「変なものを観にいこう」

 展覧会なるものに興味がなかった私に、友人が「変なものを観にいこう」と道立近代美術館に誘ってくれた。常設展だったと思うが私はそこで運命の出会いをするのだが、その話は後のほうでするとして。
 「変なものを観にいこう」と友人が言って、常設展に行き、何がへんなのかよくわかってなくて、友人がくすくす笑いながら展示を回るので、私はなにがなんだか、と後をついていった記憶がある。
 さらーと足を止める気配がなく、ただきょろきょろとしながら早足でぐるりとめぐって、友人は言った。
「さて、どれを見直そうかな」
 と、紙を開いて一覧を見る。
 名前と絵と覚えているのかと聞いたら、覚えてないといってまたケラケラ笑う。
 人も多くどこか厳かな空気で落ち着かないままの私に、作品そのものもだけど、会場内の椅子の位置だとか、天井の高さだとか、陳列の仕方だとか、ガラスの照明の位置とか、そういうのを見てまたケラケラ笑う。面白いねえと笑う。
 友人は特に美術品が好きなわけじゃない。
 有名なアーティストが好きなわけでもなく、第一に芸術に一切興味は無いはずだ。
 でもこの数年、小さいギャラリーから大きいところまで行くのが好きだと言っていた。そのときは私もよくわかっていなかった。

 数年後、私がまさか展示活動を始めているなんてどうかしている。
 友人はすっかりもう展示を見ることに飽きて、今はぜんぜん違うことをしている、展示を見るなんて気持ちは毛頭も無い。ので、私一人で観にいくことも多い。

 上下左右と縦横無尽に飾られている展示。
 定規で測ったかのように同じ目線で観ることができる作品の陳列、これはでかすぎるだろうというぐらいでかい作品で、どうやってかいたのかな、とか近づいてみたくなったり遠くからみようにももう後ずさる壁がなくて、もう!あとちょっとで視界に全部はいるのに!というもどかしさを感じてしまうときもある。
 当然作品は見るのである。
 でも展示さされている建物とか、空気とか、いる人とかそういうものも一つのオブジェであるかのようにみていると面白い。

 私は自作に伝えたいことはほとんど無い。
 テーマにしているものがあるけれどテーマにしているものが伝えたいものであるとは限らない。
 あと売り物にもしていない。名前も別に有名でなければ、有名になろうという努力すらしない不良作家だ。実にけしからんと思う。
 自称作家は淘汰されるべきといわれているかもしれないが、なんでだかちゃっかり残って細々活動している。
 上手くなりたいという上昇思考だってちゃんと持っている。
 なんなら超大作を死ぬまでに一つ書き上げたいっていう自分にしてはでかい夢だって持っているし、まだ実現もしていない。
 作家だからとてもわがままですかといわれたこともあるが、たぶんわがままだけど他人にわがままを通すほど非礼ではない。
 かといって、いい人なわけでもなく。ごく何処にでも居る一般人である。目立つようなこともめったに無いと思っている。
 いや、太ってて丸いから記憶に残りやすいかもしれない。
 人の展示を見てる私はたぶん凄いニヤニヤしてみていると思う。楽しくてしょうがないのだ。
 この作家さんはどういう風にして作品を作ったのだろうと思いながら、またどうやって設営したんだろう。この空間はどうやって考えたんだろう。 
 そんな空想が楽しくてしょうがないのだ。
 この会場の天井はどのくらいなのか。
 目線の高さは推定何センチがベストなんだろうとか。
 たまに天井から床までながーい作品なんか見たときには、この人は天と地を結びたかがって居るのか知らん、などと思ってはまた楽しくなってしまう。
 会場によってはライティングも違うし、壁の色が影響したりすることがある。
 見る側としての話をしようと思う。
 展示する側、としての話は今はちょっとおいておいて。
 
