でかいチワワ【後編】


【前編】




 空の方から妙ににぎやかな声が降ってくるので、窓から顔をだして上半身をぐぐぐぐぐーっとひねっていると身体のどこかからパキッという音がした。
 あれは「オープニングムービー」を撮影しているのだ。
 焼却炉前でひとりエナジードリンクを飲んでいた加藤くんがさっき教えてくれた。わたしは「オープニングムービー」を見たことがない。舞台の部の一番あたまで流す映像のことらしい。それよりも、学校も終わったこのタイミングでエナジードリンクを飲んでいる加藤くんが気になって、「なんの気合い入れてるの?」といじわるな質問を冗談でぶつけてみたら「これからチャリ漕ぐから」とのことだった。加藤くんは天気のいい日限定で、自宅との十キロほどの距離を自転車通学しているので、なるほど……。そんで彼は、聞いてもいないのにこういった。
「いまは風を浴びてる」
 今日の風はたしかにいい。
 加藤くんは今日も甘い表情で、涼しげにしゃべる。「あいかわらず今日もかっこいいね」と伝えると、急に早口になっていやいやいやと心から嫌そうに手をぱたぱた振る。ちなみに戸田さんは“クレイジーボーイCLUB”という落書きをしたのは加藤くんだと思っているらしい。梨絵子ちゃんは坂本くんあたり、みたいな曖昧ないい方をしていた。坂本くん含めた複数が犯行に関わっているようなニュアンスだと思う。ちなみに駐輪場の自転車を将棋倒しにしたのは坂本くんだ。走って転んで倒したらしい。追いかけていたのが加藤くん。
 幸せな話だ。

 ここで何かが定まれば、あとは水が重力で流れていくように物事が自然と進みだすような予感がしていた。だがそもそもタイトルを決めるに足る土台がない。わたしはまだすっからかんだ。犬の話ってだけで、さて……と考えながらじっと手を見る。用の済んだメモには斜線を引いていく。「ポスター」「ワタベ」……残るは「進ちょく」、「まちやまさん」、「五時半」だ。
 窓のふちの中はちょっとした個室である。
 浅野くんは今回も部内で最も早く提出をすませていた。彼は野球部とのかけもちで、最近は新たな同好会の設立のためにも動いているとの噂もある。クラスの劇も書いたのに? というこの行動力。溢れ出るものをうまく還元している感じがありますな。桐子ちゃんもそうだが、ふたりともなにかとついてまわる照れのようなものを通り越している感じがある……というより、用のない感情への線引がうまくできている? 意識してのことか、もしくは忙しいからかまってられない? 
 安藤くんはどうだ。
 ひととおり他のクラスも覗いてみたがいまのところ安藤くんを見つけられていない。もしかすると部室にいるのかもしれない。スマホで連絡を取ればいいだけの話だけど、直接会えないのなら、それはもうしょうがないって気分でいる。
 安藤くんが一年生の最初の最初に書いた短編『生命線にカッターを』がわたしはけっこう好きだ。実際評判も悪くなかったのでほかのも読んでみたいと思っているんだけど、一作目以降は途中でやめたり、これは違うとかいって誰にも見せなかったり、なんの脈略もなく登場人物が猟銃自殺をして終わったりするものばかり書いている。一部ではその脈略のない感じを楽しんでいる人もいるけど、どちらかといえば自棄に見せることで予防線を張っている感じなので、わたし的にはうまく感想も伝えられないままの状態が続いている。
