歓待 Chapter1

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 部屋を一通り掃除して疲れて横になったところに発作がきたので、俺はまた壁に穴を開ける。薬を切らしたばかりだからだ。粘着ローラーで毛やほこりを巻き取ったばかりのカーペットに仰向けになった俺は天井を見上げているが妙に高くて、それこそ十メートルくらいあるんじゃないか? でもそんなことはありえないし、さっと手を伸ばしてみると今度は急にいつもどおりの高さに戻って見える。はっ。あれ? いやいやいや。そんな感じで遠近を繰り返す天井が俺の症状のひとつだった。
先生に聞いたところによると、こういう発作は「脳神経系の機能異常」が原因らしかった。「脳神経系の機能異常」という言葉から俺の頭の中に浮かぶのは絡まる網のような神経の隙間という隙間に銀色の仁丹を液体すら通り抜けられないほどの密度でびっしり敷き詰めなきゃならないということだったりする。情けなくて嫌になるのも当然で、そばにあったクッションに顔を押しつけて叫ぶのは、言葉にならないくぐもった呪詛ばかりだ。
 今朝も六時に起床して真っ先にカーテンを開け朝日を浴びた。快晴だった。俺の発作を抑えるにはセロトニンが必要らしいので、天気のいい日は必ず日を浴びるようにしている。生活習慣から正していくことが大切だと先生は言った。暖房を切ったあとベランダに出て乾いたタオルで手すりを拭き、布団一式をそこに干す。それから軽いストレッチとスクワットをすませるとダイニングを経由してリビングに向かい、片手サイズの鉢から生えている観葉植物に水をやる。なんて名前の草なのかは知らない。でもかわいい。俺はこいつを「脳」と名付けた。天気のいい日に一日中窓辺に置いてやると、葉がつやをもち上向くからだ。
テレビをつけて天気予報を確認した。今日の最低気温は七度。最高は十二度。湿度は三十パーセントで乾燥している。あとで加湿器に水を入れておこう。朝食は食パン二枚をトーストにしてピーナツバターを塗ったやつとゆで卵二個を食べる。パンも卵もそろそろ切れるころだからまた注文しておこうと皿をまとめたおれは引き戸を足のつま先で開けて台所のシンクに食器を置き水で適当に濡らしてから冷蔵庫に貼り付けたB5サイズのホワイトボードに「パン」「卵」と書く。あとなんだっけ。考える俺の手はなぜか止まらず「ペニス」と自動筆記してしまい、マーカーの蓋についたイレーザーで消す。大きな独り言と並行して、まったく関係のない言葉(しかもだいたい品のないやつ)を無意識に書いてしまうことも増えてきたような気がする。これも症状のひとつなのだろうか? あとで先生に聞いてみよう。
顔を洗い、髭を剃ろうか迷うもやめて、服を着替え、安物買いの運動靴を履いた。ドアを開けると朝の冷気が鼻腔をいっきに乾かすのがわかる。毛糸の手袋を両手にはめて、踊り場を含めて十五段ある階段を一段も踏み飛ばさずに降り、またのぼる。これを五回繰り返してようやく狭い駐輪場を抜けた俺は道路へ。でも遠くには行かない。発作が面倒だからだ。なのでアパート前にある古い自販機で缶コーヒーを買ってその場で日光浴をしながら飲む。雨天決行の日課。このアパートは周囲を畑や空地に囲まれたなにもない平野にぽつんと建っていて、もともとは近くに建っていた工場の社宅代わりに使われていたものらしい。最寄りのコンビニまで歩いて三十分だし、歩いている人が居ればそれは近くの畑の持ち主かもうちょっと行ったところにある建材置き場の関係者だ。俺はそう思っているが、もしかすると俺の様子を見にきた誰かって可能性もなくはない。俺はそんなことばかり考えている。暇なのだ。精神衛生の面でいっても、部屋に一日中こもるのも良くないらしい。どんな小さなことでもいいので、やることがあるのはいいことだ。
部屋に戻ると七時半で、リビング→ダイニング→浴室トイレ前→寝室→書斎の順にフローリング用ワイパーで床を拭く。リビングに敷いたカーペットに粘着ローラーをかけ電気ケトルでお湯を沸かしながら浴槽の残り湯を使って洗濯機を回した。
八時。ワイドショーを眺めながらインスタントコーヒーを飲む。洗濯物を干し、海外ドラマを2話観る。だらだらネットを見て過ごす日もあった。まあなんだっていい。ただしいまだに本は読めない。俺がこんな感じになるちょっと前くらいから、文字が頭で像を結ばないのだ。
