【追記あり】地域おこし協力隊を途中退任した経緯と、その先に待っていた未来について
かなりお久しぶりの投稿になりました。
note自体を全然見なくなり、繋がっている皆様の投稿も読んでこなかった時期が続きました。
その間、私に何があったのか。
皆様にお知らせするとともに、自分自身のための備忘録として、この記事を書きます。
私自身のキャリアや私生活の話題が中心になりますが、
地域おこし協力隊のあり方など、本質に突っ込んでいくことになります。
興味のある方はぜひ最後まで読んでください。
地域おこし協力隊としての活動
ミッション:公営塾スタッフ・高校魅力化
一度記事にも書いた通り、私の協力隊としてのミッションは、人口減少が進む地域での県立高校にある公営塾の企画運営、高校魅力化(県外生に向けたPRや学校パンフレット・YouTube動画制作補助など)でした。
1年目は公営塾そのものの立ち上げ+市内の別の公営塾のスタッフとしての活動で、目まぐるしい日々を過ごします。
他のスタッフ仲間ともあれこれ相談しながら、試行錯誤を重ねました。
塾以外にも、"総合的な探究の時間"への関わり(先述の記事参照)など、高校魅力化に関わる幅広い活動を行いました。
苦しい部分もあったけれど、やりがいも十分にあり、充実していたと思います。
公営塾や高校魅力化に取り組むことは、地域や学校、そして私自身にとってゼロからイチをつくることだったため、はじめのうちは自分も周囲もどうして良いかわからず、関係者どうし距離感を図りながらの活動でした。
(コロナもあり制限も多かったです)
頼まれたことをこなしたり、職員室や各先生の居るところに出向いてお話ししたり、地域の方々とサシアイ*をしたり…
チマチマとした行動が少しずつ実を結び、年度が終わるころには、私自身がハブとなり、学校と地域との距離が縮まりつつあることを実感していました。
初めての卒塾生
メインのミッションである公営塾では、高校生の放課後の居場所づくり・学習支援をするとともに、様々な課外活動(教科学習以外のゼミ活動や交流会など)を行っていました。
その中で高校や地域から最も求められたのは、大学への進学実績。
単に学力を高めるだけではなく、将来的に地域へ貢献できる人財を育むため、学校推薦型選抜や総合型選抜による入試対策に力を入れていました。
学校の授業"総合的な探究の時間"での活動等を題材に、自己分析や活動・考えてきたことの棚卸しを行い、出願書類(志望理由書等)や小論文・面接等の対策としました。
私としても初めての経験で、生徒とともに悩み試行錯誤の日々でした。
第一志望ではない生徒もいたけれど、塾生全員が納得感を持って進路を決めることができ、本当に良かったです。
塾にとって第1期生となった卒業生たち。
大学進学後も帰省中には塾に顔を出してくれる子もいて、本当に嬉しい限りでした。
バランスが崩れた新年度
キーパーソン総入れ替え
新年度(2022年度)に入り、春休みには入学前の新入生が塾に遊びに来てくれるようにもなりました。
新しい風にワクワクしながらも、不安の方が大きかったです。
市役所・学校・アドバイザリー業務委託業者等、それぞれの担当者や校長先生が一斉に替わり、これまで築き上げてきたものが大きく揺らぐような感覚がありました。
また、公営塾の運営体制も変更し、私は完全に自分が住む地域(野村町)の公営塾の専任スタッフとして活動することになりました。
専任になった分、幾分か仕事の荷が下ろせると思いきや、やることはモリモリ出てきます。
年度当初、専任スタッフは私一人で、すべての責任を背負っていました。
責任を背負わされていたというよりは、熱量の違いによるものが大きかったです。
そういった意味で、私はどんどん孤独になっていきました。
新スタッフ加入と体調の悪化
せいよ地域おこし協力隊の公営塾スタッフは3名体制でやってきましたが、SMOUT等でずっと新しいスタッフの募集はかけていました。
(2拠点だったため、各地域2名ずつを理想としながらも、私は長らく1名で動いていました)
決まりそうで決まらない時期が続きましたが、ようやく8月に新スタッフを迎えます。
思えば新しいスタッフを迎えることが決定した6月頃から、様子がおかしくなりはじめました。
先述の孤独感やオーバーワーク、先行きの見えなさ、熱量の違い…
すべてが苦しくなり、そのダメージは私自身の身体に現れました。
心療内科にかかり、当初の診断は自律神経失調症。
体調が悪いときもあるなか、どうにか仕事をこなしつつ、新しいスタッフを迎えました。
角が立つのであまり詳細は書けませんが