 そんななか、安藤くんは部の次期部長を新倉先輩から直々に頼まれた。
これには本人が一番狼狽していた。返事をするより先にわたしを呼び出してこういったのだ。
「なっちゃん、部長に興味ない?」
 わたしはその時点では安藤くんが次期部長に勧誘されていることを知らなかったので、現部長である新倉先輩のことをわたしが好きかどうか聞かれているものだと勘違いして「ふつう」と答えた。
「ふつうって……どっちでもいいってこと?」
 ふつうはふつうだよ、とわたしたちはしばらく噛み合わない会話を続け、齟齬に気づき、再度初めからやり直したことで安藤くんの本音らしきものに到達する。
「なにもうまくいかない気がしてる」と安藤くんはいった。
「しかもそれが自分だけな気がして、このこと考えるたびに一回疲れるんだよね」
 ずっとそうらしい。
 なんとなくで同意するのもちょっと違う気がしたので、わたしは話を本筋に戻すことにした。
「部長になる気はないけど、別にみんな手伝うと思うよ。むしろ部長ってことは、みんなに指示できる立場なわけだし、その権限があるんじゃない、王様ゲームの王様みたいな」
「王様ゲームの王様……?」と安藤くんはしばし考え込んでしまった。
 次期部長の予行演習もかねて、安藤くんは文化祭に配布する文集『民の声』の編集を担うこととなった。みんな手伝うと思うよ、と気軽に発言しちゃったが、意外とそうもいかない部分があり、安藤くんが次期部長として動き出した途端、久留米くんがいきなり反旗を翻した。書かない、書けない、書きたくないの三点張りで、文集を作成するにあたって必要な作品数が足りなくなってしまったのだ。
「おれは偉いやつの言うことは聞かない」
 と久留米くん。
「安藤のことは好きだけど、偉くなってしまった」
 ついさっきまで防弾チョッキって言葉、なんか面白いよねみたいな話で盛り上がっていた者同士の態度とはとても思えなかったが、そのいさかいは何日か続いた。
「僕もおまえのこと好きだけど」と安藤くん。「こんな肩書になったからって、おれが変わっちゃうだろうと思わないでくれ」
 ある日の部室で、彼は好きな作家がデビュー作のあとがきで書いていたとかいう言葉の引用をした。が、誰にも伝わらなかった。
「ふたりでもう一度ケ・セラ・セラを唄いたいよ!」
 ふざけてはいるんだろうけど、ちゃんと混乱も伝わった。未だ部室に顔を出している新倉先輩はそんなふたりをみて「どうしようもないやつらだな」とつぶやく。
「どうでもいいけど、文集を妥協の産物にしたら殺すぞ」
 そういって脚を組み、長い前髪をかきあげ、ため息をつくのだ。殺す……どうやって? と久留米くんがささやき、毒だよ、と安藤くんがいった。
 とはおっしゃいますが旧部長。
 わたしはいま気分がちょっと高ぶっているのです。
 誰もいない部室で『ハンター✕ハンター』を読んでいたわたしに、安藤くんはものすごくいいづらそうにこういったのだ。
「ごめんね後藤さん、さっそく権限使ってもいい?」
「え。献言?」
「うん。このまえ文集用の挿絵をお願いしたじゃん」
「ああ」
「それとはまた別で、なっちゃんの作品もひとつ寄せてくれない?」