十時半。リビングのミニテーブルの上にアロマキャンドルを置いて火を点け、それをまえにファッション誌の写真だけを眺めて過ごす。そのまま十二時を迎えた俺はスマホでラジオを再生しながらスパゲッティを茹でる。朝食分の洗い物をすませ、濡れたシンクをきれいに拭き、新しい食器を用意する。茹で上がったスパゲッティはお湯を切ったあとにオリーブオイルで和え、納豆と味噌とめんつゆとみりんを混ぜたものを上にのせてその場で食べる。食べ始めてからふと思い立ち、フォークを左手に持ち替える。食べ終わると、食器をすぐに洗って伏せておく。なにもないシンクを見ていると落ち着く。冷蔵庫のホワイトボードに「納豆」と書き加える。頭のどこかが重い気がしたので、冷やしておいた冷却シートをおでこに貼った。「でこシート」と書き加え、歯を磨く。
十二時半。雑誌の続きを読もうかとリビングで横になると、雑誌を開くこともしないまま床に頬を押し付け地上数センチほどの視界をぼんやりと眺めたまま動けなくなり、そのまま眠る。
肌寒さで起きたのは一時十五分で、ベランダから布団を取り込むとそれを敷いて再び眠る。二時前と三時ちょい過ぎにそれぞれ目を覚ますが、布団の温もりが俺を離さない。三時半。尿意で腹部が重い。布団から抜け出してトイレに向かった。洗面台で手を洗ったあたりからそれは始まっていて、リビングに戻って布団をたたもうか逡巡しているうちに発作に見舞われたのだった。こんな生活もかれこれ一ヶ月を迎えようとしている。こういうタイプの一ヶ月は意外と長い。

「それはトゥレット症候群みたいなものかなあ」

 発作の最中、俺は無我夢中で電話をかけていて、先生が出る。俺がこの部屋に住むようになるちょっと前から、主治医である先生から専用の携帯電話を渡されていた。これは俺と先生のためだけの電話らしかった。何を話しても外に漏れることはないし、医者である自分にも守秘義務があるので、安心してすべてを話してほしいと、そう言われている。だから今日も先生は俺の支離滅裂な言葉を傾聴し、落ち着きが戻るころには簡単な言葉をかけてくれる。呼吸を整えた俺は顔をティッシュで拭いながら、今朝無意識のうちに書いていた「ペニス」について聞いてみたのだ。
「トゥレット症候群?」
「チック症の一種でね。チック症は前話したかな?」
「覚えています。ビートたけしごっこしてたときでしたっけ?」
「そうそうそう。それでさっき言ったトゥレット症候群もチックを伴うものでね。汚言症と言って、攻撃的だったり卑猥だったりする言葉を無意識に発しちゃう症状が出ることもあるの」
「おげんしょう?」
「うん。汚い言葉で汚言。四文字言葉とか」
「四文字言葉というと」
「おまんことかきんたまとか、あるでしょ?」
「ひどい言葉ですね」
「説明の一環ですよ」
「なるほど」
「言葉を書いちゃった件に関しては、特に問題ないと思います。ある程度なら誰にでもあることですし。舌打ちは割と多くの人がしちゃうでしょう? だから気にしなくとも大丈夫です。ところできちんとしたリズムの生活は遅れていますか?」
「そうですね。ちゃんと早寝早起きはするようにしています。あと、運動も最低限するようにしています。朝日も浴びて。そうだ、朝日っていいですよね。朝日を浴びながら飲むコーヒーは美味しいですよ」
「あれ、東條さんコーヒー飲まれるんでした?」
「そういえば飲みますね」
「カフェインはパニックの原因になったりもするので、できるだけ控えたほうがいいかなと思います。カフェインが入った飲み物は、好き?」
「いえ、普通です」
「そうですか」
「今度から水にします」
「そうしたほうがいいと思います」
「あ、それと先生」
「なんでしょう」
「薬切れちゃって。ロラゼパム」
「え、それはいつの話ですか?」
「三日前の夜だったと思います」
「どうしてもっと早く教えてくれないんですか。まさか自分で薬の量を減らそうと思ってません?」
「そういうわけでは」
「薬ってのはこちらで処方したものをきちんと飲んでもらわないと、勝手に減らしたり増やしたりされると場合によっては治療が長引くこともあるんです。まあロラゼパムは発作時に服用するものですけど、手元にないとなると予期不安が出やすくなっちゃいますよ」
