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日本 の 健康リテラシ ? 田舎では...

心理学を実用する行動経済学 を持ち出すまでもないのだけど、さまざまな 経験則をもとにした 思考 や 判断 をしている 場面 や 状況に出くわす。

昨今なんかだと マスク なんて典型的な例なのかもしれない。
 *日本人なら、先生から"学校給食当番は マスクをするように!"と言われたし
 *風邪などを引いたら 親から "マスクをしなさい" と叱られた
そんな記憶があると思う。
そう、一般的なマスクは 自分が 細菌やウイルスなどを持っている際に 
他人に移さないよう…. 唾気を 飛ばさない衛生用具なのだ。
一方で、人から風邪などを移されないためにしていたのが、
 帰宅後の うがい と 手洗い だったと思う。
 *それが、コロナ禍では "マスクは 浮遊するウイルスを防ぐモノ" と
 * いうことなり、新しい常識とされ…. マスク万能??扱い。
 *理研が 流れ解析をした結果を発表したら
 * ウイルスを ばら蒔かない…防止策としては マスクは優秀!という部分が
 * 中心の発表資料に置き換わり、自分がウイルス貰うリスク低減策として
 * の効果(ほとんど無い)の部分は 広報資料 から消えた。
 *それが、新型コロナが5類に移動することになり、
 * マスク装着は個人判断ということなり 公では 非装着で良くなった。
 *それを受けて、街頭インタビューなどをしているシーンを見ると 
 *感染したくないから 現状どおりマスクをする!と言う人が多い。
今 やっているコトは 正しい〜間違っていないと思い込む;現状バイアス/認知バイアス にビックリなのである。ちょっと前のことはすっかり忘れて…ね!
ちなみに、事実だけを列挙すると。。。。マスクの網目 と ウイルス の大きさを比べてると、電車で入り口 と 卓球のピンポン玉 以上の差なので、浮遊するウイルスは スカスカに マスクを通過する。 クシャミをすると見える唾気の大きさは マスクの網目より大きいので、外に出るのをマスクで防ぐことができる。
身体に付着したウイルスは、うがい や 手洗いで 出来るだけ外に出す。
ちょっと前の日本人は せっかく 感染予防の正しい知識を身につけていたのに、なぜ… このコロナ禍で それが あっさりと 上書きされてしまったのだろうか!?
それは、日本人の素直さ 〜おおらかさ にあるように思う。
良い意味でも ……  悪い意味でも である。

西洋で言う"リテラシー"が低い… 日本

自己責任とか 個人主義が 思考/判断のベースになっている西洋では、自分の身は自分が守るのがベースになっている。だから、科学的に正しいモノですら、色々と情報収集/入手をして それらを理解しようとし 比較検討し評価して 自分の生活や考えに反映〜適用 をすることは  思考の礎になっている。
この「情報の 入手→理解→評価→適用 のステップをとれること」を『リテラシ』と定義して、それが ITまたはITC関連の情報の場合 ITリテラシ と呼んでいる。

健康にも このリテラシという定義を 西洋の方々が持ちだしているけど、その言葉は1975年前後でできているのだが 日本では 皆無に近いくらい 聞かない。
この事を調査した論文も観ても、日本人は 健康に対して無頓着なのだ思う。
ITリテラシなんかより 遥か昔からあるのに 聞かないのは、日本では使う必要を ほとんど感じていない!ということなのだろう。確かに、医療/健康保険システムが充実している日本では、無頓着でいても 暮らせていたのだ。
しかし、COVID-19の世界規模の感染流行のように 今までに経験したことがない医療〜健康に関する環境変化をした。想定外の出来事が起こると、その対応/対処の仕方が後手ゞゞに回り、怪しい〜デマ情報に振り回されることになったのだ。 そして、リスクが少なくなって元に戻る時は 現状〜認知バイアス… つまり 逆作用・抵抗勢力となっているように観える。

今だからこそ 日本風を考えよう….よ!

…だから と いって、西洋と同じ方式の健康リテラシ を 高めるべき!とは 私は思わない(WHOさん ごめんなさい)。個人の思考〜判断手法を既に礎になっている 日本の社会システム〜思考習慣に合わない。
日本にあったレベル&内容を模索するべきだと考える。
全く異なる 健康リテラシを創ると言っているわけではなく、日本風にアレンジすべきだと言っている。漢字を入れて  ひらがな等の産み、日本語文法/文章に当てはめ易くしたように。

例えば….
受けられる医療サービスが低くなっている〜受ける迄に時間を要する 田舎 であれば、例えば緊急性を要する…."出血が多い" 事故が起こっても、その止血の方法をとれる人が多くいたために 難を逃れられるようにしておく 。。。互助+自助のようなコミュニティと勉強会の仕組みと場が必要だと 考える。
山や畑で採れた野菜/山菜を お裾分け…と言いながら 互いの家を訪問しあったりする習慣は 田舎にはある。祭りだということで 皆が神社に各自色々と持ち寄って集まって ワイワイと豊かに暮らす。都会の貨幣経済とは違う信用ベース経済が回っていた。それも、限界集落となると厳しく コロナ禍で祭り廃止だけでなく 井戸端会議というコミュニケーションをも破壊したかもしれない昨今だからこそ 一層 必要に思う。再生をする位の勢いで。

コミュニティナースまたはコミュニティナーシングというものがある。
上手く機能しているか!という疑問は さておき その機能は「いつも その地域に居て 健康的な暮らしができるように行政やコニュニティを維持〜支援する」ことだと定義されている。役割と思考方向がから推定すると、地域健康経営のあり方を看護〜療養視点で具現化であり  公から個人に向けて である。
この立場の方に、個人のココロとカラダの健康状態 および 健康リテラシ の処まで把握して サービスすることを望むのは  過ぎたことだと考える。
だから 別の役割の方に、西洋式では 個人が持つべきという健康リテラシを 補う役 を担ってもらう。例えば、訪問看護ステーションのサブ・ビジネスとして。
市町村からのSIBという形でも良いだろう。 健康面の 自助 ができ、余裕があれば 近所の 互助も担えるように….. 育む! …という 個人から公に向かう  視点である。そのビジネスパーソンは、 WHO風に言うのであれば その方に代わってヘルスプロモーションを行う役;ヘルスプロモータ(健康増進者) である。
ナース/看護師さんは、患者さん治療補助や健康回復への支援 および 予防医療に努められるため 時に人命に関わるため 医療〜看護の知識を駆使する必要から 国家資格を有す。一方で、ヘルスプロモータは 日頃の生活の質(QoL)の維持〜向上をすることが範囲になるので 業務上は看護師資格は必須とはいえないのだろう。しかし、健康に関するアドバイスを説得を 混じえてするシーンでは 資格を持っていると言う  ユーザ;個人の"信頼"は  の大きさの差はあると考える。

そのヘルスプロモータの方が、的確に アドバイス出来るように 情報を与えるシステムが 我々が創出したい仕組み だと考えている。
….なので、単に バイタルサインデータの見える化だけが 対象ではなく、
 本来 そのユーザ;個人が持つべきだった知識は  この項目ではここまでのレベルのモノであり、想定されるバイアスが これで….傾聴から始めてもらえるように ヘルスプロモータさんを支援することだと考える。