 それぞれ会場には特徴がある。
 ライティングもそうだし、ギャラリー側が設営したり、あるいは作家本人が設営などいろいろあるのらしい。わたしはそのあたり特定のギャラリーでしか展示をしていなかったのでよくは知らず伝えききなのでもうしわけない。
 古民家のギャラリーもあれば、喫茶でのギャラリースペースもあったり、札幌は落ち着いて考えてみると、小規模なりのギャラリーは案外面白いなと思う。喫茶店めぐりとギャラリーめぐりが一緒に出来ちゃうのは面白いことだと思う。
 皆で頑張って出資しあえば札幌市民ギャラリーだって小さい会議室を借りることが出来る。いや、一人でだって難しくは無い。そうしてそういう小規模の展示が以外に面白かったりするのもいい。
 大きな会場も創りこんだ世界観があったり、視覚にもはっとする面白さを感じることがあってキュレーターなどの力をかんじることもあります。もちろんちょっぴり残念と思うこともあります。これは個人の感じ方なので第絶賛の人が居ても間違いは無い。
 友人のせいで、ついつい、壁にこの絵が似合うだとか、この高さ凄くいい、ちょうどよくて見やすい、とか、この並びには何の意味があるのかな、面白いな、とか、什器もおもしろいなとか、資料館での展覧会とかだとついつい建物にも眼が行っちゃいますよね。装飾が素敵だし。
 そんなふうに私はついつい斜めで見ちゃうので、きっと正しくアートを理解してアートを愛している人から見ると私はまじめじゃない部類に入るのかもしれないな。
 
 が。

 よいのではないでしょうか、と最近は思うようになったわけなのだ。。
 気がまえなく、ちょっと変なものみにいかないかい?みたいなそんな気軽な感じで観にいったら運命の出会いだってまっているかもしれない。
 ここで登場するんですが私の運命の出会い。
 深井克美氏の作品に脳天を殴られたような衝撃を感じた。
 函館出身の画家。
 でした、というのはもうこの世には居ないからです。30歳でこの世を去りました。自殺の原因はわからないらしい。
 多くの深井氏の作品は北海道道立記念美術館に収蔵されていて、私が見たのもその幾つかの作品。
 当時は作家活動しようなどと思ってもいなかったし、いつか活動することになってしまうなんて思いもしなかったので、ただひたすら私が思い描く世界のすべてがここにあると、思い込んだのだ。梶井基次郎の作品から感じるそのシンパシーを勝手に深井氏からも感じて、勝手な解釈でおもいこんでいたのだけれど。

 時折旅行のついでに道外のギャラリーもこっそり見てくることも多くて、銀座の奥野ビルなんかはビルそのものも見ごたえあるしカッコイイし素敵だし楽しい。
 それぞれのギャラリーの狭さはびっくりしたけど、その中で工夫して飾られているのも素敵だったりするし、そういう風に見るのもおもしろいんじゃないかなあって思うんだけれど。
 アートってそんなに窮屈じゃなくてはいけないのかな、と思う出来事が最近あって(これはまたいつか話せたら思うのだけど)、たぶんそんなに窮屈じゃなくてもいいと思います。
 へんなものをみにいこう。
 へんなものっていったら失礼に聞こえるかな?でも、へんなものですよ、どれもこれもきっと!日常に油絵を飾っている人はそんなにいないだろうとおもうし、なんなら毎日アート作品を見る人だってそんなに多くは無いから、そういう人から見ても、写真のような美しい絵だったり、抽象画のように具象じゃなくてよくわからんよ!?って思うものだったり、色々あるとおもうんですよ、どれもへんなものだなあって思うのだ。でもそのへんなものがへんな空間で飾られているっていうんだから、こんなへんてこで面白いことは無い。
 日常に近い非日常で作品を観にいく。
 作品を飾っている場所を観にいく。
 なんなら作品を見る人を観にいく。
 そんな風にちょっと斜めの楽しみもありじゃないかな?


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