「そうなんですよ。まさに」
「すぐに送ります。これからだと明日の午前中には届くと思うんですが、今日はできるだけ深い考え事などは控えて、リラックスをこころがけるようにしてください」
「リラックス。そうします。すみませんでした」
「いえ、怒っていませんよ」
「こんな生活、いつまでも続けていいとは思ってないですけど」
吐息の音で、先生が笑ったことがわかる。「東條さん、大丈夫ですよ。いまはそういうこと、あまり考えないでください。体調をよくすることが最優先ですし、それは無理をすることで達成できるものでもありません。ゆっくり時間をかけて。それが健康への最短ルートなんです」
「はい。静養します」
 引き続き先生がなにかを喋る気配はあったが、俺はなにも気づかないふりをして通話を切った。カーペットの上に携帯を滑らせ目を閉じる。何も考えない。なかなか難しい。俺はその場で仰向けになり、ゆっくりとした呼吸を続ける。引き戸の向こうにある冷蔵庫の低音が聞こえなくなるまでそうする。俺はトーストの上のバターだ。ここはとても温かいから、溶けて染み込んでいく。

布団を寝室の押し入れに仕舞い、洗面台で顔を洗った。鏡に映る自分を見ると、朝よりも頬がこけて見える。発作が起きるたび、俺の中の何かが漏れ出ているんじゃないかと考える癖があったが、そういう文脈を見出す必要などないと以前先生から言われている。必要がない、じゃまだ足りない。はっきりと禁止してもらったほうがずっといい。
 台所をはさんでリビングの向かいに位置する四畳半の書斎に入った俺はワークチェアに腰掛けると足元の電気ストーブのひねりをつまんで四百ワットに合わせる。作業机が面する壁には無数の付箋が貼ってあり、その中のひとつであるフルーツゼリーのレシピを眺めた。負担となる思考を封じるには、手を使う作業が適しているのだ。夜になり、不安や孤独に目が向きがちになったら、タッパーいっぱいのゼリーをつくり、ひとりで全部食べてしまおう。この生活を孤独ととるか自由ととるかだと俺は思う。
午後四時半。氷を入れたビールグラスを用意し、韓国焼酎とエナジードリンクを注いでシンクに置く。気だるい夜を迎え、眠たくなったら眠るだけの生活にもハリがいる。
午後五時。半分まで水を入れた鍋に、沸騰前から生の鶏胸肉を投入し弱火で茹でる。そこでふと思い出すのは「パン」と「卵」と「納豆」と「でこシート」だ。スマホで注文を済ませ、また先生に電話しようかなと思う俺はアルコールでちょっとだけ気分が上向いているのかもしれない。さっきとはまた違う、どうでもいい話を三十分ほどできたら、今日という日に及第点を与えられる。
午後五時半。台所に湯気が立ち込めているので換気扇を回した。俺はフォークで鶏胸肉を突き刺し茹で具合を確認。焼酎の瓶とエナジードリンクの缶と氷の入ったコップ、ラップをかけた鶏胸肉の入った皿をいっしょにバスケットケースに入れる。ケースには三メートルほどの紐を結びつけてあるので、その先端を持った俺は玄関を出てすぐの手すりから屋根へと登り、ゆっくり紐を引いてケースを回収する。屋上には折りたたみ式のレジャーチェアーがひとつだけ置いてある。俺はそこで夕陽を見ながら夕飯を食べることを、ここ一週間ほど楽しんでいた。
発作の原因のひとつには、広場恐怖症というものがあるらしい。そのせいで俺は一定の距離以上外出することができない。このアパートから離れ、いつ誰と遭遇するかもわからない場所なんかを歩いていると、決まって冷たいシャワーを頭から浴びたように呼吸が浅くなる。それは大海原に浮かぶ悪夢のようであり、気を失うほどの億劫に襲われるのだ。しかしこの屋上の埃っぽいギシギシした椅子に尻を沈めて、夕間暮れの紅と紫が溶け合うところの、その真っ白な境界を眺めている分には、俺の心は平穏そのものなのだ。ここにこそ快方へのヒントが隠されている。俺はそう思っている。
三つの棟から成るコの字型の我が城には、俺以外の人間は住んでいない。愛着が沸かないわけではないが、落日とともにそそくさと夜の一部と化してしまう点が心もとない。そのそっけなさが、俺にはやけにこたえる。世界から音が消えたように感じられ、静寂に耐えかねたこの頭が、自ら音を生み出そうと暴走することだってあった。夜は基本ろくでもない。薬がないとなおさらだ。
