見出し画像

バスト目測者人口【Chapter7:2年 春】

 四月になりました。
 服を着替えてアパート前の駐車場に出ると、猫が中年男性のような声で鳴いているのを見つける。おれは部屋に戻って何か食べるものでも持ってこようと思ったが、思っただけで実際に戻らなかったのは、自分の部屋の冷蔵庫が空っぽなことを思い出したからで、ついさっき尻の左側のポケットから憶えのない千円札が出てきたということもあってそのままコンビニになにか買いに行こうとしていたところだったのだ。猫が発情するように、人間だって春はなんとなく浮ついた気分になる。頭がぼーっとする。おれの場合は後遺症なのかもしれないけど。
 食料とプレイボーイを買ったおれは、前期の時間割をもがき苦しむように丸一日かけて考え、来週から始まる履修登録期間への準備を済ませておく。あとは心の……とか思うけど、たぶんそんなものあまり重要じゃなくて、考えに縛られて身動きを取れなくなる前にとっとと動いてしまえばいい。理屈上はね。でもそのためには周囲の力添えも必要なので、近々マイメンである宮崎くんに尽力してもらおうかなと思っていると、スマホが長めに振動する。宮崎じゃないの?
 その通り。
「さかもっちゃん今日こないの?」
 開口一番、宮崎はそう言う。主語を言え主語を、と思ったおれは「なんの飲み会?」と訊き返した。宮崎が鼻で笑う音がする。「いやいやなんのって新歓だけど。六時半から」
 シンカン? 姦しいなにかのことだと一瞬思う。ていうか新歓今日だっけとゆっくり上体を起こして壁のカレンダーを見てみたが、なにも書かれていないどころかまだ二月のままになっている。
「今日だっけ」
 おれは手元のプレイボーイを適当にめくる。寝そべるアイドル。胸の谷間。プロフィール欄確認。バスト八十五。
「そうだよ七時開始。だからいますぐこいよ。必ず」
 通話が切れる。
 六時前か。まずはシャワー。


