「人間が薄くなる」中で、「文化への意志」を恢復すること

 つい先日、「嘗ては抽象化の象徴として称揚されていた裸婦像が今では「悪い」「性的欲望の対象」としてしか見られなくなっており、「性欲そのままのもの」と「昇華されたものとしての性欲」という区分すら最早考えられなくなった」という一連の議論をTwitterのタイムライン上にて目にした。そこに更に、「今ではあらゆることが両義性や多義性ではなく「文字通り」に受け取られるようになった」という議論が続く。私は曲がりなりにも(そうした微妙な事柄を正面から扱うものに他ならない)人文知に携わる人間として、時代感覚の変化に対するこの鋭い分析には大いに頷かされたものである。


 (例えば今のSNSのように)全ての見解が各人の単なる「お気持ち」として並置されるようになるならば、教養を持った一部の人々による重層的な趣味判断に対して、大多数の人々が「直接的」に受け取る単純明快な感想の方が多くの人々の共感を集めて勝利を収めることになる。ここでは両義性や多義性を鋭く見極めるための教養(これが「教養」という語の正当な意味であろう)は、大衆には理解出来ない一部の好事家達の単なる「好み」なり「趣味」なりに過ぎないものか、或いは、単に或る個人が別の人々に自らの優越を顕示したいが為に持ち出す張子の虎かとして捉えられる他なくなってしまう。大衆の凱歌が、隈無く響き渡る世界である。とりわけ、性を扱ったもののように、欲望と嫌悪を巻き起こすものは尚更である。そこに「教養」によって読み取られるべき「意味の重層性」が最早看取されなくなるとすれば、それは素朴に欲望を喚起するものか、将又、「生理的嫌悪感」を催すものでしかなくなり、両者の対立は埋められることもないだろう。何となれば、そうした対立軸を(取り払うことはないにせよ)中和して、深層から揺るがせ、ずらし、相対化するものこそ、件の「教養」に他ならないからである。


 要するに、「人間が薄くなってしまった」のである。これだけ文明は高度化し複雑化しているのにも拘らず、何故こんなことになってしまったのか。走り書き程度ではあるが、以下に考えられることを記しておきたい。


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