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「芸術の授業ってなんであると思う?」

中3、中学校最後の美術の授業で、美術の先生は私たちに問いかけた。今日で最後っていう授業でこれまで続けてきたことの存在意義を問い直すこと自体が面白かったけれど、その先生が言っていた言葉が今でも忘れられない。

「みんなは、『夜と霧』という本を知っているかな。ヴィクトール・E・フランクルというユダヤ人精神科医が、ナチスの強制収容所での体験を綴った本なんだけど、この人は、強制収容所で生き残った人にはある共通点があると言っている。

 それは過酷な環境の中でも、夕焼けをみてきれいだと言ったり、つらい中でも故郷の歌を口ずさんでいたということ。つまりそれは、極限の状態になっても感性を忘れなかったということなんだ。芸術を学ぶ意味っていうのは、そういうことだと思う。

みんなには美しいものを美しいと思う心を忘れずにいてほしいし、これからもそういう心を大切にしていってほしい。卒業おめでとう」

私は高校に入学してすぐに『夜と霧』を図書館で借り、大学に入ってからは買って本棚におきながら、何度も読んだ。

先生が言っていた部分の記述を探して。

夕日が差し込む時間になるとみんな黙ってそれを見るために入り口の方へ出て行くというシーンや、似たようなシーンはあったけど、全く同じ箇所というのは見つからなかった。先生なりに感じたことを、青い自分達に伝わるよう解釈して言ってくれていたのだと思う。

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社会人になり、「やらないといけないこと」が圧倒的に増えた。給料をもらっているのだから当たり前だ。自分の力で生きていくってすごく大変だなっていつも思う。好きなことだけやっていればよかった大学生のころとは違う。「やりたいこと」を仕事にできただけ幸せだとはいえ、精神的にも体力的にも疲れることはあるし、休みの日になると昼まで寝てしまう。そして、あれやこれやとやり残したことを終わらせたり、次の週に備えて新書や資料を読み込んだりして、精神的に休まらぬまま月曜日を迎えることもある。

もちろん、デッドヒート的に追い込まれていればやらざるをえないし、スイッチが入っていれば休日でもそれなりに楽しく仕事モードになれる。けれど、やっぱりどこかで自分に「やらなきゃ」的な圧がかかっている感覚がある。たまにはゆっくりしようと思っても、「結果も出せていないのに何もせず休んでいいんだっけ」という自分が脳裏に現れる。

知識にはなっているはず。成長には繋がっていると思う。でも、「やらないといけないこと」ばかり続けてたらどんどん人間的につまらなくなっていかないか!?学生時代の自分って、もっとストレスフリーに好き勝手にいろんなことを考えていなかったっけ?

そういうとき、先生の言葉を思い出す。

今の自分は、極限状態になったとき、果たして心の支えになる言葉や歌がいくつあるだろうか。美しい景色を見て、美しいと思えるだろうか。

そういう心だけは、忘れたくない。そう考えはじめてから、休みの日には純粋に面白いと思ったこと、なんとなく面白そうと思ったことに意図的に時間を費やすようにしている。

小説や詩集を読んでしんみりしたり、Amazonプライムのドキュメンタル を見て腹を抱えて笑ったり。先週の休みには、鹿児島の自然や環境をアートの視点から盛り上げようとしている人たちのイベントにも参加した。自分一人じゃ絶対に考えつかなかった発想の連続で、ゾクゾクするほど面白かった。

忙殺されると、自分に嘘をつき始める。心の機微が失われていく。そうならないためにはいつまでたっても、やりたいことに正直でいたいし、今の仕事を失ったとしても人生を心の底から楽しめるくらい、いろんなことに敏感でいたい。それはある意味現実逃避かもしれないけれど。

ふと本棚を見たら、見城徹と藤田晋の『憂鬱でなければ、仕事じゃない』が目に入った。うーん。それもまた、一理あるな。

どっちなんだ、自分。ブレブレ。

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