「性政治」の支配−「政治的に正しい自由恋愛」という名の権力の現代的形態について

 先日書いた記事(以下参照)を、多くの方に読んで頂いた。憲法25条の生存権の規定にある「健康で文化的な最低限度の生活」という文言を捩ったタイトルを付したこの文章では、食欲、睡眠欲と共に人間の三大欲求に数え上げられる性欲をも或る種の生存権として考えてみるとすれば、現代日本のセックスを巡る「格差」はどう考えられるかについて考察した。この議論をめぐってTwitterでも様々な反応があったので、本稿では改めて論じ直してみたいのである。

Cf.「「セックス・ポリティックス」に「健康で文化的な最低限度の「性的」生活」を奪われているのは誰か」

 ちなみに「セックス・ポリティックス」というのは、人間の性をめぐる有形無形の事情が政治問題として争われる事態のことを指している。先に引用した文章では特に具体的な形として、例えば#Metooに代表される如く、男性と女性の間に権力勾配があるということを前提として、女性側から男性側に対する告発として遂行されるフェミニズム的な政治運動のことをそのように呼称した。

 私の論点は、この「告発」が現代においてはそのままに他者を支配することが出来る「権力」になっている、ということである。私は以下の文章でこれを「告発権力」と呼び、ポリティカル・コレクトネスがそれに他ならないと指摘してきた。

Cf. 「「告発権力」について−ポリティカル・コレクトネスという名の新たなる専制」

 冒頭に掲げた方の文章ではこの「告発権力」論を踏まえた上で、この現代において進行する具体的な「セックス・ポリティックス」が、誰の「健康で文化的な最低限度の「性的」生活」を奪っているのか、について考察したのである。私としては以下に記すように、現代の「性政治」がまさに一種の「生政治」に他ならないことを示したいのである。勿論、これは見取り図であって、厳密なものでは未だない。

 「生政治」とはミシェル・フーコーが提案した支配の概念であるが、これを解説するためには少々前置きが必要になる。尤も、ここではフーコーについて論じたい訳ではないので、必要な限りの簡単で一般的な説明で済ませることにする。

 フーコーの議論によれば、近代国家は法制度を単に外的に個人に課すのではなく、個人の身体或いは内面にまで介入するものであった。例えば、工場、学校、軍隊、監獄といった近代的制度は、個人が身体的に規律訓練され、権力の視線を内面化することになる(これについては「パノプティコン」の話がよく知られている)。フーコーは、これを「規律権力」と呼ぶ。

 要するに、普通権力というものは人を殺すように思われるが、近代以降はそうではない、ということをフーコーは言いたいのである。確かに古い形の君主の権力は、人に死を与えるものであった。しかし、近代以降の権力はそれと異なる、と彼は言いたいのである。この近代以降の権力は、先程述べたような規律訓練など様々な法制度を通して「自由で平等な個人」を作り出すことによって人々を支配する。個人の生に積極的に関与して管理しようとするこうした権力のあり方をフーコーは「生権力」と呼ぶのである。

 この生権力が規律権力とは別の側面で現れているのが、「生政治」なのである。一言で言えば、人々を生かすことで支配する権力、これが生政治である。20世紀中葉以降の福祉国家に先鋭的に見られるように、この生政治は、人口統計、出生率や死亡率の統制、公衆衛生、住民への福利厚生、健康への配慮などを通して、人々をまさに生かすことによって支配する。その裏面には、適当な段階でその生を「廃棄する」ことが勿論含まれているのである。

 ちなみに、フーコー晩年の著作『性の歴史』全三巻(それ以降予定されていた三巻は彼の死により公刊されなかった。ちなみに近年、4巻である『肉の告白』が出版され話題となった)はまさに、西洋においては性をめぐってどのような言説がどのように権力によって形成されてきたかを描いた大作である。

 さて、これだけ道具立てを揃えたところで私が先に提起した「性政治」なるものを考えるならば、近代社会においてこれが「生政治」と結び付いていることは自明である。近代国家の人口調節と近代以降の性道徳や婚姻制度・家族制度は、言うまでもなく密接に結び付いている。そこでポイントになったのは、生殖であり、夫婦を単位とする家族である。ヴィクトリア朝期のイギリスに典型であるが、近代では「生殖に結びつかないセックス」が完全に抑圧されてきたのである。言い換えれば近代社会では、性的快楽について沈黙されてきたし、語ること自体が禁止されてきたのであった。

 フーコーが活躍した1960から1970年代以降、勿論彼自身も含めて、フェミニズムやポストモダニズムを中心とした諸々の運動ないし思潮がそれぞれの仕方で、先に述べたような近代社会の権力のあり方を批判してきた。私見ではそこには、ニーチェに範を取るようにいかなる基礎付け主義も拒否して徹底的な権力の破壊を志向したフーコーのようなラディカルな論者と、フェミニスト達のように実のところで「人権」のような基礎付け主義ないしは解放のモデルを念頭に置いた上で批判を展開する論者がいるように思われる。
#Metoo運動 などを見れば分かるように、現代の「性政治」は「女性の人権」など「ポリティカル・コレクトネス」を基礎として展開されているようであるから、後者の潮流にあると見てよいであろう。

 しかし私から見れば、こうした運動は「ポリティカル・コレクトネス」というリベラルな近代市民社会の道徳の拡張版に他ならないものに基礎を置くことによって、まさにフーコーが批判したような近代的な権力のあり方に先祖返りしているように思われる。それも、非常に入り組んだ、厄介な仕方で−

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