 四階だとすべての音が遠く感じる理由を考えていた。人がいないから。あ、絶対それだ。なんなら時間の進みまでちょっと違う気がする。廊下になだれこむまぶしい西日をちらす気持ちで窓に張り付くと、向かいにある校舎の屋上が見えた。土地の高低差の影響でわたしのいる側がほんのちょっとだけ高い。オープニングムービー撮影班らしき生徒たちと現代文担当の八重子教諭が立ったまま談笑していて、もう撮影はしていない感じだった。いま走って向かえば、屋上に上がれちゃったりするのだろうか?
 薄暗い情報処理室に戻ってワーキングチェアを引いたわたしは、でもそこには座らない。大きな窓の外、民家の低い灰色の屋根が奥のほうまでずーっと並んでいるのを眺めていると決まってぼーっとしてしまい、はなれられなくなる。いくつかの家には明かりが灯っていて、その輪郭まできちんと見える、もうそんな時間になってしまったのだ。
 奥の印刷室から町山さんが現れて、「やっ、たー。印刷できた」と笑うので、「うそ」、わたしも印刷室へ向かう。「ほんとだ」
「出てるでしょ?」
「やりかたわかったの?」
「なんか設定。このプリンタの種類? かなにかを指定してなかったっぽい。あはは」
 舌を出しているみたいに大判プリンタから伸びた紙が切り離され、足元に落ちて丸まった。それを拾って広げた町山さんは「おー」といい、印刷面をわたしのほう向けるのでわたしも「おー」、いつかネットで見たような「町の怪文書」とテイストが似ていた。
「だれ描いたの?」
「坂本くん。すごくない? ねらってもこういうの描けないよ普通」
「普通はね」
「普通じゃないよね」
「普通じゃないね」
「あはは、これつくる係わたしと坂本くんだったんだけど、おもしろいよ。ずっと安藤くんの話してた」
「あー」
「絶対好きだよね坂本くん、安藤くんのこと」
「え!」とわたしは口元を押さえてしまう。「町山さんもわかる?」
 わかるよ、と微笑む町山さんだったがすぐに目を見開く。「左手、え」
 わたしは開いた手のひらの、滲んで伸びた文字の残骸に目を凝らす。「あ、これは。そうだ。町山さんにもメッセージあるんだった」
「わたし?」
「そう、渡部先生から。鍵はかけずに……ここのことね。そんで鍵は渡部先生の机の上に置いといてくれって」
「もしかしてそれ伝えに来てくれたの?」
「まあ……暇だから」となぜか嘘をついてしまう。断じて暇ではないのだ。そして町山さんにはすぐバレる。
「うそー。坂本くんも話してたけど、文集も作るんでしょ?」
 町山さんはどういうわけか坂本くんと仲がいい。坂本くんは一年生のころに生徒指導担当である児島先生の画像を無許可でコラージュした「風紀を守ろう」ポスターの作成でイエローカードをもらい、続いて球技大会の写真データを流用してなんらかの画像を作成していたことでもってパソコン部を追放された過去の持ち主だが、町山さんはいつもその話をする。それらのエピソードのどこが彼女の琴線に触れているのかは謎だ。
「なっちゃんなにかくの」
「んー、それなんだよね。いま猛烈に考えてるとこなんだけど」
「えーでもすごい。いつもどうやって思いついてるの?」
「あ、ううん、わたしはまだなにも思いついてないよ」
 町山さんは笑って首を振る。「普段はこう、なにか作ったりしてるんでしょ? 小説とか漫画とか」
「わたしは漫画描きたいなと思ってるんだけど、ちゃんとしたのはそんなに描いたことないんだ。いまでもやりかた全然わかんないし」
「あそうなんだ。でもそうだよね。むずかしいよね。でもなっちゃん、絵うまいから」
「ちがうんだ。好きなだけでうまくないんだよ。うまい人からしたら特に」
「できるひとはみんなそういうじゃん」
「いやいや、わたしのは本当。本当の……本当?」
「ははは、混乱してる! そもそもわたしから観たらほんとうにすごいって話。だからいいじゃん、謙遜しないでよ。一回受け取ってよ」
「えーん、ごめんなさい」
「ほらほら」町山さんは、手招きにもなにかを追い払うようにも見える動きで両方の手のひらをぶらぶらさせた。
「ははは」
「ほら~」
「わかった。うん……」
「え?」
「ありがとうございます!」
 で二人して同時に脱力できたこともあって、わたしはわたしの中にある輪郭すら危ういアイデアについて話してみる。犬が主人公ってところまで決めたの。人間以外もいいなと思って。ほら、『吾輩は猫である』って小説知ってる? そうそうあれって、猫なのに「吾輩」っていってるそのギャップが面白いわけじゃない? 要は。動物で、ギャップ。そこまではなんとなく決めてるんだけど。
「それで犬か。すごい」
 すごい? なんで? と思うけど町山さんの言葉に嘘がないってのもまあなんとなく。町山さんが椅子のグラつく座面といっしょにゆっくり回る。わたしはつい町山さんの好きな犬、なんだろう? とか考えちゃっている。
 あ、でもこれじゃあ安藤くんと同じになってしまう。
 安藤くんだって他の部員と同じように新作を上梓しなくてはならないはずなのに、いまのところ大きな進捗はうかがえない。まあわたしもそうなので強いことはいえないけど、彼の場合、怠惰なこと以外にも理由がある。