だから俺はこうやって太陽との別れを毎日惜しんでいる。こうやって覚悟を固めている。俺は俺の生み出す幾千の音に耳を傾けることはしないし、無視に努めることもしない。ただそこにあるものとして受容することに成功した日なんかは、不思議とよく眠れるのだ。よくある話なんだろう。百とか零とか、近すぎたり遠すぎたりしても物事はうまくいかないようにできているらしい。発作時に見る遠近感の狂った天井だって、脳が必死にその中間を探っている状態なのかもしれない。不安定なオートチューニング機能。できることなら頭蓋を切開して脳みそを取り出し、布団の中で抱きしめながら眠りたい。
西陽にまどろみつつスマホから伸びたイヤホンで音楽を聴いていると、途端に音が中断され、振動がくる。
 画面を確認すると「福祉課」の文字。
 まず俺は出ない。それから酒を一口飲み下し、椅子から立ち上がって背筋を伸ばした。深呼吸をゆっくりと三回。かけ直す。
「もしもし」
「あ、東條さん?」
低くよく通る声だった。俺はその主を知っている。
「そうです」
「福祉課の三宅です。どうもお世話になっております」
「ご無沙汰しております」
「ははは。そうね。元気?」
「ええ、まあ」
「そうか。突然で申し訳ないんですけどね。今日これからそっち伺っても大丈夫?」
「というと、部屋にですか?」
 自分がゆっくりと屋上の端まで歩いていることに気づいた。
「そうそう。新年度に向けて備品やらなんやらのチェックが必要でさ。ちょっとばかり急ぎなんだよね」
「そうですか。構いませんよ」
 本当にそうだろうか。
「悪いね。すぐ済むから」
「今日っていうと、何時頃になります?」
「実を言うともう向かってるんだよね。あと十五分くらいかな? いまなにしてた?」
「夕飯を食べてました」
「ああ、そうか。ごめんね。ほんとすぐ終わるから」
「大丈夫です」
「そういや東條くん、いま何号室にいるんだっけ? Bの一○二号室?」
「いえ、僕はA棟の二○五号室です」
通話を切ると、遠く市内放送用のスピーカーから『七つの子』が流れてくるのが聞こえた。まだ外は明るい。日が長くなってきているのは個人的にも嬉しい限りだ。
バスケットケースを先に下ろして、自分も廊下へと飛び降りる。人と会うのは久しぶりだ。俺はこの一ヶ月、まともに人と会っていないし、先生以外とはろくに会話もしてこなかった。不安がないといえば嘘になる。軽い散歩さえままならないのだ。どうせなら福祉課の人ら、ついでに薬も持ってきてくれると助かるんだけどなあ、なんて思う。
 せっかくの来客なのでコーヒーでも振舞おうとリビングのケトルを台所まで運んでお湯を沸かす。部屋を見回しながら掃除を日課にしていて良かったと実感した。そういや俺の格好はどうだろう? 屋根に出ていたこともあって上はカーキ色の上着を羽織っているが、下はスウェットのまんまだ。髭も剃ったほうがいいのか? 迷う俺がクローゼットに向かう途中、ミニテーブルの上に置きっぱなしにしてあった先生用電話が振動していたので手に取る。いつのまにか着信が二件入っている。かけ直そうとした矢先、携帯は忙しなく振動を始める。
「先生? すみません電話」
「東條さん、切らないで聞いてね」
 と言う先生の口調は一時間ほど前とはうって変わって直線的な鋭さを孕んでいた。俺に負担をかけまいとする婉曲的な態度ではない。
「なんでしょうか」
 しかしそこで不思議に思うのが、俺は先生のそういう態度に頭のどこかが冷たくなるのを感じていることだ。まるで役割を交換したみたいに、俺は先生の言葉に耳を傾けている。そんな俺に先生は言う。
「落ち着いて聞いてほしいの」
「はい」
「福祉課の人間が動いてるみたいです」
「さっき電話が来ましたよ」と答えると、先生はいつものリズムなら言葉が帰ってくるであろうタイミングに沈黙を挟む。
「僕なにかしましたっけ」
と言ってすぐになにもしてないからか? と思う俺に先生は潜めた声を出した。
「気になる点として、私には一切連絡がきていないんです。それはとても瑣末なことかもしれませんが、一応、念のためと言ったほうがいいですね、伝えておこうと思います。ここまでは大丈夫ですか?」
