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教育とは②

先週の続きです。

教育とは。

先週は「学校教育」ではない「社会教育」
わたし自身の現職について、でした。

今回はわたしが思う「社会教育」について
もう少し掘り下げていきたいと思う。

…本題っぽくなるまでに
もう少し時間がかかりそうです。



と言いつつ
先にちょっとした結論ぽいことを。


理想の学び


「社会教育」
現代社会において、
ひとまずわたしの知りうる日本国内において、
理想的な学びのあり方だと思っている。

とは言っても、先述のとおり
概念だけで言えば
「学校教育」以外のものは
ほぼほぼ「社会教育」なんだけれども。

少しだけ厳密に解説すると
あらゆる年齢における
あらゆる学びを全てひっくるめて「生涯学習」
その中に
「学校教育」「家庭教育」「社会教育」
という小カテゴリがあって
最近ではそれらの狭間においても
いろいろな取り組みがなされている
という具合です
図示したほうがきっとわかりやすいので
復習も兼ねてまたそのうちに!笑


というわけで、
このカテゴライズからすると

少なくとも学校教育からはもうとっくに離れた
アラサー世代のわたしたちにとっては
自ら学び、社会と関わっていく
唯一の方法でもあるというわけです。

…というと
大げさな言い方に聞こえるけれど

何も考えずに取り組んでいたことが
「結果的にこれ社会教育じゃん?」
ってことは非常に多くあるということ。


そんな中で、
わたし自身の経験から気付いたことも含めて

「社会教育」が理想的な学びであるための
重要なエレメント=条件について
今日は書いていきたいと思います。



条件①社会との関わり


これは文字通りなのですが

たとえば
自己実現のために資格を取る勉強であったり
自らの教養のために読書をしたりなど…

自分ひとりで成立する学習
個人にとっての「生涯学習」ではあっても
「社会教育」ではない、といえるでしょう。


このあたりは断言するのも難しいですが
あくまでもどいの所感として。


社会との関わり、っていうと
非常にざっくりとしていますが

・複数の人どうしが、おたがいに様々な影響を与え合うこと
・(たとえばボランティアなど)社会に向けた活動や発信があること
・活動が地域社会に開けており、いつでもだれでも参加できること
・目的や目標が定まっていないことも多々ある
(そもそも目的は何か?といったことを深めるような取り組みなど)
・正解や完成形がない

そんな感じでしょうか。

わたしたちが生きる社会は
日々常々移り変わっていきます。

その変化のなかで、
「学び」の形も絶え間なく変わっていく。

個々人が目的や目標を持って学ぶことも
もちろん大きな意味があると思います。

それでも
絶対的に正しいことはないし
正しい人なんていない。

自分ひとりでは見えないもの
気付けないことって
世の中に山ほどあるじゃないですか。

社会との関わりのなかで
自分を見つめ、他者を見つめ
どうありたいかを考えていく。

「社会教育」とは
そういった流動的な学びであると考えています。


条件②フラットであること


前回の記事に書いたとおり
わたしが「社会教育」に関わるようになったのは
現職になってから。

ただ、
学生時代のアルバイトで4年半と、
現職に就く直前の1年間(契約社員として)
個別指導の塾講師をしていました。

そういう意味では、
長いこと「教育」に携わって生きていると思う。

(延べ期間で言えば現職よりも長かった)

思い返すとその中でも
経験を積むにつれて
生徒(主に中学生)との接し方は
年々シフトしていったように思う。


とくに契約社員になってからは、
(アルバイト時代とは地域も規模も違う塾だった)
教室まるごと受け持って
各学年の全教科を教えていたし
講師業のブランクもあったので

生徒に教える内容について
自分でも勉強しながら、
咀嚼して伝えていく
ような指導方法だった。

講師というよりは
もはや一緒に勉強する生徒同士
といった感じ。

むしろ様々な部分で
生徒から学んだり、
助けられていることも多かった。

変に肩肘を張らずに
講師だから、人生の先輩だからと
説教たれることもなく
(塾講師としてどうか、ということはさておき…)

