「中断」する生と加速する世界––『ゲンロン0 観光客の哲学』『勉強の哲学 来たるべきバカのために』『中動態の世界 意志と責任の考古学』に寄せて


 今更私が改めて言うまでもないことだが、現代日本では読書人口が急激に減少している。東大出版会の黒田拓也氏がTwitterで「今後の学術書の出版を考えるとき、三百部ということを基準に考えざるを得ないと思う」と呟かれていたが、殊に人文書は市場縮小の一途を辿っているように思える。浅田彰『構造と力』を片手にディスコで踊る女の子をナンパする男がいた時代とは、最早全く違うのである。しかしそんな言語文化の窮乏の中でも良書が多く出版されており、そして売れていることもまた、言い添えておかねばならない。思い返せば、呉座勇一氏の『応仁の乱』がベストセラーとなったという嬉しい事実もある。「危険のあるところ、救いの手もまた育つ」というヘルダーリンの詩句は、本邦の言語文化についてもまた当てはまることなのだ。

 次に挙げる三冊もまた、そのような「危険」の中で生い立つ「救い」であるのかもしれない。すなわち、東浩紀氏の『ゲンロン0 観光客の哲学』、千葉雅也氏の『勉強の哲学 来たるべきバカのために』、國分功一郎氏の『中動態の世界 意志と責任の考古学』の三冊である。いずれも今年の四月に刊行されたものだ。冬を乗り越えて鮮やかな芽を一斉に出す春の草木のように一斉に上梓されたこの三冊は、いずれもよく売れた。知の窮乏という情況の中でこのような事態が起こったこと自体、まずは嘉すべきことだ。

 上記の三冊に関しては既に多くの秀れた論者による書評も出ているので、その内容自体に関して私のようなものが改めて論じ直すこともないだろう。三冊がひとまとまりにして語られる試みも既に幾度かなされている。私が本稿で論じたいのは、妥協のない議論を展開しながらも一般の読者層にも開かれたこの三冊が売れたというそのことに注目してみれば、これらの書物が現代という一時代の何がしかを語り出してはいないだろうか、ということだ。もちろんのこと、論述がそもそも意図したことか否かは措いた話である。だから以下に述べることは、飽くまで一つの私的な感想である(だからこそ独立した文章として読めるようにもなっているかと思う)。

 大上段から雑漠な言い方をすれば、三冊はいずれも次の三項を主題とすることで通底しているように思われる。すなわち、まずは「強い普遍性と強い意志主体の否定」、そしてその否定の後に打ち出される「弱いつながり」、最後にそのようなつながりの先にある「曖昧な他性」。そして、これらの三項を結びつけるものとして「切断」、いや「切断」というのはあまりにも強すぎるような、もっとアドホックで、或る意味で場当たり的な「中断」という事態がある。この語は千葉氏の『勉強の哲学』において「決断」と対比されて用いられる語であるが、他の二冊についても重要な契機になっているように思われるのである。そのことを簡単に確認してみよう。

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