 オダジョーが男子トイレの個室でひっそり新入生女子の口にそのクソったれミニ太郎を突っ込んでいたころ、おれと宮崎と古谷先輩は桑谷さんのバスト目測を試みていた。二つ向こうのテーブルに座っている桑谷さんは飲み会軍曹・藤木梨花と談笑していて、ほんとうにずっと笑ってばかりなのでなにが楽しいのか気になるが、時折後ろに手をついて伸びをしているのかなんなのか、身体を反らして見せるのだった。おれも宮崎もテーブルを挟んでいるとはいえその真向いに座っているわけなので、これがどうにも落ち着かない。宮崎がおれのコップにビールを注ぎ、「八十以上は絶対あるでしょ。絶対Fなんだよ」と呟くので「おまえはそれしか言わないな」と言いながら飲み、実は内心どうでもいいことを隠しながら枝豆をつまんではその皮を灰皿に敷き詰めて続けていた。中央のテーブルで笑いが起こると空気が膨張したみたいに皮膚が圧される。もっとお酒飲んどこうかな。サッカー部が女の子を囃し立てている様子に目をやるおれの隣で「さかもっちゃんも早く言えよ」と宮崎が呟いた。「考えてる考えてる」おれは宮崎のコップにビールを注ぐ。泡が溢れる。
「早く早く」
「急かしちゃいやよ。ちなみに古谷先輩はどうですか?」
「いいよおれは後攻だから。先言えよ」
 桑谷さんはその細くて長い指で口の端をぽりぽりと上品にかいている。桑谷さんは顔のつくりとか、喋り方とか、講義中前かがみになって眠っている姿まで、精神衛生向上の効が感じられるほど品があった。磨きがかかった品性、とでも言おうか。桑谷さんにもたれかかり、アホみたくニヤニヤしながら天井を仰ぐ藤木梨花が傍で「もー」とか「やだー」とかがなり散らしている間は、恐らく桑谷さんは一切かすむことなく上品なままでいられるのだ。天井には特別面白い物は確認できない。
 彼女らをじっと眺めていると、藤木梨花はガタガタガタと肩を揺らし始めるので、あの動きはなんだ? とつい見入ってしまう。桑谷さんの肩に後頭部を乗せ、笑う度に揺れて、その振動で桑谷さんの胸もちょっと揺れているように思える。そんな二人を眺めている内におれも次第に楽しくなってきて、硬式野球部のゴリラバットが一年生のリス顔の女の子に「え、彼氏は?」と訊ねているクソダサい姿なんてもうどうでもよく、そんな自分にちょっとびっくりで、今のおれ、ちょっと大人だなと胸中を温かな多幸感で満たしていた。そうだ、大人というものはネガティブなものよりも、ポジティブなものに率先して目を向けることで、過酷な日々をやりくりして生きているのかもしれない。世界の約束事見たり。わはは。コップのビールを飲み干したおれは、そもそも自分だってこんな退屈なことを考えている時点でたぶんすっかり酔っちゃっているのだなあと考える。なんだか久しぶりだった。
「大胆に九十三のF、といったところではないでしょうか」
「はい宮崎九十のFで、坂本は九十三のFね。じゃあおれは九十一で……あれはEだな」と古谷先輩。もうどれでもいっしょじゃねえかと思っていると古谷先輩がグラスを手に立ち上がってなにも言わずにどこかに行ってしまう。酔ってるんだろうかと宮崎とふたり顔を見合わせてそれから黙った。「そういえばおまえ時間割もう決めたの?」宮崎が言うので「決めたよ」と答えながら枝豆を食べ新しい灰皿に皮を敷き詰めていると「おい! 答え合わせだ野郎ども」と古谷先輩が戻ってくる。引き連れているのは背が高くて引き締まった体の男だ。
「ウシちゃん。二年生。おまえら知らない?」
 知らない。おれたちは古谷先輩を間に挟んで「どうも」と小声で会釈し合う。ウシちゃんは肩幅が広くて、穏やかそうなのに喧嘩が強そうで、照れてはにかむ表情が赤ちゃんみたいだった。
「このウシちゃん……がどうかしたんですか?」
「だから解答しようって。ウシちゃん水泳部なの」
「え!」おれと宮崎は姿勢を正しながら改めてウシちゃんの顔を見る。ウシちゃんは幸せそうに笑っている。
「桑谷のバストサイズですよね、おれ知ってるんすよ」
 マジか。
「あの、一応これからも部活で会うんで、あんま人には言わないでくださいね? 特に本人には……」
「もちろんそういうのは全部わかってるから」と宮崎が急かすように言う。聞く気まんまんじゃねえか。
「じゃあ。いいすか? 言いますよ。え、約束してくださいよ?」
「わかってる」と腕を組んだ古谷先輩が肯く。
「九十三です」
「え!」
「の、Fっす」
「やったー!」おれは立ち上がって両手の指を鳴らし宮崎と古谷先輩の顔面に人差し指を突きつけたが、内心本当かよとも思っている。心の一部はずっと冷たいままだ。
「ビギナーズラックだろデブ」
「やべえ、桑谷ほんとうにFって。カップ数は当てたし、おれもすごくないですか?」
「かすってないの古谷先輩だけっすね」とおれが言うと古谷先輩はおれの指を握って曲がらない方向に曲げようとする。
 おれたちはバスト目測記念に改めて乾杯。ウシちゃんは「おっぱい」という単語を誰かが発するたびに嬉しそうに笑みをたたえる嘘のない男だった。桑谷さんのバストサイズは、水泳部の女子から聞いたらしい。プライバシーなんてあったもんじゃないね。おれたちはそれからもいい気分のまま、居酒屋内にいる女子の胸をみんなで遠巻きに眺めながらお酒を飲んだ。近くに座っていた新入生の藤原くんというチェックシャツを着た男子に「あそこにいる先輩どう思う?」と桑谷さんを指し示し、「あ、そっすね~、綺麗っすね~」と言わせたあとで「Fカップだよ」と教えてあげたら「マジっすか! え、マジっすか!」とたぶんお酒も入っているせいか声量が大きくて、おれたちも一緒になって笑っているとゴリラバット参上。
「うるせえぞ坂本!」
 しまった、とは思うけど。無視無視。
 しかし背後に回ったゴリラバットに胸を揉まれてしまったおれは考えるより先にその薄汚い手を払い、しゃがみこみ、振り向くように体をひねるとやつのひざ裏に腕を絡みつかせるようにしてすくいあげる。ゴリラバットが両手を振り回して派手に転倒。古谷先輩が「おお!」と喜ぶ声を背におれはゴリラバットにドシンと重なるが、バーベルのように持ち上げられて息を呑む。なんて力だ! 横に放り投げられたおれは受け身を取るが、その振動でテーブル上の食器やコップが跳ねる。立ち上がったゴリラバットの顔は真っ赤でいつも以上に言葉が通じなさそうな様相。押さえに入った宮崎をやつが放り投げれば、周りで飲んでいた一部の人達がどういうわけか拍手をした。
「坂本、てっめ、殺す」
 ゴリラバットが立ちあがって振りかぶって、おれの顔をしっかりちゃんと拳骨で殴る。おれ吹っ飛ぶ。鼻の奥がツーンとして視界が物凄い早さで横に流れていく中、女子の短い悲鳴と宮崎の「あ!」という声が重なって聞こえる。気がつくと天井を眺めていたおれはなんだかげんなりしてやり返そうとも思えなくてそのまま転がったままでいようと心に決めているから本当にダメ。とりあえずゴリラバット死ね。帰り道ダンプに轢かれて死ね。ボルトが老朽化したせいで落ちてきた電飾に潰されて死ね。まあ死ななくてもいいけど、ゴリラ史上最悪の二日酔いに見舞われて苦しんで……死ね。


