さもありなん

毎年この時期になると、丸の内にて「ウェルカムパーティ 」という名のこぢんまりとした同窓会が開催される。ぼくの大学は関西にあるので、東京で就職したわずかな若手同窓が集い、先輩にあたる財界のお偉さん方の至言を賜ったのち、立食にてこぢんまりとした社交が求められる。そういう会である。

新卒からそこそこの若手まで、130人ほどが「業種」によってテーブル分けされ、まずは同じ業界のなかまたちと親交、そして熱き友情を交わし深め、それから別の業界のテーブルと混ざり合いながらその名の通り、社交を行うのである。もちろんドレスコードはスーツだ。

大学二回生のプレゼミで、社会調査で名を馳せた教授が「社会に出るとこのような教室というものはなくなり、知人・友人を作るのがむずかしくなるものだ。だからこの教室での出会いを大切にしなさい」と、退屈な学生の発表を居眠りしながら聞いたあと、きりっと真面目な顔をして言った。たしかに社会には「同じクラス」「同じ教室」などないのだから、一理ある。さらに、多くの学生が関西で就職する我が母校の状況をみるならば、ウェルカムパーティと称した友だちづくりの場は効率的にさえ見えた。

しかしながら、交流を目的として作られたクラスは、それまでのクラスとは明らかに意味を異にする。まるで大がかりな合コンじゃないですか(みんながそう思っていたはずだ)。これは、今年になって突然ウェルカムパーティの招待が届かなくなった恨みを述べているのではない。決してそうではない。あー、ダメですか。令和で30歳になる社会人はNGですか。ぜんぜん怒ってない。ぜんぜん。最近行ってなかったし。社交スキルもないし。なにも感じてないからいいけど。感情ないんで。ぜんぜん。

さて、そもそも「社会に出ると友だち作りが難しくなる」とは事実だろうか。コミュニティがあってこそ人間関係が成り立つ。コミュニティがなくなるので人間関係が成り立ちにくい。大変ロジカルなのだけれど、その「コミュニティとはなんぞや」ということを学ぶのが大学であったり教育機関だったりするのではなかろうか。コミュニティの意味を説くはずの側にしては、なんとも歯切れが悪い結論をぶん投げられたような気がする。

こと社会には無数に開かれたドアがあって、「社会に出る」とは、さまざまな場所に出入りする権利を付与されたということだ。聡い人間は、大学時代からとうに気づいていることでもある。要するに、プレゼミの教授は「教室はなくなるのだから、入り口を見つける方法を探すのだ」と説くべきだった。

用意されたハコではなく、自らハコの入り口を見つけに行くこと。「人間関係が広く、そしてとても薄い」と最近一目で見抜かれるようになって夜通し涙を流しているけれど、薄ければ重ねてしまえばミルフィーユみたいになるんじゃなかろうか。なぁ、ルルーシュ(は?)。これまたなんとも歯切れが悪いけれど、味はともかくとして。


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岡本尚之

1989年生まれ。編集。誰の役にも立たない雑な文を書きます。
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