水泡にキス


「コスプレイヤーの陰毛?」
 ひなこの第一声に驚愕したぼくは、思わずその言葉を声に出して繰り返す。網の上で焼けていくカルビからは煙がもうもうと立ちのぼっていて、その向こうで彼女が「うん」と頷く。
 ひなこはつい先日、駅前を歩いているときにコスプレイヤーを見かけた。その人物はセーラー服を身につけていたが、どこからどう見ても現役の女子高生には見えなかったそうだ。彼女いわく、化粧の仕方でだいたいわかるもの、らしい。遠巻きにその女の子を眺めていると、ひなこは不意に自分が何をしようとしていたのか思い出せなくなったという。
「駅前を歩いていたんだから電車に乗ろうとしていたんじゃないの」
 シーザーサラダを食べながら言うぼくだったが、その態度に自分が軽視されている雰囲気を勝手に感じ取ったひなこは、むっと膨れて首を振る。
「ちがうよ。そのときは駅から出てきたばっかりだったの。でね? なんだっけなあ、どうしよう、わかんないなあと思っていたら、ふとそのコスプレイヤーと目が合ったの。で、その瞬間、あれ? って思ったの。そういえばそのコスプレイヤー、さっきからずっとそこに突っ立ってるだけなの。なにかしてるってわけでもなく、近くにカメラ持ってる人が居るとかでもなくよ? そんでわたしこう思ってね、ああ、なんか魔法っぽいことされたのかもしれないって」
「ああ」
「魔法は言葉の綾だけども。だってよく考えてみてよ。そこは人ごみです。大勢の人が行き交っている中で、ひとり、違和感をまとった人物が立っています。それもみんながみんな気づく違和感じゃなくて、わかる人はわかるって程度のね。それにうっかり気づいてしまった人は、なんだろうって考えちゃうじゃない? 変だなって。何が変なんだろう。ああ、やっぱり変だって」
「うん」
「そうやって急にいろんなことを考えさせられるわけじゃん? そしたらね、脳がパニックを起こすと思うの。それでね、混乱したわたしの頭は、わたしが今からしようとしていたことを一旦どっかにやっちゃったのよ」
 トングでつまんだカルビを裏返した。「うん。それでそれで?」
「そういうことって、でもたまにない? 普段から冷蔵庫開けてあれ、なにとろうとしたんだっけ? ってなったり。まさにわたし、あんな感じだったんだけどね。でも気になったのはそのコスプレイヤーよ。わたし思ったの。そいつ、わたしに混乱を招くためにそこに立っていたんじゃないか、って」
 ぼくは眉間にシワを寄せる。「このカルビ食べていい?」
「うん。で、わたし慌てて周囲を見渡してみたの。そしたら、歩いている人たちの中にちらほらわたしみたいに狐につままれたような顔をしている人がいたのよ。で、もう一回コスプレイヤーの方を見てみたの。そしたらね。いなくなってるの」
「ええ? まってまって、怖い話?」
「わたし、もしかしたらって思ったのね。これは、そういう実験だったんじゃないかって。わたし、なにかとんでもないものに巻き込まれたんじゃないかって」
「で、結局ひなこは何をしようとしていたのか思い出せた?」
「ああ、それはしばらくしてから思い出した。トイレに行こうとしてたのわたし。おしっこしたくて」
「ちょっと待った、生理現象を忘れてたってこと? だって尿意だぜ?」
 驚きを表明したかったので「ありえないよ!」と叫びながら両手を広げてみたら、テーブルの端の方に寄せていた紙ナプキンの束を吹き飛ばし、床の上に散乱させてしまった。
「だからこそだよ。やばくない? 政府とか関わってたりして。ほら、口裂け女の都市伝説ってCIAが情報の広がるスピードを調査するために流したって説あるじゃん? 一節では噂の広がる速度は時速四十キロくらいらしいけどね。まあいまはこれ関係ないんだけど、ちょっと陰謀史観入ってるかなあ?」
「え? 陰毛歯間?」
 床の上の紙ナプキンを拾っていたせいで最後のほうが上手く聞き取れなかった。つい聞き返してしまうぼくだったが、一通り話し終えて水を飲んでいる彼女にその声は届かなかったらしい。結局コスプレイヤーの陰毛がどういうことなのかもわからず終い。最後の方に関しては、陰毛で歯の隙間を掃除する話に着地したようにも聞き取れた。
「なんだか大変だったみたいね」
「うん、いやまあ、べつに大変ってほどではないけど」
「健忘症なんじゃない?」
「あ、ひどーい。違うわ」
