台に立つらしく、なんの楽器なの? と聞くと「あ、歌います」と恥ずかしそうに笑っていた。歌……すばらしい。しかも自分で歌詞を書いてそれに曲をつけてもらうらしく、そんな本格的なことする人、この学校にいたんだとわたしは思ったのだけど、でもまあそりゃ……いるか。わたしが考えたことがなかっただけで。ありえる話じゃん、だいたいは。なんて思うわたしは、そんな桐子ちゃんの書いた歌詞を読みたい、と強く思う。ということで伝えてみる。ダメ元だったのに、桐子ちゃんは読ませてくれる。何度も折りたたまれたらしいルーズリーフにはシャーペンの薄い文字で、付き合っていた人と別れたから人生が倍楽しい、みたいな感情ほとばしる歌詞がかわいい文字の群衆によって形成されていて……すごすぎないか? 一年生でこの歌詞を……だし、それを照れつつもわたしにも見せてくれて、さらには曲にして後夜祭で歌うというのだ。はわわわわわわたしの思う人生のペースというものがいかに個人的であてにならない尺度であったかを思い知らされた。まじかいな……わたしはこのとき、はっきりと敗北したのでした。こんなに気持ちのいい負けがあるのか、と思った。なぜならわたしにはがぜん力がみなぎっていたからだ。わたしもなにかしなきゃ、そしてそれを堂々と人に見せつけなきゃとも思った。桐子ちゃんはいま、それをやってのけたのだから……。
 わたしと桐子ちゃんは珍しく部室に二人きりだった。これまでは部室内の第三者をあいだに挟んで巻き込まれるように会話することはあったけど、いざ二人になった途端何話せばいいのか迷ったりするよね……一応こっちは先輩なんだけど、先輩的な売りのないわたしは先輩ヅラするのもいやだし面倒だしそもそも正解のデータがないし……とそこまで切迫する必要もないんだろうけど、とにかくいつもはあまりない、というか気づかなかったようなちょっとした緊張とわくわくがあって、いざ話しかけたらこんなにもでかい反応があって……わたしのいつもどおりの日常がブチブチブチと分岐する感覚がたしかにあった。
 もしやこの運命、無駄にはできないやつか? 

 そこでわたしも打ち込むことにした。なにを? 目の前のこと。なにか。もちろんたくさんある。出し物の劇もそうだ。わたしはわたしの役を本気で演じる。本気で「人の話を聞いていなかった落書きばっかりしている女子」になってみせる。え、あ、はい、聞いてませんでしたごめんなさい……はい、あ、え? あ、聞いてませんでしたごめんなさい……その瞬間の困惑を表現するために、二度は同じセリフをいわない……。
 すると浅野くん役を演じていた浅野くんが浅野くんとして笑った。
「なっちゃん、やばいね」
「ほんと? あ、どっち? 変かな?」
「いやいや、すごくいい」
 逆に合わせるほうが緊張するかもしれないけど、ともいっていた。その場面でわたしと絡むのは委員長春沢くん役の春沢くんだ。でも舞台袖に立っていた春沢くんは腕を組みながら言う。
「なんで? すごくやりやすいよ」
 そういって親指を立ててくれる。あ、ほんと? だよね? みたいにわたしのささやかな挑戦がなんだかうまくいってうれしかった。春沢くんのほうこそ、背が高くてかっこいいのに落ち着いている、というかいい塩梅のテンションなのでやりやすい。なるほどこうすればいいのかってほかの人を引っ張ってくれたりもっとやってやろうと思わせたりしてくれる。一番セリフの多い役なのに、いっぱいいっぱいな感じもない。なんだかどうにもすごいひとばかりで。

 お次にわたしは部活で配布する文集用の作品にもとりかかることにした。でもアイディアが特にない。いまはまだ。というのも桐子ちゃんショックが依然としてかなり響いていて、ついつい自分も失恋ものに手を出そうとしてしまう。
 なにも続かない。
 たまたま部室のソファーで寝ていた久留米くんを起こして相談してみる。久留米くんはいつだって寝起きみたいな深い二重まぶたをしている。というか、いつだって実際に寝起きな気がする。つまりそれって周囲に流されず行動するタイプの証左なのだとわたしは思っている。なんだかんだ核心をついてくれそうな雰囲気だけはずっとあるのだが……ということで、いざ。
「この方向性であってると思う?」
「ん、いや別にいいんじゃない?」
 と二人掛けソファに綺麗に収まって丸くなっている久留米くんはいった。
「本当にそう思う?」
「ごめん、思ってない」
「ほらー」
「だってあなた、いつも四コマ描いてるし」
「この内容じゃ四コマ向きじゃないってこと? 四コマだって連作スタイルのものもあるじゃん」
「ちがうんだ、本当にいいたかったのは別にあって。恋愛ものだっけ」
「そう。んー、ていうか失恋もの」
「それなんだけど」
「うん」
「別にいいと思う、あこがれるのはいつだって自由だから」と久留米くん。
 なにその言い方……! わたしは身構える。
「でもそこから先はちがうじゃん。意味わかる? いまは説明できないんだけど」
 ……。
 しかし久留米くんとのこの短い会話だけでいくつか違う考えが湧いてきたのもたしかだ。
なるほど? わたしは桐子ちゃんへの憧れを扱うモチーフにまで持ち込んでしまっているけど、それがそもそもちょっとちがうよね……行動へのリスペクトと題材の選択はまた別の話じゃなくって? 違う? ん~。脳みその普段使ってないとこがギギギギギと音を立て左右に裂け始めるのと同時に、大事なものに触れられたのかもしれないという手応えも感じる。そもそも失恋ものなど、いまのわたしに扱えるようなモチーフだとは全然思えない。あと、実はそんなに興味もない。これだな。わたしがいま興味あるのは、失恋ものを形にしてみせた桐子ちゃんという存在に対してだ。みたいな感じでいろいろ考えてなんとか気づけたのは、こういうチャレンジはわくわくするけど時間もかかるってことだった。そしてわたしには締め切りがあるということだった。わたしはわたしに合ったモチーフを……とそこでさらに気づくのは、わたしはわたしの内側にあるものをよく知らない。そもそも知る必要性を感じたことない。これってまずい? 現にちょっと困ってるわけだが。