「大丈夫?」


 さっきまで桑谷さんの隣で泥酔していたはずの藤木梨花がやってきて手を貸してくれたので、おれは渋々起き上がり、それから各テーブルを回って騒ぎを謝罪をする。ゴリラバットの姿が見当たらなくて、「どこいったんすか?」と訊くと、三年の甲斐さんとかいう人が「あの多動はほっとけ」とか言って笑う。キレて出て行ったっぽい。おれも笑う。後で謝らなければ……謝ってもらわなければ? なんてぼんやりしていると甲斐さんの隣に避難していた一年生の藤原くんが「大丈夫ですか?」と言ってくれてなんだかちょっと嬉しかったので、「うん大丈夫。今日はごめんね。あいつ以外みんないい人ばっかりだからこれからの学生生活を悲観しないでね」と頭を下げて、それでもなんだか満足いかなくて土下座をしようとすると「いいですよいいですよやめてください!」とおれの両肩に手を置く。「でも謝りたいから」と言うと、「別にいいですって。それより顔洗ってきたらどうですか?」と藤原くん。なんで? 藤木梨花もその提案に同意する。
「血、出てるよ」
 うそ?


 新歓に逢沢の姿がなかった理由として、藤木梨花いわく今年の一月からアルバイトを始めた彼女は、その日も夜の九時まで働いていて、二次会からの参加しか望めないとのことだった。おれたちは当然のようにゴリラバットとは別のグループに流れ、みんなでカラオケに行くことにする。
「おら! どんどん曲入れろ!」
「ここはまず古谷先輩からお願いしますよ!」
「おれはいいよ! 歌下手だから!」
「ちゃんとそんなことないって顔で手拍子しますから!」
「じゃあわたしから歌います! どけ!」
「出た軍曹!」
 逢沢が現れたのは、藤木梨花が『ロマンスの神様』を露悪的に熱唱しているころで、腰を低くして個室に入ってくるや挨拶もそこそこに余ったマイクを手に取って藤木梨花とともにデュエットを始める。ぴゅ~! と一同が沸くなか、久々に見る逢沢に興奮したおれも立ち上がって狭い個室内で藤原くんなんかと手を取り合い揺れていると、高橋たちが交互に叫ぶ。
「逢沢さん最高!」
「こっちを向いて!」
「抱いてくれ!」
 あれ?
 すべての声援に笑みを返しながら歌う逢沢は、始めこそなんだか雰囲気が変わったな、くらいの印象でしかなかった。まあ雰囲気なんて髪形とか化粧とか着ている服とかでコロコロ変わるもんだし、会うのも久しぶりだし、そもそもスタンダードな逢沢なんておれが完璧に把握できているわけじゃない。それでもおれの目に映る彼女……厳密には無意識に目がいったその胸囲には、拭い去りがたい違和感があったのだ。


 でかくなってない?