「でも不思議な話だよなあ」そう言うぼくはすべての紙ナプキンを拾い終え、再びシートの上に戻る。ふと斜め前の四人がけの席にてひとりで食事をしている高齢男性が目に入った。焼けた肉を黙々と皿の上に盛り、山のようになったところで今度は黙々と食べ始める。ぼくの記憶が定かなら、ぼくらがこの店を訪れたときからあの席に座っていたはずだ。見た感じ太っているわけでもなく、強く押せば死んでしまうんじゃないかと思うくらいには平均的な高齢者に見える。しかし、肉を口に運ぶペースが一定で乱れがないうえ、皿が空くたびに新たな肉を調達しにバイキングコーナーへと向かう姿を見るに、相当の大食らいであることが想像できた。それともよほど空腹なのだろうか。高齢者が空腹ということは、家族から満足に食事も与えられていないのかもしれない、とぼくは思う。高齢者虐待は、我々が思っている以上に身近で深刻な問題だ。
「で、歯がなんだっけ?」
「んあ?」肉を頬張っていたひなこが目を見開いてみせる。
「だからほら、最後の方で歯の隙間を陰毛でどうのこうの言ってなかった? それがコスプレイヤーの陰毛ってこと?」
「え? 陰謀の話はしてたけど、ちょっとなに言ってるかわかんないな。歯ってなに? あ、待ってね、そういやわたし次の歯医者さんいつだっけ?」
「まさか……また忘れたとか?」
「あれ? 木曜? ちょっと待ってよ、あれ~? さっきあんな話をした矢先にこれじゃあちょっと怖くなるじゃん。あれえ?」
「健忘症だよ」
「だからやめてよ、たまたま物忘れに関する話題が連続しただけだって」
「なんだよ! そっちは政府がどうのこうの言ってたくせに、ぼくの言ってることは取り合わないのかよ! 健忘症の方がよっぽどリアルだろ!」
「いや水曜だったかなあ? うーん。もう降参。スマホで確認しちゃお」
「普段から脳を甘やかしてるからだよ。政府のせいにする前にちょっとは自分で頑張ってみろってんだ」
「はいはい。あ、なんだやっぱ木曜じゃん」
「情けないぜ、まったく」
「うるさいなわかったから。あ、これ焼けたよ」
「ありがとう!」
 ぼくは皿にのせられたハラミを箸でつまんで口に運ぶ。咀嚼をしながらもう一度斜め前の席に座っている男性に目をやった。ひなこの健忘症から連想して、ぼくはその男性が認知症を患っているのではないかと考えてしまう。認知症の症状の一つとして徘徊が挙げられるが、男性は先程から皿に肉を盛って戻ってきたかと思うと、取りつかれたように再び新たな肉を調達に向かうのである。いくら大食らいであるとは言え、あの量を一人で食べられるとはとても思えない。彼自身の判断能力に任せることで自分が悪しき傍観者に成り下がってしまうかのような、居心地の悪い不穏さがその光景にはあった。
「そうそう。それでね。なんかわたし歯垢が多いんだって」
「恥垢?」
「うん。だから今度その除去に行くんだけどね」
「え、そうなんだ……がんばって……」
 現在、我が国における認知症患者数は約四六二万人だと言われている。
「歯はやっぱり大事だよ。8020運動って知ってる? 八十歳までに歯を二十本残そうって運動ね。歯がないとまず食べられるものが限られてくるでしょ? こうやってお肉を食べるのもままならなくなったりしてね。そしたら栄養も偏ってくるよね。何一ついいことないんだよ。あとね、脅すつもりはないんだけど、歯周病で死ぬこともあるんだってよ」
「歯周病で? たまったもんじゃないな!」
「でしょ? 歯周病が悪化すると歯周病菌が血管の中に入り込んじゃってそこに血栓を作るらしいの。そしたら血管が詰まって心筋梗塞になることもあるんだって」
 男性はまた黙々と肉を口に運んでいる。あの虚ろな目。周囲のことなどもはや意識の外にあるとでも言わんばかりだ。ぼくは頭を振って意識を目の前のひなこに向ける。彼女は先程からぺちゃくちゃぺちゃくちゃしゃべり続けているが、驚くほど頭に入ってこない。あの高齢者が次にどんな行動に移るのか、またその結果、店内にいる他の客がどのような反応を示すのか、ひなこでさえも黙るのか、すべてを同時に考えてしまっている。普段ならひなこが公共の場で下品な話を始めようものなら鋭く制止し、「ここは実家か」との強烈な一言で沈黙させてみせるのだが、今のぼくは明らかに動揺している。ぼくとしたことが……なんて思う一方で、先ほどひなこの話していたコスプレイヤーのことをふと思い出してしてしまう。

