寛容と鈍感は紙一重

優しさとはなんだろう、と最近よく考える。

怒らないこと。共感できること。相手がしてほしいことをしてあげること。

色々あると思うけれど、一つは「許すこと」なのではないか、という答えに行き着いた。

「弱いものほど相手を許すことができない。許すことは強さの証だ」

というガンジーの言葉を知った、高校生のときだったと思う。

それ以来、「許すこと」は正義だと信じ続けてきた。

イライラしても、許す。「悪いのはあいつのせいじゃない。あいつだってやりたくてやっているんじゃない」。

理不尽なことがあっても、許す。「あの人だって辛い。辛いの自分だけじゃない」。

「寛容さ」こそ自分の目指すべき美徳であると言い聞かせてきた。”許せない”と思う瞬間がくる度にガンジーの言葉が頭をよぎり、許せない自分が弱いからだ、寛容さが足りないからだ、と自己嫌悪に陥ってきた。

こんな生活を数年間続けると、慣れきってしまう。自分の内側では葛藤と自己嫌悪が渦巻くけれど、なるべく外には見せない。見せたくない。だって許すことは強さだから。そうしているうちに、なんとも思わなくなってきた。許している自分は強いんだ。そう思い込んでいた。

言葉一つでこんな人間ができてしまったのだから、ガンジーもさぞかし不本意だろう。

***

いつからかわからないが、少し前から、いろんなところで「自分は感覚が鈍いのでは」と思うようになった。しばらくたつ。

そして、それを生み出しているのが自分が金科玉条にしてきた「寛容至上主義」であることはわかった。許し癖が付いていると、感情の起伏があっても、「なぜ?」「どうして?」をそれ以上深めようとしなくなってしまう。寛容さが思考停止と隣り合わせであることを、自分は初めて知った。

誰よりも人の気持ちに敏感であり、色々な立場の人に寄り添うことが求められる仕事をしているのに、自分はこんなんでいいのだろうか。いいはずがない。向いていないのではないか。でも頑張りたいしやりたいことはたくさんある。

最近はそんなことばかり考えている。葛藤するだけ、まだいいか。

人が人と接する中で最も致命的なことは、「人の悲しみがわからなくなること」だと思う。鈍感になった自分も、まだそうはなっていないと信じたい。

求めすぎた寛容さは、鈍感さを生み出す。その二つは紙一重。

キレるときはキレ、喜ぶときは泣いて喜ぶ。なんでこんな当たり前のことを真面目に考えているんだろう。もっと、自分の感情に正直でいよう。


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ガオチャオ

何度も読み返したい素敵な文章の数々 vol.5

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