モンテネグロの悪夢


 仕事の関係でコトルを訪れたのは三日前の夜だった。到着して間もなく、闇夜にライトアップされる城跡を見た。ホテルで休息を取り、翌朝目覚め、自然光を浴びる第二の姿を再度望んだ。周囲を岩山と海に覆われた町の景観。心震えるあの感覚は、未だに鮮明なままだった。旧市街には古い城壁が未だに残っており、ホテルの支配人からこの町が世界遺産に登録されていることを聞いたときは納得したものだ。
 今回の仕事は余裕のある内容で、昨日の内にすべてが片付いた。今日はゆっくり羽を伸ばそうと、オルジャ広場のカフェテラスでモーニングをとることにする。澄んだ青い空が岩山の後ろまで広がり、町全体を包みこんでくれているかのような清々しい日だった。中世を思わせる造りの建築物が目の前に並んでいる。その間を耳慣れない言葉を話す人々が行きかう様を眺めていると、得も言われぬ解放感が込み上げてくる。異国の地で、このようにのんびり過ごせる機会は滅多にない。私は次にいつ機会を得るかもわからないささやかなバカンスを堪能するに徹した。
 ふと友人のローレンスを思い出して、カップを口に運ぶ手が止まった。久しく顔を合わせていない彼と、こういう場所を訪れたりするのも悪くないのかもしれないと思った。
 ローレンスも私もアメリカのブロンクスで育った。私が七歳の時に、兄に連れられて彼の家に遊びに行ったのが最初の出会いだったように思う。その時の彼は私より一つ下の六歳。彼の兄と私の兄は親友同士だった。兄たちはどちらとも、私が中学に上がる前に死んでしまった。コンビニ強盗を行い警官に撃たれたのだ。私とローレンスは互いに涙を流し、兄の死を悔やみ合った。ローレンスは頭の良く、読書が大好きな少年だった。道で拾った新聞、雨に濡れた文庫本、ポルノ雑誌の広告まで、とにかく活字を目で追うことを生きがいにしていた。更に驚くことに、彼は一度読んだ本の内容をすべて記憶していた。そんな彼の学費を稼ぐため、ローレンスの兄はコンビニ強盗を思いつき、私の兄もそれに乗ったのだ。結果からいえば得るものは何一つなかったわけだが。
 二人の想いに文句を言うつもりはないが、その後の私やローレンスの生活からすれば、物事を少しでも客観視する必要があの二人にはあった。働き手が減ったため、その後の毎日は肉体的、精神的に負担を強いることとなった。状況はなにひとつとして好転しなかったわけだ。
 兄の事件をきっかけに、私は楽ではない道を進んで選択するようになった。時おり、自分がいまのような暮らしを手に入れられたことが信じられなくなる。たまに誰かの計画した壮大な悪戯なのではないかと不安になる時もある。今の私の状況を、もし当時の自分に伝えることができたのなら、恐らく泣いて喜んだことだろう。私のような貧しい人間がこうやって異国の地でのんびりとコーヒーをすすれるに至るためには何一つ惜しんではいけないのだ。
 ローレンスは今、ニューヨークにある編集社に勤めている。三年前に会った時は、カルト教団をテーマに据えた小説の編集を担当していると言っていた。バーで会った彼のスーツに靴、腕時計は全て上等な代物だった。かつての私たちが何年も生活できるほどの値段で身を包めるまでになったことに、感慨深いものを感じたのは言うまでもない。
 気持ちの良い風が吹いて、私は我に返る。ローレンスと私の予定が合うなんて今までにあった例がない。互いに年老い、職から遠ざかる気持ちになれた時、改めて考えることにしよう。私はコーヒーを飲み干した。
 シャツの胸ポケットで携帯が振動した。今回の仕事に付き添ってくれたロブからだった。
「もしもし」
 風の音がした。その後ろで人の声。彼は今外を歩いているようだ。
「ミスターグローバー、おはようございます」
「おはよう、ロブ。昨日はゆっくり休めたかな」
「ええ、そりゃあもう。ところで今どこに?」
「広場のカフェテラスだが」
「旧市街には足を運びましたか?」
「いや、まだだが」
「おれは今、丁度旧市街の正門前にいるんですが良いですよ。救世処女協会やらがあって、中世にタイムスリップした気になれます。風情というやつですか。おれにはよくわかりませんが、展望台からの眺めも素晴らしいそうですよ、どうです? 観光と洒落込みませんか?」
 私は俯瞰したコトルの町並みを想像してみた。赤瓦の風情あふれる建築物に連なる城壁。そびえる山々とアドリア海。せっかく訪れているのだから観てみるのも悪くない。私は椅子から立ち上がり、ひとまず歩くことにした。
「君は今正門前にいるんだね? 今から向かうよ。すぐに着くだろう、迷子にならなければ」
「なあに、心配いりませんよ。それではお待ちしています」ロブの屈託のない声を確認し、私は通話を切った。いや、切る前に通信は勝手に途絶えた。