勉強方法に悩む生徒には
一緒にあれこれ試しながら考えたり
ここが苦手!ってわかったときには
いろんな問題集からその分野の問題をひっかき集めたり…

はたまた
長期休みの期間などには
一人じゃできない教室の大掃除を
生徒たちにも手伝ってもらったり。笑

困ったときはお互いに助け合う
みたいな
人と人とのフラットな関係を築くことができていたと思う。


…と

これって今の仕事にも
少なからず通じる部分があると思っていて、

教師(講師) と 生徒

指導者 と 受講者

という
強弱関係があるような構図にとらわれてしまうと

思っていることが言えなかったり
与えられた役目を演じなければならなかったり
(=抑圧されてしまう)

その場に集う人たちが学び合ううえで
色々と不都合が出てくる。

当然、社会教育の活動においても
わかりやすいところで言えば
ファシリテーターなど
様々な役割というものがある。

でも、それはそれ、これはこれで
役割はあくまで役割として全うする。

決してそこに権力構造ができてはならない、
といったための条件です。

社会教育は一人では成立しないので
人とのコミュニケーションが必須。

年齢、性別、趣味趣向、身体的特徴、思想や価値観、国籍…

あらゆる「隔たり」を超越して関わっていこうという
おたがいの強い意志が大切になってきます。

口で言うだけならまさしく理想論なんですが
実際のところ、これが一番難しいことだと思う。


条件③主体的であること


これに関しては
どんな学びにも必要というか
当たり前のことやん…と思いたいけれど

とくに学校教育の範疇では
圧倒的に欠けている生徒・児童が多いのではないかと思う。

まぁ
「ぼくは(わたしは)◎◎を学びたいんだ!」
なんて堂々と言えちゃう小学生とか
いたら気持ち悪いけれど。笑

「学校教育」は
文部科学省が定めた学習指導要領に則って
学ぶべきことを学ぶ場。
(そうじゃないカリキュラムも増えてきてはいる)

となると
一人ひとりが学びたいことを見つけて
自らの意思で取り組んでいけるようにすることが
「社会教育」の役目なのではないか
という相対論がひとつ。


もうひとつは、そもそも
目的やゴールのない学習なんて
主体的でなければできるわけがない

という逆説。

たとえば、
「お医者さんになるために医師免許を取る」
という具体的な目標は
「なりたい」自分の姿であって

なぜお医者さんに「なりたい」のかを考えたときに
「先祖代々医者の家系ですので」とか
「幼少のときに病気を治してくれたお医者さんに憧れて」とか
外的な要因が出てくることもあるでしょう

一方、社会教育的な学習の場において
最終的に目指すものは
このように「ありたい」と思える自分の姿
(職業とかではなく、人としての恒常的な姿勢みたいなもの)
だと思っていて

これは決して外から与えられるものではなく、
人や社会との関わりのなかから
時間をかけて自分自身で学び取っていくもの
なんだと思う


先述したとおり、
常に変動していく社会のなかで
自分とはなにか、
自分はどうしたいのか、
わからなくなることもあるし
無自覚に流されてしまうこともある

それによって人を傷つけてしまうことだってある…

そこで
自分がどう「ありたい」かを固めていくことで
一人ひとりの人生がより豊かになるし
総じて社会がよくなるんじゃないかなとも。


うーん、説明が下手すぎて
話が飛躍して聞こえるかもしれないけれど。笑


ともあれ
以上、どいが考える「社会教育」の
重要な3つの条件
でした。


一つひとつの事柄について、
ここには書ききれない想いやエピソードがいっぱいあるのですが…

本日はここまで!


「社会教育」について大いに語ったうえで
もう一度、大カテゴリの「教育」に立ち返って
教育とは。の結びにしたいと思います。

結べるのか…果たして?!笑




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