 ジジイ……。

「でね、一度歯を磨いたあとに、そのまま普通に生活するでしょ? そしたら九時間後、口内の虫歯菌は約三十倍にも増殖しているんだって。だから歯を磨き忘れるって、実はかなりやばいことなんだって。口臭の原因にもなるしね。口臭といえば、それは歯周病が進行しているというサインでもあるから、本当はちゃんと言ってあげたほうがいいんだよね? でも難しくない? あなた口臭いですよとは流石に言わないとしても、歯周病とかチェックしてみたらどうですか? って言われてもさ、あ、じゃあわたし口臭かったんだって遅れて気づくだけダメージでかい気がしない?」
「なるほど」
「いやいやなるほどじゃなくてよく考えてみてよ。だって遠まわしに言われた方がつらいことって世の中あるじゃん? 例えばそうだね、まあいまはなにも思いつかないけど、臭いに関しては全般きついよね。そうそう、わたしの高校のころの現文の先生がさ、キモイよりクサイの方が人を傷つけるんだって言ってたよ。なんかいまふと思い出したけど」
「なあ、ひなこ」
「ん? この肉食べていいよ。わたしちょっと休憩~」
「聞けって。ひなこの斜め後ろの席におじいさん座ってるのわかるだろ? あ、ばか、振り返るなよ」
「え、なになになに。なんなの。その人がなに?」
「いや、べつにこれといってどうって話でもないんだけど、もしかしてと思って」
「え、芸能人?」
「違うよ。さっきひなこ、駅前で見かけたコスプレイヤーの話してただろ? ほら陰毛がどうのこうのって」
「ああ、陰謀ね。それがどうした?」
「ぼくもね、あの話聞いてたときはいまいち想像できなかったんだけど、なんかちょっと分かる気がするんだ。というのも、あのおじいさんを見てるとちょっと変でさ。ずっと肉食ってるの」
「うちらもそうじゃん」
「もっとずっと食ってるの。もうずっと。ひなこがいろんな話してる間もおれずっとその食べっぷりに圧倒されててさ。ひなこの話ぜんぜん頭の中に入ってこないの。もうほんとうに集中できない。集中できないのにどんどんガーガー喋ってるから、しまいには気が変になりそうだったんだけど」
「言ってよ」
「いや、男にはよくあることだよ。それで本題はここからなんだけど、あのおじいさん、もしかしてひなこの話していたような、実験を行っている人なのかもしれない」
 しばらく目を伏せて動かなくなったひなこが、はっとした表情をする。
「どうしよう」
「いや、どうせ害はないんだろうから、ほうっておけばいいんだろうけど」
「でもわたしに続いてタツヒコまで実験の対象になるって、やっぱりなにか理由があるんじゃない? どうしよう、なんかやばいことに巻き込まれてたら……」
「いいから落ち着けよ。気づいたことを勘付かれるのが一番危険な気がする」
 ぼくとひなこは静かに肉を焼き、静かに肉を食べた。さっきまでの饒舌さはどこへやら、ひなこはお葬式のような面持ちだ。お葬式といえば人の死だが、そもそも人の死とは、往々にして突拍子もない訪れを見せるものだ。ぼくらの生活とは、日々その可能性を孕みながら流れていくのである。こうやってひなことぼくが立て続けに奇怪な行動を見せる人物と遭遇している現状、思考の混乱、得体の知れない恐怖だって元をたどれば、ぼくらがいつ死に見舞われるかわからないという無邪気で残酷な可能性に喚起される至極原始的な感情なのかもしれない。ぼくはひなこを見つめる。ぷるぷると震えながら肉を食むその姿は、ぼくをより不安にさせる。それは逆説的に、彼女とのこの時間、この日々を奪われたくないという確固たる証左なのだ。ぼくは彼女と明日も明後日も楽しく、温かく、にこにこ笑い合って生きていきたい。同じ時間を共有したい。そう思った途端、ぼくは伏せた両の目が熱を帯びていくのを感じる。ああ、そうだ。ぼくはもっと彼女の話を真剣に聴いておけばよかったのだ。審判的態度をとらず、感情表現を意図的に促し、ふたりの時間をより心地のいい、かけがえのないものにするべきだったのだ。ごめんよ、ひなこ。ぼくは声を出さずに彼女に語りかける。彼女は肉を咀嚼する。ひなこ。君が肉を噛んで、ああ美味しいと思ってくれているのであれば、それ以上の幸せなんてない。余計な不安に晒されることなく、心地のいい場所で風に吹かれていてほしい。どうかこのぼくに、そのお供をさせてはくれないだろうか?
 ぼくはサラダ用に取っておいたフォークをズボンのポケットに忍ばせる。手は震えているが、声はなんとか抑えることができた。
「ひなこ、動揺せずに、聞いてほしいんだ」
 彼女は噛み切っている途中の肉を口にぶらさげながら肩をこわばらせる。
「んん……?」
「ひなこの言うとおりかもしれない」
「やめてよ、どういうこと? こわい、ちゃんと説明して」
「落ち着いて。動揺せずに」
 コスプレイヤーの陰毛。
 高齢者問題、認知症。
 歯。
 愛。
 ひなこ。
 ぼくは微笑み、ひなこの震える手を握る。

「ひなこ。愛してる」

 ぼくは席から立ち上がり、依然として肉を口に運び続けている虚ろな目の高齢男性に歩み寄る。
 ポケットの中のフォークを強く握り締めながら。
「タツヒコ!」
 ひなこの呼ぶ声がする。でもぼくは振り返らない。
「あの、すみませんが」
 そう声をかけた瞬間、ぼくの声を合図としたように目の前の高齢男性が地獄の底から響くような声を漏らした。
 口から溢れる嘔吐物。
 網の上に降り注いだそれは、高熱により瞬く間に気化して立ちのぼり、その悪臭でもって店内にいるすべての者の嘔吐を誘発した。






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