なぜ「定時」は存在し、世界は存在しないのか

こと時間論において、その実在について語るためには「実存」と「実在」、以上二つの言葉をきちんと定義する必要があるのだが、そうした時間論など話せるはずもないのだし、もちろん世界の存在については“新しい実在論”で著名となった哲学者、マルクス・ガブリエルが書いている彼の本を読んで、それから同様にクァンタン・メイヤスーを読んで「内在的な実在論とは違うのでは」と思考を巡らせればよい。

そもそも定時について考えてみようと思ったのは、誰もが定時についてきちんと定義できていないと思ったからである。仕事での定時については、働き方改革で数多くの議論がなされ、旧来的な意味を一部では失いつつあるものの、未だ「職場にいくこと」が定時であり、「はたらくこと」を定時とみなす動きはまだまだ少ない。

最近、裁量労働制からフレックスタイムに諸般の事情で変わることとなり、10:00-15:00が定時となった。もちろん間に合わなければ遅刻となるが、テクノロジーがこれほどまでに日常生活に侵食し、あらゆるデヴァイスは従来のワークをシフトさせ、アップデートされるごとに合理性を労働の現場に持ち込んできた。テレワークやリモートワークは出社=労働という慣習を破壊することにひとまず成功しているわけだし、ぼく自身、会社のラウンジやカフェで仕事をすることもあるのだから、それは会社以外のラウンジやカフェでもできるということを、残念ながら明示している。つまり、「出社時間」という概念は意味をなさず「定時」は更新されないまま、古き良き時代のコンヴェンションとして発掘されない化石となるだろう。

それでは社内でのコミュニケーションが円滑に……などと言っている人たちは、なんとか、円滑にならない理由を実証してほしい。同様に、「足並みを揃えるため」の納会や会議なども、足並みを揃えることを実証してはじめて、言の葉として相手に伝えるべきだ。足並みが揃ったところなど、ほとんど見たことがない。

そうそう、もちろん職業は多様に存在するわけで、必要に応じて必要な人間が使うシステムであることがひとつ、正しいことに違いはないが、時間論に立ち戻って考えてみるとき、果たして定時は「実在」なのか、「実存」であるのか、はたまた「存在」をしているのか。

前置きが長くなったが、とにかく朝起きるのが不得手であるので、定時が存在しない世界に行きたいものだし、結果さえ残せばいい、という仕事を実際に今も昔もやっていて、それが大変心地いいため、ようするに夕方まで寝たい。たったそれだけ。たったそれだけのために深夜にここまで書いた。

本来は電車のほうが走るのに、その走る電車に乗るために駅まで走るというのは、このうえなくナンセンスであるし、どうにかイノヴェイティヴなものが生まれてくれないかねえ。なんて思いながら、走るものを追いかけて走る生活が続いていくことを考えれば、全国タクシーだって毎日使いたくなるものだ。




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ありとうだにょ!!!
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岡本尚之

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