新しく来てくれた同僚のスタッフは私よりも年下の男性で、社会人経験も浅く
きちんとした対話で、一緒に前向きに業務をすすめていくことが難しい存在でした。
これまで私が力を入れて取り組んできた、学校と地域をつなぐ活動を全否定され、ならば代案はあるのかと聞いても答えてはくれず、途方に暮れました。
秋ごろには身体も耐えられなくなり(微熱・めまい・頭痛・発汗など)、仕事に対する集中力も持たなくなったため、2週間の病気休暇をもらいました。
本当はもっと長期で休むべきだったけれど、生徒の受験対策もあり、これが限界でした。
はっきりと言い渡されたわけではなくとも、この頃には完全にうつ病を発症していたと思います。
仕事も休みがちになり、そのことに対して本来仲間であるはずの同僚に責められることもありました。
周囲の理解が得られなかったこと、本当の意味で相談できる相手がいなかったことは、私にとってとても辛く苦しかったです。
大好きな生徒の前では気丈に振る舞っていましたが、その陰で静かに泣いた日々でした。
これ以上は身体とこころが保たないと思い、2022年12月末での退任を決めました。
同僚に「(辞めてくれて)ありがとうございます」と言われたことは、金輪際忘れないと思います。
大好きだった生徒たちや地域の人たち、学校や地域との別れは、私にとってあまりに辛いものでした。
仕事だけでなく、心から大切だと思える居場所をすべて奪われました。
退任・引っ越し
手放したものと、自力での引っ越し
退任が決まり、これからどうやって生きていくのかもわからないまま
少なくとも野村の地域に残ることだけは、どうしてもできませんでした。
当時、付き合っていた10歳年上の彼氏が松山に一軒家(誰も住んでいない)を持っていたので
そこに転がり込むような形で、11月頃から少しずつ荷物を運び、引っ越しをしました。
「私と言えばバイク」とアイコンになっていたHONDAシャドウ400も、長らく乗れていなかったのと、車を買うために、手放すことを決めました。
(協力隊は無償でリースの車が与えられていたため、このタイミングでの購入でした)
他にも、この先使いそうにないもの、たくさんあった服や靴など、要らないものはすべて処分しました。
年越しコロナ
12月いっぱいの勤務でしたが、コロナが蔓延していたため、塾は早期に閉めざるをえませんでした。
それでも最後に私に会いたいと、最終勤務日に塾生たちが集まってくれましたが…このタイミングでコロナ陽性になってしまい、会うことができませんでした。
熱がまだ上がらないうちに、新しく買った車で一人さみしく引っ越しました。
年末年始はコロナ療養で、新居から一歩も出ることができませんでした。
どうしてもUPしたい塾のInstagramの更新が残っていたので、退職日となる12月31日の最後の最後まで投稿を続けました。
最後の投稿の一部を同僚に無断で消されたことも、たぶん一生忘れません。
再就職に至るまで
今日(7/31)このタイミングでこの記事を書いているのは
明日(8/1)から松山市内で、Webディレクターとして再就職するからです。
ここに至るまで、本当に色々なことがありました。
無職として過ごした7か月間。
自分にとって本当に学びの大きい時間でした。
人生の夏休み最後の日、追い込みの宿題のよう。
すべては書きつくせないけれど、キーポイントで綴っていきます。
①天井を眺めるだけの日々
引っ越して間もなく~3月頃まで、一番うつの症状がひどかった時期です。
睡眠障害が激しく、わけのわからない夢をたくさん見て、熟睡ができませんでした。
何をする意欲も湧かず、日中はただボーっと天井を眺めるだけの日がほとんどでした。
そんな状態で生きているのがつらく、希死念慮(うっすらと死にたいきもち)もありました。
転院はせず、かかりつけの心療内科は西予市にあったため、毎回車で1時間半ほどかけて通っていました。
睡眠障害についてはお医者さんに相談し、薬を変えてもらったことで、徐々に改善していきました。
また、この段になってようやく、自立支援医療受給者資格および精神障害者保健福祉手帳(3級)の取得の手続きを行いました。
(こちらについてはそのうち別記事でまとめたい)
②失業手当の受給とスキマバイト
無職になって収入がなくなったため、真っ先にハローワークへ行き、失業手当受給の手続きを行いました。
先述のとおりうつ病による退職だったため、特別理由離職となり、300日間の受給日数が得られました。
3月頃には少し動けるようになったのと、失業手当だけではペイできないカードの支払い等があったため、受給資格の範囲内でスキマバイトを始めました。