 何がどう大丈夫かも判断がつかないが、俺は「はい」と答えていた。
「こちらの方でも事情を確認しようと思うんですけど、それまでに福祉課の人間が東條さんの部屋を訪ねることになるかもしれないので、それはそれとして覚えておいてください」
もう着いてるんじゃないか? 俺は窓から駐車場を見下ろす。車はない。「わかりました。ところで先生」
「なんでしょう?」
「それ僕に伝えて大丈夫なんですか?」
「わかりません」と先生は言った。正直にそう答えただけなのかもしれない。俺は自分の脈拍に意識を向けてみる。どうだろう。はっきりと身体の揺れを感じる。引き戸が音を立てていないので、地震ではないのだ。
「ちょっとすみません」
 俺は携帯を握ったまま仰向けに寝そべった。深呼吸をしながらイメージするのはバター、バター、バター。なかなか溶けださない。どれくらい繰り返したか、再度携帯を耳に当て「もしもし」と話しかけても、通話はつながっていなかった。じっと画面を眺めていると、台所の方からお湯の沸騰をしらせるカチッという音が聞こえた。
 不意に俺はいますぐこの部屋から飛び出して外に隠れていようかなと思い立ち、厚手の上着を取り出そうとクローゼットを漁る。と、窓の外からエンジン音とアスファルトの上をタイヤが転がるザラザラという音が聞こえた。カーテンを開け放したままだったので半分ほど閉めると布を握って揺れを止める。隙間から駐車場を見下ろせば、グレーのコンパクトカーが中央に停車し、中から二人の男が降りてくる。運転席から出てきた方は暗緑色のジャケットを着た黒縁メガネで脚が長い。まだ二十代前半かもしれない。助手席から降りてきたのは白髪頭で同じくメガネでスーツの上から黒のダウンジャケットを羽織っている。三宅係長だ。三宅係長は真っ先に俺のいる部屋を見上げてくるので目が合う。俺はカーテンを開き、会釈した。これでもう居留守は使えない。
 なにも考えるな、と言い聞かせる自分に懐疑的な気持ちが勝ってしまう。台所に戻り、来客用のコーヒーカップを二つ並べた俺は、壁、天井の順に視線を這わせ、それから背後にある玄関の向こう、階段を上がってくるふたり分の足音に神経が総動員されていることに気づいて深呼吸を始める。鳴り響くインターホンに全身が強張りかけるが呼吸は絶対にやめない。そうしている限りは、俺はまだ動けるはずなのだ。
 出しっぱなしになっていた韓国焼酎を棚の一番奥に隠してから玄関に向かった。ドアの横に取り付けられたモニターには先ほどのふたりが映っている。「どうも、こんばんは」と若いメガネが言う。「福祉課の者ですけど突然すみません。部屋の備品について確認させていただきたく本日は参りました」
 俺はドアノブに手をかけ、鍵のつまみをひねる。めくるめく逡巡に頭が変になりそうだったが、深呼吸だけに集中し続けた。
「東條さん?」
「ああ、はい」
 としゃがれた声で返事をしながら俺がドアを開けると、二人はその場に直立したまま「どうもすみません。突然お邪魔しちゃって」と、まずは若い方が笑う。「ちょっと確認させてください。書類にまとめて今日中に報告しなくちゃならないんで、すみません。いいですか?」
咳払い。
「どうぞ」
「失礼します」と若い方がドアを押さえてくれるので、俺はふたり分のスリッパを並べることができる。後に続く三宅係長は「ご無沙汰です。すぐすむから」と俺に言った。
そうですか。
 俺の前には無数の選択肢があった。まず差し入れとして渡された缶コーヒーを飲まなかった。手のひらの上で弄びながら近況報告をしていたが、三宅係長の目はなかなか俺の手元には向かなかった。一度だけ、こちらの目を盗むように動いた程度だ。なんらかの意識が働いている気がしたし、そうとることにした。胸がねじれるような感覚を察した俺がシンクに手をついたときも、気になることが起こった。三宅係長はいま思い出したかのように、ダウンジャケットの内ポケットから薬袋を取り出したのだ。
もしや愛しのロラゼパム?
渡されたそいつを口に含む俺は、そこで最後の選択をした。




Chapter2に続く


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