欲望の流す涙は何色か?−千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』を読んで

 ツイッターを開けば、眼にしないことのない話題というものがある。
 それは、性的欲望をめぐる話題である。
 表現規制をめぐる論争も、コンビニエロ本問題のようなポルノのゾーニングをめぐる論争も、はたまたポルノかどうかの定義論争も、ペドフィリアやショタをめぐる論争も、萌え絵の公式キャラクターやキズナアイをめぐる論争も、デートの時に男が女に奢るべきか否かという奢り奢られ論争も、結婚と自由恋愛をめぐる論争も、痴漢冤罪論争も、セクハラをめぐる論争も、性的まなざしをめぐる論争も、男性の性的欲望の暴力性をめぐる論争も、これら枚挙に遑がない論争は全て、言うまでもなく性的欲望を渦の目にして巻き起こっている。ネットでは毎日何時でも欠かすことなく、誰かが何処かでこの類の何かの問題に目くじらを立て、それに更に怒りを抱いた人々が叩き返しているのである。その応酬は果てることがなく、ネットの何処かが常に情念の鬼火で燃え上がっているのだ。

 しかも先に列挙した論争を眺めても分かるように、巻き起こる論争の殆どが「政治問題」として扱われている。考えてみれば不可思議な時代ではないか。性的欲望の問題が、「政治的に」沢山の人々の関心の的になり、沢山の人々を憤激させ、動揺させ、不安に陥れる時代が未だ嘗てあっただろうか。他者の禍々しい欲望に恐怖と嫌悪を抱く神経過敏な摘発者は勿論、自らの欲望の慎ましい備給先を守るために自由を訴える善良な変態までも、みな性的欲望というものを「政治的に」考えるようになっている。性的欲望という、公共的な議論のラインには最も乗り難いプライベートなもの、しかも社会性を暴力的に逸脱しかねないほどにまでプライベートなものが、SNS以後の現代ではむしろ喫緊のパブリックな問題とすらされるのである。プライベートな欲望がそのままパブリックな場に露出することで政治問題化され、パブリックな場での政治的な問題においてプライベートであるはずの「不適切な」欲望が深読みされる。そうして時に、或る性的に見える表現を見て「不愉快」に感じたというプライベートであるはずの感情が、そのままにパブリックな問題として拡散されることが起こる。今や、欲望の「開示請求」がなされるのである。
 つまり、合衆国大統領の発言とエロ漫画絵師の作品が同列のタイムラインに流れるSNS以後、従来のパブリックとプライベートの区分は通用せず、両者は限りなく難渋な形で入り乱れているのだ。そして何より、この入り乱れそのものが丸ごと露出せられているのがSNS以後の状況最大の特徴である。そんな余りにも透明なネットの海を丸裸のまま流れるものこそ性的欲望の肯定と否定をめぐる厖大な情念であるが、とりわけ目立つのが特定のタイプの(特に男性の)性的欲望の発露に対する忿怒である。開示請求された欲望が、或る人々の怒りを掻き立てるのだ。見なければ何とも思わないものが、透明化する環境の中では見えてしまう。見えてしまうどころか、誰かによってそれが更に「開示請求」にかけられて、絶えず、そしてより多く目にさせられる。そこで芽生える怒りが、単なる個人的な不快感なのか、それとも公共的な不正への怒りなのかが分かたれることもなく、パブリックな政治問題の追及として表明されてしまう。言わば、欲望がすぐさま「出頭要求」されることになる。

 このような私的か公的か判然とせぬ忿怒を掻き立て、正当化するものが、フェミニズム、そしてポリティカルコレクトネスという名の、ユニヴァーサルで普遍的な「正義」であることは論を俟たない。例え殆ど個人的な不快感に由来する思い込みでしかないような主張であっても、「正義」に基づけばそれがそのまま公共的な主張として正当化されてしまう事態。繰り返すようであるが、このような告発と断罪は、プライベートとパブリックの区分が攪拌されたまま曝露されるSNS以後において急激に加速している。平準化と透明化の世紀では、刺激に対する反射のように、薄っぺらい忿怒が増幅されていくのだ。況して、その忿怒が、政治的に正当化されているとすれば……

 この辺りで働いている政治力学については、私は「告発権力」という概念を持ち出すことで既に論じている。そこで私が問題としたのは次のような事態である。すなわち、被抑圧者とされる側のもつ小文字の権力が、権力行使が言葉だけに限られているというその非暴力性をむしろ自らの権力性の免罪符とすることによって、いつしか、言葉のみによる非暴力的な告発によって社会全体を支配する大文字の権力と化した。(Cf. 「「告発権力」について−ポリティカル・コレクトネスという名の新たなる専制」(https://note.mu/ganrim_/n/n8929f06c8b15)) 山火事のように広がった#Metoo運動に象徴されるが如く、こうした事態はSNSの登場以後にこそ際立ったものになっているのではないだろうか。


『欲望会議』という書物


 社会的コードを気にすることなく誰もが明け透けに語れる媒体があるからこそ、それを透かし見る者達の誤解や憎悪も増幅され、「公共」の錦の御旗を振りかざす者達も大勢現れる。誰もが容易く言葉を紡いで送ることができるが故に、皮肉なことに益々直截に語ることが困難になっていく社会。そんな困難な状況の中、隘路を縫うように進み、性的欲望について語り尽くした興味深き書物が昨年末に出た。それが、千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里の三名による『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』(KADOKAWA, 2018年)である。

