A子の憂鬱は忘却の彼方に

 お昼休みは、この学校で一番大きな講堂で本を読む。照明は点いていないが活字を追う分には充分な光が窓から射しこんでいた。
 この講堂は、席を全て埋めれば三百名ほどの人を収容できる。
 でもこれから私が受ける講義には、いつもその半分以下しか集まらない。どの講義でもきっとそんなものなのだろう。
 あと二十分で昼休みが終わる。そうすれば教授が現れ、講義が始まる。講堂の前から四列目に座る私の他には、わずか三名の学生の姿しか見当たらない。この大学の食堂は狭く、お昼休みになると決まって混雑するので、私は今まで一度も食堂で昼休みを過ごした経験がない。話によれば、昼休み、食堂で賑やかに食事をする学生の顔触れにはほとんど変化がないそうだ。一度居座ることのできた学生は、指定席を手に入れたも同然だということだ。それを可哀想に思う。その学生たちは、食堂で昼休みを過ごせることに、一種のステータスを見出している節があるそうで、それはすなわち自由に好きな場所で気兼ねなく昼食を摂ることに恐怖に似た感情すら抱いているということにはならないだろうか。自ら作りだした枠に収まって安堵している姿は、すこし居たたまれない。
 二人の女子学生が、楽しそうに談笑しながら講堂のドアを開けた。彼女らの鞄にぶら下がったジャラジャラと音を立てているアクセサリーを、可愛いと私は思った。講堂内の静まりきった雰囲気に気を使ってくれたのか、彼女たちは声のボリュームを下げ、どの席に座ろうかとウロウロしている。私がここにやってきた時から既にいた女子学生は、その二人の知り合いだったようで、手を上げ挨拶をする。二人も半ば大げさにその女子学生に挨拶をするが、彼女の近くには座らずに、随分と後ろの席に腰を下ろした。床を叩くヒールの音が小気味よく響いていた。
 彼女らの出現を皮切りに、次々と学生が講堂へと入ってくる。残り十分で講義開始だ。私の斜め前に座った二人の男子学生は、フランス語の話をしている。本を手にしながらも、無意識のうちに彼らの会話を耳で追っている自分に気付き、読書は止めにした。その二人はよく笑う。リズムの早い足音が近づき、後ろの席から布の擦れる音がしたが、振り返らなかった。私は隣の席に置いていた鞄の中に本をしまい、代わりにノートと筆箱と電子辞書を取りだした。ドアの開く音が頻繁に聞こえてくる。静かだった講堂も随分と賑わいでいる。私から二つ隣の席に黒縁眼鏡の男子学生が座る。友達なのか、恋人なのか、すぐ脇では八重歯の可愛い女子学生が笑っている。講堂内が急に明るくなり、振り向くと後方のドアから教授が歩いてきた。私のすぐ横を通り過ぎ、教壇に資料を置いてマイクのテストを行う。再びドアが開き、六人の男子学生が騒がしく現れた。笑い声が一向に絶えない。
 先ほどの可愛いアクセサリー付きの鞄を持った女子学生は携帯を弄っている。彼女らと顔見知りだったらしい女子学生の周りには、他のたくさんの女子学生が座っていて、なんだかホッとする。フランス語の話をしていた二人の男子学生の話題は来週行われるテストに変わっており、相変わらずよく笑う。私の二つ隣に座る黒縁眼鏡と八重歯は、おそらく昨夜に催したらしい飲み会の話をしていて、あくまでも自らの醜態を恥じるかのような体で互いを褒め合っている。教授は他愛もない世間話を始めた。講義開始時刻から五分ほど経っていた。
 私は鞄の中に手を入れる。そこには確かに入っている。詳しくは判らないが、少なくともこの講堂を破壊する程度の威力は有していると信じている。
 教授がみんなにメモを取るよう促した。
 来週は別の講義室を使用します。今日休んでいる人には誰か伝えてあげてください。
 私はカウントダウンを始める。広い講堂には未だにいくつもの声が響きわたっていて、教授は世間話の続きを始めた。
 なにがきっかけだったかなんて思い出せない。
 お前らが死ぬ理由なんてその程度で充分なのだ。



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