 一応、部の顧問ということになっている渡部先生に軽く相談してみようかなと思った。案がないってことを、結構そのまんま伝えてしまう。でも先生はバカにしない。いつもの低くて聞き取りやすい声でいってくれる。
「そういうときはあれだな。読めばいい」
「あー、なるほど。病む」
 深いな。
「後藤はあれだろ? 漫画描くんだろ?」
「そうです」そうなんですよー。
「漫画を描くからってなにも漫画だけを参考にする必要もないだろ。小説を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり。鑑賞という言葉がつくことぜんぶやってみればいい」
「えー。感傷ですか」
「友達と話すのだってそう。外からの刺激だよ。インプットとアウトプット。お金と一緒で、使うには貯めなきゃならん。喋り過ぎか?」
 いえいえいえと首を振るも、実は途中から職員室はいつだってチョコとコーヒーのにおいがするな、ということを考えていた。夏が終わったいま、それは強くなった。わたしは渡部先生にいわれたこと(の断片たち)を胸に図書館に行き、司書のふみちゃん先生にも相談してみる。
「インプットしたいんですが、なにかおすすめの本など教えてもらえますか?」
「インプット?」
「アウトプットしたいので」
「なんだか怖い顔してるね」
「わたしですか?」
「まあそうね、意外と読んでいない有名どころ読んでみたら? 夏目漱石はとくに読みやすいと思うけど」
「夏目漱石! たしかに読んだことないです」
 ということで本棚の「ナ」の列を眺める。わたしはタイトルだけを眺めることも好きだ。それだけでわたしの中に貯金ができていく感覚がある。一冊選んでさっそく借りた。その日のうちに読んでしまう。『吾輩は猫である』。内容に関してはまだ咀嚼の必要を感じるが、改めていいタイトルだとは思う。猫が語ってるし。深夜一時、わたしはノートに着物を召した猫の絵を描き、メモをとった。
〈動物でも可〉
 そしてベッドで目を閉じて、相談に行った際に渡部先生のパソコンのデスクトップが目に入ったのを思い出す。
 緑の芝の上でかける犬の写真だった。



 一旦教室まで戻ったくせに「あ」となって職員室まで帰ってきたわたしは渡部先生に「犬」の件を報告した。報告して気づいたけど、まだそれしか決まっていないのだ。というかそもそも犬種も定まっていない。それでも先生は「いいんじゃないか」という。
「まずは完成させることだな」
「そうですよね。頑張ります」
 胸の前で両方の拳をかかげてみせると、渡部先生は苦笑する。
「後藤はそうやって相談してくれるぶん進捗が見えるんだけどな。ほかはどうなんだ?」
「ほかは……」たしかにわたしはわたしのことに集中していてみんながなにをどう進めているかをあまり気にしてなかった。
「安藤とか大丈夫か? 次期部長なのに」
 安藤くん。
 まあ大丈夫かは知りませんが……とそこでさらに、わたしはここ最近安藤くんに会っていないことに気がついた。部室に顔を出す時間がたまたまかぶっていないだけ? そもそもいまはみんなクラスごとにもやることあるだろうしなあ。とか思っていると、先生が「会ったときでいいから聞いといてもらえるか」という。
「あ、わかりました。みんな、ですよね」
「みんな。よろしく」
 すぐ忘れそうだな、と思って左の掌底に〈進ちょく〉とメモした。
「紙いるか?」
「あ、もう書いたんで大丈夫です」
「そうか……」
 手の甲の「五時半」が目に入ったので職員室のかべ時計を見ると、午後四時半を回ろうとしていた。練習までの一時間で作品の案をもうちょっとまとめてみるか。一礼して職員室から退出しようとしたところ「あ、」と渡部先生。「すまん後藤ひとつ頼めるか?」
「はい、なんでしょう」わたしは胸ポケットから赤いマーカーを取り出す。
「いま情報処理室を使ってるひとがいるんだけども、使い終わったらそのまま施錠せずに、鍵だけ俺の机に持ってくるよう伝えてくれないか? これから先生職員会議あってちょっと席外すから。いいか? 鍵はかけずに、おれの机の上。頼めるか?」
「はい。鍵はかけずに先生の机に返すだけってことですよね」
「そうそう完璧。わるいけど、頼むな」
「ちなみにだれいます?」
「いまはほらあれだ……町山が使ってる。二組の」
 唯一書けた「まちやま」の尻に、「さ」と「ん」を足して下線を引く。
 すぐ隣のデスクで、生徒指導担当の児島先生が駐輪場の自転車が将棋倒しになっていたことを嘆いてた。
「浮かれるなって、いわんといけませんな」





【後編】




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