 私の身体が突然、抗いようのない力によって地面から引き離された。揺れだ。一瞬、目の前の石畳でできた道が、生き物のように隆起したのかと思った。すべての音を遮る衝撃が皮膚を振動させ、遅れて鼓膜を乱暴に叩きつけてきた。思わず目を閉じた私が、混乱する頭のまま辺りを確認しようと瞼を持ち上げると、そこには青い空が広がっている。私は地面に仰向けに倒れていた。その瞬間、視界の端に確かに観た。それはそびえる岩山の向こうから吹き出すように立ち上っている土煙だった。何が起こったのだろう。地震か、それともテロか。爆弾でも爆発したのだろうか。土煙を眺めたまま、私は身体を起こし、建物の中に避難することにした。辺りの人々がみな、岩山の向こうを眺め立ち尽くしていた。カフェテラスのテーブルや椅子はどれも転倒し、床には割れたカップの破片が散乱している。店員の若い男は額から血を流していた。テラス前の道路を男たちが走り去っていく。口々に何かを叫んでいるが、言葉を理解することができない。携帯でロブに連絡をとろうと試みるも、繋がらなかった。一体何が起こっているのだ。人々の騒ぎ様が、私をより一層不安にさせる。
 再度表に出て岩山を確認してみた。鳥の大群が空を覆っている。岩山とは逆の方へ。まるで何かから逃げているかのようだ。隣では若い女性が手を合わせ何かをつぶやいていた。祈りか? 通りの先に人だかりが確認できる。建物の前に何人もの人が集まっている。私は急いでそこまで走った。足元に散らばるガラス片が音を立てる。人だかりの中心にはテレビがあった。言葉は解らないが、映し出された女性のアナウンサーが、何かただごとならぬ状況を説明しているものだと見てとれる。映像は上空からのものに切り替わる。全身が粟立つのを感じた。
「嘘だ! ああ神よ!」
 そこに映る光景を理解するのを私の頭は拒んだ。それはこのコトル近辺のものではなく、アメリカの、更にはニューヨークの、マンハッタン島の、見慣れているはずの町並みだった。あまりにも馬鹿げている。ロブを捜さなければ。何が起こっているのか、この状況下での一人は、堪らなく不安だ。
 旧市街へ向かうことにした。彼はそこにいる。私は走った。走るという行為は実に久しぶりだった。何かが起きている。ニュースの映像はニューヨークのものだったが、岩山の向こうで起こった何かと無関係な気がしなかった。すれ違う人々の顔には決まって恐怖の色が窺えた。冗談じゃない。どうなっているのだ。
 大きなざわめきが起こった。立ち止って人々の見つめる先に目をやると、岩山の頂上に何かが見える。
 それが、居た。逆光でそのなりを黒く染めているが、それは確かに動いていた。頭の中に「人」という言葉が浮かんできて、私は自分を疑った。まさかそんな。それは、人というにはあまりにも巨大すぎる。その巨大な何かは不安定に揺れ動いている。足の様なものも、二本確認できる。
 落ちるぞ。
 私は呟いていた。
 小さなビルが崩壊するかのように、その「何か」はゆっくりと傾いて山の岩肌に倒れ込んだ。地を這うような鈍い音が、遅れてこちらに届く。傾斜に沿って、その「何か」は巨体をなすがままに、勢いよく転がりだした。人々の悲鳴が上がり、再び間をおいて音が届く。山の中腹に建っている救世処女協会に激突したそれは、瓦礫と粉塵を身にまとったまま、遂には旧市街の中へと落ちていってしまった。
 神よ。一体何が起こっているというのか。私には皆目見当もつかない。
 再び走りだす。ロブを見つけなければ。彼は旧市街の正門前にいると言っていた。彼なら、あれが何なのか、その目で確認できたかもしれない。
 旧市街から勢いよく粉塵が立ち上った。あれはなんだったのだ。岩肌を転がり落ちる巨大な物体。あれは生き物だ。確かに動いていた。たどたどしい足取りで確かに歩を進めようとしていたではないか。私はこの目で確認したかった。風に乗った砂塵が空から舞い降りてくる。ニューヨークに住んでいるローレンスは無事だろうか。ふと彼のことが頭をよぎる。もしかすると、私も今、彼に同じことを思われているのではないだろうか。私がモンテネグロのコトルを訪れることは、彼にメールで伝えていたはずだった。
 人々が私の後ろへと走り抜けていく。強烈な音と振動が近くなってきた。息が苦しい。何故私はここまで必死になってそれを確認しようとしているのだろうか。もはや理由などどうでもよくなっている自分に寒気がした。
 百メートルほど先で建物が崩壊した。粉塵が生き物のように通りで蠢き、こちらへと迫ってくる。私の腕を誰かが掴んだ。五十代ほどの見知らぬ男だった。髪は大量の塵に覆われている。言葉は解らないが、恐らく私に避難を促しているのだろう。私は彼の手を振り払い、そのまま音のする方へと走った。ロブは無事だろうか。何を観たのだろうか。
 勢いよく飛んできた瓦礫が私の脇腹にぶつかる。その部位がもがれたかのような衝撃だった。白いシャツが赤く染まっていく。堪らなく熱い。息ができなかった。
 私は一瞬にして粉塵に包まれる。
 脳を破壊せんばかりのけたたましい音が、ゆっくりと私の身体から遠のいていった。鼓膜がダメになってしまったのかもしれない。わからない。あらゆるものが肌を撫で、打つ。目もまともに開けてはいられなかった。身体が浮き上がるほどの振動が伝わり、私は地面に膝をついた。涙で滲んだ視界に、確かにそれはいた。手を伸ばせば、届きそうな気がした。
 膝を打つ振動が再び。
 大量の瓦礫が降り注ぐ中、私は確かに観たのだ。
 迫りくるその柔らかな肌を。






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