文章はどこにある?

たくさん、たくさん、巷にあふれる文章を読んでいくと、「共感されているエッセイ」みたいなものにはある程度、フォーマットがあるように思うんだよねと、ある会食の折、そういう話で盛り上がった記憶がある。

わけあって、100年くらい前から現在までの小説、エッセイ、私小説、雑誌を読んでいると、「たぶんこの時代にはこういう文章が流行っていたんだな」という自分なりのざっくりとした印象があって、それはすでにテキスト化されているのかもしれずそういった本やテキストは未読であるので不勉強であれば大変申し訳ない。まあ、自分の肌感覚の話なので先の謝罪とか、別にいっか。

その時々、時代時代、場面場面、メディア、ハードウェア、プラットフォームなどなど、アウトプットの場所や機会は多様に存在するのだが、今日ほど「皿」(プラットフォーム)が多様化した時代はない。で、皿が多様化するというのは「料理」(コンテンツ)も多様なものが(勝手にでも)求められるということで、つまるところ、「どこでどんなものを作ればいいか」という思考の行きつく先にあるのは「ネタはなにか」「文体はどうしたらいいか」のはずで、そうして生まれた規定化されたものがフォーマットを形づくる。

で、フォーマットの話でいうと、たとえばこのnoteには「共感されるエッセイ(コラム)」を醸成しやすい機能と土台があって、こと文章構成と文体の話でいうと、「共感」を生むにはこのような書き方をすればいいのだ、という方程式が非常にわかりやすい。「フォーマットには5つのポイントがあり、事例を引きつつ説明しよう……」と勝手に説明が始まるのもこのプラットフォームにおける特徴的なフォーマットのひとつですよね。あとは調味料としてたくさんの「#」を添えたらさあ完成。……話が逸れたが、フォーマットに沿って何かを書けば、その飲食店が繁盛している期間はたくさんの承認欲求を得られるという構造がある。だからみんな憧れるし、長時間並んでタピオカのドリンクを購入してインスタにあげるのもよくわかる。

時代のフォーマットに適応することが上手い人たちは「あれ? みんなこの講座にいっていたんだ」みたいな共通項もあったりして結構面白い。その共通項を持った方々の書いている文章は、句読点の位置や「ひらく」箇所や、構成がやっぱり似ている場合が多い(みんながみんなというわけではもちろんない。当たり前だけど)。そうそう、フォーマットといえば忘れてはいけないのがツイッターで、かつてインフルエンサーが残したフォーマット(つまりはもう使われなくなったもの)を使用してフォロワー稼ぎやリツイート、ファボを求める「虎の威を借る狐」の群れが昨日も今日も明日も明後日も、だだっ広い荒野を駆け回っている。狐たちは、自分がどの時代に生きているのかを理解できていない、酸欠かもしれない。こちらはそれを見るのが楽しいので、今日も見ている。

時代が変われどフォーマットを変えない人々が集まるお皿には好感を持つ一方、時代に即して文章を最適な形でフィットさせる技術のある人たちがこれからも共感を集め続けて行くだろう。共感はそのまま、のどごしの良さとも言い換えることができる。よくわかって、優しくて、どの皿にでもあう、流動食を製造する装置。そこに固形物は必要がない。

フォーマットはとても楽だ。フォーマット通りにしたらうけるのは、なにもウェブだけではなく書籍もそうで、いつの時代もビジネス書と自己啓発書が売れるのはたぶんそういうことだろう。フォーマットはとても楽だ。フォーマットに合わせたエッセイ、コラム、グビグビ飲めてしまう。それはとても良いことだ。ただ、やっぱり規定されてしまう可能性もけっこうあったりするので、というのはイコール「誰でも書けるもの」に陥ってしまう危険性をはらむということ。義務教育のような画一化された文体が残ってしまい、その外側に抜け出すことが難しくなってしまうのではないか。

同業者と話していると、何年も前からこういう話はよく出てくる。文体なき時代、と形容するひともいる。ぼくたちが今やらなくてはいけない大事なことの一つに、文体の拡張というのは間違いなくあるように思う。別にフレンチの皿に和食を置いても、(ブログとかに関しては)誰も怒ったりはしない、ということを痛感するんだよ、ああ、今さら。きっとそれが理想的。

#エッセイ #ライター

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岡本尚之

1989年生まれ。編集。誰の役にも立たない雑な文を書きます。
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