「なんか、よかったです」


 ローファーのつま先を床に立てた町山さんが、ワーキングチェアのうえで右へ左へゆらゆら揺れる、長いまつげが目を覆っていて、いつその瞳の濡れた表面が覗いてしまうのか気が気じゃない。五組は劇か、と彼女は小さな声でいい、さっきからあんまり声を張ってこないことが、なんだかちょっとだけ嬉しい気がした。
 気持ちが急いてしまうのです。わたしはいつのまにか立ち上がっていて、廊下側の窓、その向こうの屋上を見る。向かいの屋上にはもうだれの姿もなく、かろうじてオレンジ色の空は広がっているが、差し込む明かりにさっきまでの強さはない。そこでわたしは振り返り、もう一度民家のぽつぽつとした明かりを確かめて、ああ、呼吸まで遠い。
 守られた状態で感じる寂しさは懐かしさの範疇でもある。恐怖とはやっぱり距離がある。でも実はやわくて薄い膜一枚で隔てられた程度の違いなのかもしれない。ギリギリに立って、スリルを楽しんでいるところがある。
 いまはろくなもの思いついちゃいないんだけど、家に帰ったらさっそく取り掛からなければならない。とにかく完成させる。それまでは、気持ちが追いつかなくても手を止めないでいよう。町山さんはこのあと塾に向かうといった。いつもそうだ。町山さんを始め、みんなつねになにかを進めているのだ。で、自分だけなにもしていないような気がするのだ。わたしはなにかに夢中になって、ようやくこの世界と対等になれる気がする。知らないんだけど。知りようもない。とりあえずやる。このうるさい頭を黙らせる。
 黙れ。

 丸めたポスターを脇に抱えた町山さんがわたしを待ってくれている。廊下を進みながら暗くなるの早くなったよね、という話になって、でもまだ夜じゃないよね。そうだね。はあ、夜にならないでほしい。なんで? 面倒くさい。わたしは「あー」と声に出したつもりだったが、なにも音が出てこなかった。面倒なのは想像できる、でも町山さんがこんなふうに漏らしているところは見たことなかったので、いろいろ考えてしまった。
「町山さん、えらいよ」
 わたしがいうと視界のはしで町山さんの髪がするんと揺れる。
「ははは、急に」
「いや、いつも思ってるよ。すごいと思う」
「あはははは」
 階段を降りると人の声が増えてきた。わたしは段差に集中しているふりをして、ずっと下ばかり向いていた。廊下を進みながら、かろうじて入ってくる町山さんの足のリズムをおぼえて、同じように歩いてみようとためしてすぐ教室についてしまった。
「じゃあなっちゃん」と町山さん。「わたしはこれから塾へ行くよ。そのまえに職員室か」
「うん。あ、町山さん。さっきのすごいってのは別に冗談じゃないから」
 というと町山さんは口をすっと開きかけるが、しばらくまばたきをやめ、笑うことなくいった。
「知ってる。ありがとう」
 彼女のうしろで、脚立に乗った男子が天井の飾り付けをしている。垂れ下がったペーパーチェーンを見てはじめて、真新しい紙の匂いが充満していることに気づいた。

 そうそう、ついでにもうひとつ。
 腕に通していたはずのガムテープがなくなっている。

 体育館へと向かう途中、校舎裏で見つけた久留米くんは大きなダンボールに赤いカラースプレーを噴射していた。出しものである射的ゲーム用の台を作っている最中らしく、ダンボールには外国の俳優らしき人物の顔が印刷されたコピー用紙がいくつも貼り付けられている。これ撃つと何点はいる? と尋ねると、
「いやいやいや、これらは0点。みんな不死身だから」
 小説は今夜か明日か明後日か当日までには仕上げるつもりらしい。

 正面から血だらけの坂本くんが歩いてきた。かばんだけ先に部室へ移動させておこうと渡り廊下を歩いたわたしに、これから屋上に行って動画を撮るんで、押忍、と眉間にシワを寄せた。「十発殴られた人」のメイク……はあそうですか、それより文集用作品の進捗は? と尋ねると「もう書いたよ」とのこと。マジ? タイトルだけ教えてというと、うるさい、黙れと返ってきた。驚愕していると、それがタイトルとのことだった。
 通りかかった綾辺先輩が走り去る坂本くんを観ながら引く。
 綾辺先輩は今日も美人。

