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バスト目測者人口【Chapter4:1年 夏~秋】

 待てども待てども逢沢から連絡が来ないうちに夏休みが始まり、おれは二週間ほど実家に戻るが、大学の夏休みというものはとにかく長くてまとまった宿題もない。本物の夏休みなのだ。
 実家から戻るや否や、帰省せずにずっと寝て過ごしていたという宮崎と電車に乗って植物園に行き、帰りにサイゼリヤでご飯を食べるとそのままやつの部屋で『ランボー』シリーズを一気観する。そろそろ寝ようと消灯したときにはすでに窓の外はうっすら青みを帯び始めていた。朝の匂いに浸った床の上で雑魚寝して、薄い影が貼りつく壁をながめていると、いつのまにか桑谷さんの話になっている。
「桑谷さんのあれ知ってる?」
「あれ?」 
「高校のころ生徒会長だったって話」
「知らなかった。おっぱい生徒会長ってこと?」けけけけけ。ふたりして乾いた笑いが止まらなくなる。
「熱いな」
「熱い」
「何カップくらいあるかな?」
「Fカップくらいあるよ」
「え、さかもっちゃんそういうのわかる人?」
「勘……」
「眠い?」
 声の出せないおれは夢の中で静かに微笑む。
「A、B、C、D、E、Fかあ。すげえ。いや付き合いたいとかじゃないけどさ。いや、もしかすると付き合いたいのかもしれない。どうしよう。どう思う?」
 いいと思うよ。


 それをしないと死ぬかのように催され続ける飲み会を通して、おれには知り合いが増える。
 友達と呼べそうな人も。
 男子寮の高橋、武井、タケヒコという三人衆に誘われて、寮の中庭で先輩主催のバーベキューに参加した。それぞれの優劣をはっきりさせるためにも、おれたちの話題は自然と性体験の有無になっていき、髭の濃さから三十代にしか見えない高橋が新興宗教の勧誘場所と噂のあった自然愛好サークルの飲み会に参加してリーダーらしき院生二十七歳のおっぱいを揉んだ話をし、交番に貼られている強盗殺人犯のモンタージュ写真にそっくりな武井が出会い系で知り合った年齢不詳の女の人とセックスした話をした。
「その子、あいさつのときだけ声がでかくなるんですよ」
 武井が言うと、古谷という先輩が飲みかけのビールを口から吹き出しながら笑った。おれがずっと顔を歪ませながら聞き役に徹していたのは、たまたま童貞だったからに他ならない。
「また今度飲もうぜ」
 高橋とレスリングをしてできた額の裂傷を古谷先輩の部屋で消毒してもらっていると、アルコールで憔悴しきったタケヒコが現れる。自身がふらふらでありながら、「物が二重に見えなければだいたい大丈夫だよ」と心配してくれている。古谷先輩の話によると、タケヒコは出生時の体重が千三〇〇グラムしかなかったらしく、いまでも身長が百五十センチしかないし単位も山ほど落としているが、寮一番の紳士らしい。いいやつならまあなんだっていいので、おれはタケヒコと連絡先を交換した。
「三階のやつドンドンうるせえなあ。原始人じゃねえんだから、踵で歩くな!」
 天井に向かってそう叫ぶ古谷先輩を眺めていると、おれはあ! と衝撃を受ける。この人、新歓のときにトイレ前で遭遇したあの役立たずじゃない?
 きっとそうだ。それに有希子先輩……。
 古谷先輩は有希子先輩と仲がいいのだろうか? 鶴は助けてくれた相手に恩返しをするが、意識が朦朧としていた美人はこちらから催促しなければたぶん恩返しをしてくれない。古谷先輩との交流が深まれば、もしかするとおれの話が有希子先輩に届くことになるのかもしれない、なんて無駄な期待を抱くおれは、今後を思って胸を躍らせていた。夏の夕暮れには魔物がいる。