 視線に気づいたらしい逢沢が目を細めて不敵な笑みを浮かべつつおれにハイタッチをしてくれるが、おれの知っている彼女ならそれに際して暴れん坊な二の腕が小刻みに踊るはずなのだ……。
「坂本ちゃん、おかえり!」
 おれはさらに気づく。
 違う違う。
 胸以外が減っているんだ。
 続けて入れた『年下の男の子』を歌いながら、自分の注文の品も待たずに藤木のカルアミルクをがぶ飲みして「うーっす!」と地声で漏らす彼女を見た古谷先輩がおれの耳元で「だれこの子、いいね」と言ってくるのもどこか遠い。「そうなんですよ」前はもっとよかったんですけど……。たしかに顎周りもすっきりしたのか顔が小さくなったような気がするし、以前より目を引くようになっているのは確か、だが。
「逢沢って、痩せたよね?」
 トイレに同行した宮崎に聞いてみる。
「え、そうかな?」
「痩せたでしょ」
「ええ~。どうだろ」
 じゃあ藤木梨花。
 個室の前で待ち伏せたおれに彼女は言う。
「すぐ気づいた?」
「うーん。さっき、ふと」
「久しぶりだからわかるか。そういう坂本もだいぶ減ったけどね、晴子も晴子でふたり揃って」
「ダイエットかなにかやってんの?」
「……まあいろいろと。話すと長いしどこまで言っていいかもわかんないんだけど」
 あれ? おれはテンションを軌道修正する。「入り組んだ話ならいま説明可能な範囲で教えてよ」
「まあわたしも断片的にしか知らないし」
 で、藤木は出せる範囲でぜんぶ吐く。
 逢沢は所属しているゼミ内での人間関係に揉まれて、ちょっと疲れている感じらしい、くらいのことだったが。
 人間関係ね。
「無理してんだね」
「まあね。晴子、あれでいて一度悩みだすと融通が利かなくなるというか、クッッッソ真面目なんだよね。だから縛られちゃうんだよ、なんていうの? 邪念に」
 邪念!
「普段通り割り切ろうと意識しすぎちゃうんだと思うんだよ。だから友達とかにとりあえず話してもらって、吐き出してもらってさ、あの子がこれ以上抱え込んで悪化しないようにとは思ってるんだけど」と言って藤木は声を潜める。「これがまた愚痴るのが下手だから」
「愚痴るのが下手って」ああ、でもなんとなくわかる気もする。「逢沢さん、あいつら死ねとか言えなさそうだもんね」
「そうそう、真面目なの。晴子からすれば愚痴は陰口で、陰口は悪ってなるんだよね」
 わからなくもないよ……。でもその場合、溜めに溜めた暗い感情の処理がいずれ回ってくるわけだし、腹に溜まったガスみたいに下がダメなら他の穴ってわけにもいかないはずだから、結果彼女を内側から蝕んで調子を崩して、結果すり減らしているのかもしれない。
「わたしから聞いたこと晴子に言わないでよ」と念を押されたおれは何度も肯く。
「でもなにもないことにするのもなんだから、おれからもちょっと様子聞いてみたりはしていい?」
「うん。むしろおねがい」
 ちょっとした気だるさをまといながら部屋に戻ると、古谷先輩が逢沢のとなりに座り、ネットで話題のアニメの裏設定を熱弁するという暴挙に出ていたので、おれは玉置浩二の『田園』を熱唱し、逢沢の意識をこちらに引っ張ってみせる。今夜は彼女にも山ほど歌ってもらって遣る瀬のない悪感情を発散してもらうべきなのだから、そんなつまらないし絶対ガセであろう駄話に付き合わせるだけ酷だ。
「なんか笑いすぎて涙でてきた」
 とうつむきながら目元を指で押さえる逢沢の肩に古谷先輩が手をのせていて、こらこら、スケベ。


 逢沢の所属しているゼミには佐藤ふみ花というファッション誌に載ったとか載らなかったとかいう背が高くて綺麗な子がいるみたいなのだけど、そいつが逢沢と折が合わずにぎくしゃくしだした張本人であるらしく、ゼミの数名を味方につけ逢沢をそこはかとなくはぶるようになったり、そこはかとなく睨んだり、聞こえるように悪口を言ったりするようになり、やがて《クソビッチ》とか《発情期》とか《性病》とか品性を疑うような言葉を用いるまでにエスカレートするのに、逢沢以外、というか逢沢本人までもがなにもないかのように振舞うようになってその都合のよさに状況は悪化の一途を辿りまくっているという話までおれは知る。聞いてて消耗する。なんだかなあ。ここまで酷く振る舞える理由はなんなんだ? とおれは思うけど、その悪意の裏に広がる途方もなさも感じ始めてもいる。


 カラオケからの帰り道、逢沢は自嘲気味に笑って言う。
「ここ二ヶ月で七キロかな。ちょっとは痩せたかも」
「七キロ!」
 ってそれはちょっとか?
「まあいいんだ、もともとダイエットしなきゃって思ってたから。それにけっこう評判もいいから、ははは、だからまあいいじゃん。同じ分野の男の子にモデルっぽくなったって言われたし」
 なんてまた下手な芝居みたくおどける彼女自身がこれはダイエットによるものじゃないことを認めているんだし、この激ヤセは結局のところストレスの産物なわけで、おれは全然うっひょーとはなれない。うっひょーとなるのはプライドが許さない。むしろこれは頭を徹底的に冷たくして早急に取り組むべき問題なのかもと胸が騒ぐ一方で、全力でうっひょーとなっている奴もいて、そいつは名を織田城太郎といった。


→ Chapter8


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?