私が主に使っていたのは、橋本環奈のCMでおなじみのタイミーです。
継続的なアルバイトは就職とみなされるため、こちらで日雇いのアルバイトを探して働いていました。
もちろん、お金を得られたことも大きかったけれど
物流倉庫での軽作業やホテルでの業務、接客やイベントスタッフなど
これまでに経験したことのない様々な業種・職種のお仕事を体験できたという意味で、やってよかったと思っています。
このようなタイミングがないと絶対に経験できなかった。
世の中は見えている範囲だけじゃなく、様々な人たちの働きによって成り立っています。
この先、どんどん変化もしていくでしょうが、自分の半径5メートルより外側にも少しは目を向けないとな、と感じました。
③理解者の存在
昨年の9月、数年間音信不通になっていた大学時代の友人Kから、突然LINEで連絡がきました。
Kとは当時から仲が良く、卒業してからも一緒に旅行に行ったりする仲でした。
K自身、色々あって各種SNSからいなくなり、もう一生会えないかも、と思っていたので、連絡をくれて嬉しかったです。
その日は休みだったので、そのまま通話で3時間近く話しました。
その後もLINEのやりとりや通話を頻繁に行い、話すことがなくなるくらい(話していなくても間が持つくらい)仲良しです。
愛媛に移住してから、同世代の「友人」と呼べる存在があまりいなかったのもあり、本当に嬉しかった。
そしてKも、これまでに似た苦しさを経験してきたので、とても心強く、今もお互いに支え合いながら生きています。
離れて暮らしていても、一番親しい存在です。
④両親の存在
我が家はワケアリで、私がこういった状況になっても、あまり両親に頼るという選択肢をとれませんでした。
5月頃に彼氏と別れ、家を引き払って引っ越さざるを得なくなりました。
また、就職活動もうまくいかず、受けた会社はうつ病が理由で全部落ちました。
(うつ病をオープンにするのは、あまりおすすめできません…)
金銭的にも精神的にも苦しくなり、両親に今の状況を伝えるメッセージを送ったところ、2週間も経たないうちに奈良から松山まで駆けつけてくれました。
父が言ってくれたこの言葉は、一生忘れられません。
(一生忘れられないことが多すぎる)
両親からの援助で、今住んでいる部屋に引っ越すことができました。
本当に感謝してもしきれないです。
自分には子どもが居ないから感覚がわからないけれど、いつかそのようになった場合に同じ言動ができるよう、逞しく生きていきたいです。
おわりに
長々と書いてきましたが、以上がこれまでの経緯です。
決してうつ病になってよかったとは言えないけれど、どの経験も私にとって貴重なもので、かけがえのないものです。
この先は本当に、どうなるか見当もつきません。
でも今この時点の私は、不安もありつつ、新しいフィールドにすすめることにワクワクしています。
この記事を読んでくれた方の中には、たくさんご心配・ご迷惑をおかけした方もいると思います。
いろんな人から連絡をもらったり、優しく声をかけてもらったことも、本当に嬉しかった。
これから少しずつ、恩返し・恩送りができればいいなと思います。
それでは、また。
追記
意気揚々と入社した会社を、
色々あって(そんなにない)わずか1か月足らず(8/27)で辞めました。
他人はどうってことないということでも
心を抉られ、踏みにじられるような感覚。
どこへ行っても、だれと何をしても、消えないものかもしれません。
耐え得る器を広く構えなければならないなぁ、と。
自分の感受性くらい、自分で守らなければ、と。
それができなかったのは、少し生き急ぎすぎたからなのかもしれません。
また次の場所を見つけにゆきます。
さらに追記
2023年9月〜2024年4月現在にかけて
正社員就職の道を一旦あきらめ、某コンビニエンスストアでフリーターとして働いています。
これまでほとんど経験のなかった接客業に飛び込み、あれよあれよと半年が経過。
意外とハマっています。接客以外にも、学ぶことは盛りだくさん。
もちろん私にとって一生続ける仕事ではない…けれど、ここでも良い経験をさせていただけています。
転職活動もぼちぼち行っていますが…いかんせんポンコツすぎて、十戦十敗。戦っているだけえらい。
ちょっと舵を切り替えて、新しい道にチャレンジしようと思う今日この頃です。
noteも書く書く詐欺で全然書けてないので、こうして継ぎ足し継ぎ足ししてます。笑
ではまた。
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