 本書は、哲学者でありゲイとしての立場から発言する千葉雅也、AV監督であり男女の機微についての著述家でもある二村ヒトシ、現代美術家でありフェミニストとしての立場から発言する柴田英里という、それぞれの経歴のなかで性的欲望について考え続けてきた人物達による鼎談である。ここでなされる議論の特徴は、まさに先程列挙して述べたような、ツイッターを中心としたネットでの性的欲望をめぐる議論の動向を相当にカバーしている点にある。実際、対話の中でもツイートが多く引用されており、ネット論壇を受けての議論であることが見て取れる。ネット論壇に沿って議論が展開されるということ自体、それぞれの領域で既に名のある著名人が出す本としては、稀有なことであると言えるだろう。しかも、各論者は(常にと言っていいほど炎上する柴田英里を中心に)ツイッター論壇の渦中にある者として発言しており、その立場からツイッター上で果てしなく繰り返される性的欲望をめぐる議論をその都度分析を入れつつ要約している。雲を摑むようなネットでの議論の一端を紙面で知ることが出来るのは大きいだろう。同時に、そうしたネットでの論争においては恣意的に援用されたり批判されたりすることの多い、フェミニズム理論やクィア理論の歴史的展開について基本的な知識をも得ることができる。この点でも、本書は益の多い書物である。


『欲望会議』の追求するもの−現代において欲望し続けるものであるための「条件」


 さて、本書はどのようなスタンスなのだろうか。千葉雅也による序文を見てみよう。千葉はまず、本書で扱われる「欲望」とは(フロイトに言及しつつ)「性的欲望」のことであると述べている。彼によれば本書は、ジェンダー、セクシュアリティの問題を通した「現代の我々はどのような主体であるのか」という「一つの「主体論」の試み」(p.7)である、という。そこで採用されるのが、「ひとの心は今も昔も変わらない」という本質主義的な考え方ではなく、現代人が20世紀までの人間から何か深い変容を遂げつつあることを見据えつつ、(ミシェル・フーコーの歴史哲学を念頭において)「ひとの心は歴史的条件に規定されており、時と共に「人間の本質」は変化する」(ibid.)という考え方を取る。要するに、論者達は現代の歴史的条件のもとで我々の性的欲望が取り得る新たなる主体性を考察しようとしているのだ。

 その上で、「ポリティカル・コレクトネス」(略してポリコレ)という、マジョリティからマイノリティに(特にヘテロ男性から女性やLGBTに)向けられる偏見や抑圧に抵抗し、マイノリティをエンパワーする理念に対して両義的な態度を取る。すなわち、基本的にこうした理念を認めた上でその理念を徹底的に考え、その中でポリコレの要求がむしろ反ポリコレ的であるような「保守的な」イデオロギーが無自覚に潜んでいないかを意識する、という態度である。副題にある「「超」ポリコレ宣言」の「超」は、まさにそのような態度、すなわちアイロニーやユーモアの中から立ち上がってくる二重性を表していると千葉は言う。ではそうした批評的な態度の中で、彼等は何に対して何を擁護しようとしているのか。

 それは「積極的に」生きること、すなわち積極性としての、肯定することとしての欲望である。そしてここが重要なところであるが、これは否定なく肯定することではない。彼ら三人の論者は、この「肯定的生、肯定的性」のなかで逆説的にも含意される「何らかの「否定性」としぶとく付き合い続けること」、「何らかの意味で、否定性を肯定すること」(p.10)を考え抜こうとしているのである。この態度こそ、「否定性の排除、否定なき肯定」を伴って進行するグローバル資本主義の中での、「葛藤が展開する場としての「無意識」」(p.11)の擁護である、と千葉は纏めている。
 要するに、欲望することが掻き消されんとする現代において欲望すること、否定性を排除せずに抱えたまま生きることを肯定するということ、言い換えれば、クリアーに見通せない「心の闇」のようなものを抱えつつ生きることが、ここでは主題になっている。これが本書の探求する「主体論」の内実だろう。但しここでは、そのように欲望する者としての「旧人類」に対するノスタルジーが考えられているではなく、グローバル資本主義による世界平準化の荒波の中で尚も欲望し続けることの「条件」が問われている。

 この欲望の条件という問題が現代における主体性の問題であるとすれば、本書の通奏低音になるのは、現代という歴史的条件のもとで欲望は−すなわち否定性を孕んだ肯定性としての無意識は−いかなる形で主体性を立ち上げられるのか、という問いであるように思われる。そして、このような条件への問いが「ポリコレ」という政治的理念に懸けられていることは言うまでもない。つまり、欲望の条件への問いはそのまま主体化の条件への問いである訳だが、この問いかけは単に個人的な実存のレヴェルにとどまるのではなく政治性へと常に開かれているのである。
 本書で取り扱われる欲望が性的欲望に限定されていることの隠れた意義は、この政治性への開かれに関わると私は考える。何となれば、性的欲望こそは数ある欲望の中でも他者との関わりが最も必然化された欲望であるからであり、常に権力関係を何処かしら伴うものだからだ。性的欲望は、根源的には自閉不可能な欲望なのである。

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