 そんな夏があっという間に終わる。
 気がつけば後期が始まっていて、おれは織田城太郎という男の話を耳にする。
 そいつは同じ一年生で、詳細が曖昧なイベントサークルとサッカー部に所属しているらしく、週末はどこかのクラブでDJをしているアクティブな人間らしいのだが、その日飲み会に参加していたゴリラバットこと野球部の大暮がオダジョーも呼んでいいかと申し出たところ、飲み会軍曹・藤木梨花がそれを却下する。
 なんと。
 おれは買い出しでコンビニまで向かう道中、つきあってくれた西園真帆という女の子からオダジョーについて教えてもらう。
「きょうこれから桑谷さんくるっていうでしょう? 桑谷さんとオダジョーって付き合ってたらしいんだ」
「うそ! そうなんだ!」
「そうそう。でもオダジョーってけっこう女性方面に、なんていうの? だらしない? みたいで飲みのたんびに女の子の部屋に泊まりに行ったりとかあったみたいで。うーん。桑谷さんと付き合っといて信じられないよね。でもそういうこと続くから、いつだったか、先週とかに桑谷さんも別れたっぽいんだよね」
 先週! 
 この話、宮崎は知っているのかな? と考えてみる。知らないだろうな。桑谷さんに彼氏がいたという話のとこからすでに冷たい血が巡っていたおれは、頭が忙しない。
「つまり桑谷さんとは共演NGってことなんだね」
「あははそうそう、そうなるよねえ」と遠慮がちに西園さんは笑う。「なんかね、そのオダジョーなんだけど、これ本当かはわかんないんだよ? あくまで噂なんだけど、部かなにかの飲みで酔った女の子トイレに連れ込んだらしいよ。居酒屋だったかな?」
「マジかよ。うそ。なにしたの」
「いやちょっとそれは~あはは、わかるでしょそこはなんとなく」
「三つくらい浮かんでいるんだけどそのどれかな」
「どれかだよ」
 と西園さんは結局教えてくれなかったけど、織田城太郎か、なるほどね。おれはこれまでの人生で忌み嫌ってきた連中の顔面をモンタージュしてできた男を想像してみる。んんん。腹が立ってきたな。金属バットで十発くらい殴って脳内抹殺。ふう。
 コンビニでお酒とつまみを購入して外へ出ると西園さんが慌てるようにスマホを仕舞うところで「あ、ごめんねちょっと電話で。あ、わたし持つよ」と言うけど袋は渡さない。「電話いいの?」と言うと「うん、なんでもなかったから」と笑うのでしばらく一緒に歩いたあと「彼氏とか?」と聞くと「まあ、まあ、まあ」とほくそ笑んでいる。
「え、だれなの?」
「えー、いや坂本くん知らないと思う。同じサークルの人なんだけど」
「そうなんだ。なるほどね。西園さんサークルなんだっけ」
「ん~、いくつか入ってるんだけど、いまの人はアカペラの人」
「へ~。いいね。あ、アカペラっていったら逢沢さんとかもいるよね。逢沢晴子」
「あ、そうだそうだ。仲いいんだよね坂本くん。たまに晴子から話聞くよ」
 と言われてなんだかちょっとだけ、ふふふ嬉しい。


 部屋に戻ると噂をすればなんとかで、逢沢が「おかえり」と言ってくれる。「あ、晴子きてたんだ~! おつかれ~」と笑う西園さんと逢沢の向こうで、酒乱の気があるゴリラバットがおれに手招きをする。
「デブ! おまえちょっとこっちこい!」
 で、しばらく隣で正座したまま脈略のない戯言に耳を傾けていると、なにか面白いことやれとか言われるので困る。おれもまだ許されることと許されざることの判別がつかなかったこともあって、丸くすぼめた口の前で輪っか状にした手を前後させその動きに合わせながら舌で頬の内側を押すジェスチャーとか、つまんだ頬を動かしてピチピチ鳴らしながらあえぐという芸を披露していると悲鳴交じりの引き笑いはもらえるが明らかに一人だけ下ネタが絶対にダメっぽいバドミントン部の岡江ちゃんという女子がいて、おれはもう完全に嫌われてしまう。そういうことはやっている最中だろうとちゃんと伝わる。せめてもの救いは逢沢が両手で顔を覆いながらも笑ってくれていたことで、おれはもうこの部屋には彼女しかいないのだという気持ちで集中する。
 部屋の隅で丸くなっていたおれに「おれは好きだよ」と高橋が乾杯をしにきてくれる。「あんな野生児の言うことなんて断ってもよかったのに、そこであれやるっておまえ偉いよ。最高。ほかになんかないの?」
 ということで嬉しくなったおれは『トータル・リコール』で火星の地表に投げ出されたシュワちゃんの顔真似をするけどそれはいまいち響かなかった。
 まあいい。
 心のどこかで保険としてとっておいたささやかな期待、桑谷さんも、その日は結局現れない。