 部室のドアを開けると新倉先輩が明かりもつけずにパイプ椅子に座ってコピー用紙の束を睨んでいる。わ、驚かせないでくださいよ~、といっても顔をちらりとも上げないので、とりあえず長机の上にあるプリントやノートを寄せてかばんを置くと「んー」と声を発する先輩。
「安藤のやつ、ちゃんと書いてきたよ」
「それ安藤くんの?」
「うん」
 わたしはそこでようやく掌底の「進ちょく」にマーカーで斜線を入れる。あとで落とさなきゃ。壁時計は五時二十五分。ドアを抜けようとしたらすぐ後ろから声が届く。
「当日、一緒に回ろうよ」
 振り向くと先輩はまだコピー用紙に視線を向けたままだった。わたしはちょっとだけ言葉を探したが、急に面倒くさくなって、「あとでラインする」と答えた。ちょっと冷たい言い方だったかもしれないけど、まあしょうがない。いまのわたしは全体的にそういうバージョンではない。
急いでるし。
焦ってはいないが。

 吹奏楽部の音はいまだ鳴り止まない。肌をビリビリ叩く見えない膜を突き破りながら渡り廊下を進み、体育館のギャラリーへと通じるドアを開けた。いつも意外と時間が足りない。練習するバレー部の声と熱気がぶわわっと外に溢れてくるので、中に入ってすぐに封をする。天井の明かりが近くて眩しい。みんなを探した。舞台では軽音部っぽいひとたちがマイクスタンドなどを片付けているところで、ってことはこの次か? わたしは細いギャラリーを、体を斜めにしながら進んで舞台袖に通じる階段まで向かった。袖にはみんながぎゅうぎゅうに集まっている。そのなかで浅野くんが大声で喋っている。
「そう五曲! 五曲選びました。ははは多い? まあなんとかなるから。実際聴いて考えてくれたらと思います。じゃ」
 そういって舞台の方を見る。「それじゃ行きましょう。まだの人はとりあえず練習しながら待つとして」
 流れ出すみんなの中に熱を持ったわたしがこっそり交じると、まりえちゃんが「なっちゃーん」と小声で迎え入れてくれる。「まりえちゃーん」彼女のちょっとだけ湿った、冷たい手を握る。
 舞台に出てすぐ、長いコードをぐるぐる回収している桐子ちゃんとすれ違った。頬がちょっとだけ赤くなっている彼女は、わたしに気づくと口元をギュッとさせてうなずいた。わたしもうなずいた。案の定、急に気持ちが高ぶって思わず息を吸う。深く。深く。深く。
 まばゆい。
 ここから眺める景色にまだ慣れたくない。
「なっちゃん来ないのかと思ったよ」
 いつの間にか隣に立っていた浅野くんがいった。
「えー、まさか。ちょっと忙しかっただけ」
「あ、ポスターごめんね。ありがとう」
「ううん、いいよ全然」
「え、もう全部貼ってくれた感じ?」
「え? まあ」
「今日じゃなくてもよかったのに」
「そんな! 最初にいってよ!」
「マジでごめん」
 チョップするふりをすると、避けようとしない浅野くんの顔がしわしわになる。
「そういえば坂本くんたち屋上で動画撮るみたいよ」
「え、坂本? なんの?」
「知らないけど、血まみれのメイクしてた」
「うそーマジか。坂本たちって、ほかは?」
「いつメンじゃない?」
「えー、いいな~」
 春沢くんのよく通る声がする。
「それじゃあ一旦頭から通します! 舞台使っての練習は今日が最後です、実質」
「でもほら、こっちも負けてないから」と浅野くん。
「ほんとだね」
 そういうと「ははは」なんてすぐに顔をそらしてしまった彼の、みたことのない表情の残像がゆらめくので、慌ててまばたきをして、そう、わたしは切り取ろうとした。切り取れただろうか? でもいつかきっと、ちゃんと思い出せる気がした。そう信じて、安心して忘れる。
 並んだパイプ椅子のあいだを縫って自分のポジションに立って、真っ赤な文字で埋め尽くされた左手を眺めていると、耳なし芳一みたいだなと思い、あ、しまった、それを誰かに伝えたくてしょうがないが、いまはこのしょうがなさをぎゅっと握る。

 別れ際、町山さんは急に笑い出し
「あの落書き、わたしなら『クレイジーボーイ“ズ”CLUB』と書くね」
 といった。
 笑った。
 今日はいつにもまして。

 ふと妙な沈黙があるなと感じて顔を上げるとホワイトボード前に立つ春沢くんがこっちを見ていた。
「後藤さん?」
 真っ白だ。
 でもわたしは脳が追いつくよりさきに声を出す。
 ここから見る景色は、たぶんぜんぶわたしのものなので。







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