 なにもかもぜんぶ織田城太郎のせいだとおれは思う。


 早朝に目を覚ましたおれは、藤木梨花んちのトイレでひっそり排便したあと、あまったポテトチップスをお土産として抱え、見事に雑魚寝するみんなを跨いで部屋を出た。
 秋も深まりつつある早朝の空気からは夏のような埃っぽさが消えているし、その流れもちょっとだけ速い。ほとんど無意識のうちにサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』を口笛で吹きながら歩いていたおれは、昼まで二度寝したあとなにか映画でも観に行こうかなと考え、無性に踊りだしたい気分になった。踊ろうかな? 誰も見てないよな? と思って後ろを振り返ると、数メートル離れた位置を逢沢が歩いていて、息が止まる。
「うわ、逢沢さん!」
 二重まぶたがいつも以上に深くなっている逢沢は髪の毛を手ぐしで直しながら目を細め、淡い陽光のなか微笑んでいた。しんとした朝の匂いの中に、彼女の香りが混じっている。
「なぜわたしも起こさなかった」
「だってよく寝てたから……」
「帰る方向同じじゃん。ちょっと冷たいんじゃない?」と眉間にしわを寄せる彼女は酔いこそ醒めてはいるのに体が昨夜のテンションを引きずってしまっている感じでなんだか心許ない。文化祭などのしょーもない劇を観ているときみたいな、妙ないたたまれなさがある。
「ごめん」
 とは言うけどそのまま言葉が続かなかったのは、たぶん眠かったからだ。並んで歩きながら小さく肩を回すと関節が音を立てたので「いまの聞こえた?」とおれは聞く。「え?」「肩の関節。すっごい音する」「だからなに……」
 まあそうなんだけど。
 続いてカラスが鳴いたので、「あ、カラスでけえ」と思ったことすべてを口にしていると「あそうだ」と逢沢。
「坂本から借りた漫画読んだよわたし」
「『あんずちゃん』だっけ。どうだった」
「面白かった」
「本当?」
「本当だよ。それ癖だよね」
「まあそうかも」
「なんかあれだったよね。なんでもないようなことが、ほら、あるじゃん歌で」
「うん」
「あれだよね」
「あれかな」
「最後の展開にはちょっと泣きそうになったんだよね。唐突だけど。唐突だからかも」
「おーよかった。けっこう楽しんでくれてんじゃん。嬉しいよ」
「そういやあんずちゃんって、ちょっとさかもっちゃんぽくない? 読んでる間ずっと思ってた。化け猫さかもっちゃん」
「そうかな? どちらかというとあのバイト続かない人に似てない?」
「あー……いいじゃん化け猫で。あとキンタマ」
 ギョッとする。「え?」
「ちがうそうじゃなくて。キンタマの病気になるとことか。あそこ面白いよね。唐突で」
 途端に静かになる彼女と国道沿いに出る。
「きょう暑くなりそうだね」おれは反対側の歩道へと渡る信号のボタンを押しながら言う。おれの言葉はスルーして、逢沢が「あそうだ」と言う。
「とりにくる?」
 逢沢は自分の後方を指さしながらおれと向かい合う。おれは一瞬迷う。もちろん逢沢の部屋に入ったことはなかったし、入れるとも思っていなかったし、いざ誘われたいまだってこれを逃せば今後誘われる可能性もないような感じがしたが、酔いつぶれて寝汗をかいていたのでひとっ風呂でも浴びたい気もしていたし、逢沢晴子に不快にも思われたくなかったので「また今度とりにいくよ」以外の言葉が出てこない。
「そう?」と逢沢は後頭部に手を回し、もじゃもじゃ動かす。
「うん」
 信号が青になる。
「あ、じゃあまた」
「きなよ」
 おれは昨日聞いた西園さんの言葉を思い出す。
「すぐだから」
 眠気は完全に死ぬ。


 逢沢のワンルームの部屋に入って、ベッドを背もたれにするような形で座り、どういうわけかみそ汁を作ってもらったおれは、それを静かに飲みました。染みる。
「大学楽しい?」
 ミニテーブルに片肘をついた逢沢が言う。
「楽しいよ」
「前期の単位とかどうだった?」
「二つ落としたけど」
「そうなんだ、ドンマイ。あ、テレビ見る?」
「あ、どっちでも。逢沢は普段ニュースとか見てる?」
「あー……ニュースね……」
「おれも見ないんだよね」
「べつに見てないとは言ってないじゃん」
「一応見なきゃとはずっと思ってるんだけど真面目なことやろうって意識することでもう及第点に達した気になるんだよね。これってなにかの病気なのかな?」
「だから見てないとは言ってないんだけどね。でもその感じはすごいわかるかも。面白いそれ」
「ほんと? あ、味噌汁ありがとう。美味しい。心から」
「ははは、だれでもつくれるよ」
「ちなみに逢沢さんはどう?」
「味噌汁?」
「大学。楽しい?」
 逢沢はミニテーブルの上に突っ伏すようにしてテレビの方を眺めたままじっとしている。おれの角度からは、押しつぶされてTシャツの丸首からいまにも溢れ出そうに盛り上がっている彼女の胸が見えて、またギョッとする。
「まあ、ねえ」
 それから特別面白くない世間話をしているうちに彼女が寝てしまったので、おれはポテトチップスを置き土産にこっそりと部屋をあとにする。午前八時すぎ。漫画は忘れた。


 それから不思議なことが起きた。
 逢沢の部屋を訪れて以降、おれはどういうわけか三日ほどオナニーができなくなり、食欲も減退、落ち着きもなくなって腕立て伏せを始めてしまうなどといった謎の症状に見舞われることになる。
 まあ季節の変わり目だからか。



→ Chapter5

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