脇道に逸れすぎてはいけない

「モラル」「常識」というものが社会には存在していて、ぼくたちは(時に、脇道に逸れつつも)それを念頭におきながら日々を過ごしている。

常識にとらわれない、という言葉には、「常識にとらわれてはいないが、あくまで他人に迷惑をかけない範囲内で」という意味が内包されていて、つまるところ、常識にとらわれないことについても社会通念は少なからず適応されている。このことに無頓着であればあるほど、常識にとらわれないの意味をはき違える人たちが出てきて、大きな問題になったりするのだ。

話は変わるが、「正しさ」が何かと言われれば、正しさって何か答えられないし応えられない。仕事柄、人と話すことが多い。他の仕事を知らないので勝手に柄って言ってしまうのもよくないのだが、とりあえずダブルワークをしているので多い、ということにしておきたい。取材であったり、打ち合わせであったり、会議であったり、業種・異業種交流会じみた交流がおこなわれない会であったり、儀礼的な交流もあったりするので人と話すことはそもそも避けることが難しい。そうして、話すことを“こなしていく”と、ある時、自分は人と「会話ができているか」ということがとても気になってきた。言語学やコミュニケーション論的な話でもあるし、そうでない話でもある。

だって思い返してみれば、インタビューの教科書には会話のやり方は書かれているけれど、それが「正しい会話」なのかどうか書かれていない。国語の授業でも教わることなんてなかったし、第三者も、何をもって「正しい」とみなすのか分からないじゃないですか。話がうまいですね、という言葉は正しい会話が成立していますね、を担保することはなく、相手の心情を引き出すのがうまいですね、という美辞麗句ですら、そこにある技術を褒めているに過ぎない、と考えてしまうのは穿った見方をしているからだろうか。正しいを教わっていないことでコミュニケーションが創造されるわけだ、そしてディスコミュニケーションも同様に。ある種の、教科書的な正しさは、ちょっと必要なのかもしれない。

モラル、常識といったものが何らかの正しさを(そこには法律が出てくるだろうけれど)もって叫ばれているのならば、そこから脇道に逸れて他者の領域を侵犯することは歓迎できないし、してはいけない。

既存の価値観がウザったい。常識外のところから新しいクリエイティヴが生まれる、みたいなスタンスを取り続けていると、では今社会ではなにが問題になっていて、なにを直さなければいけないのか、についての情報をシャットダウンしてしまい、思考が止まってしまう。「きみの常識と私の常識は違う、だって考え方は人それぞれだから」、には、考え方が人それぞれだという前提の上で成り立っている常識を無視し、結論にしている時点でディスコミュニケーションになっているわけで、こうした「人それぞれ」で片付けてしまう思考停止は幾度となく見てきた。

「人それぞれ」は、「考え方は人それぞれなので、だからぼくたちは他人がなにを考えているのかについて想像して、あわせて社会通念ってどんなものだっただろうか、も想像して、そこから互いの価値判断の基準について擦り合わせていく」ことが対人関係では重要になってくるのだと思うし、ネクストステップとして多様性や他者理解について考えるというのが筋のような気がする。そのあたりから「常識」がどんどんアップデートされていくのではないのか。社会が変わっていくのではないのか。価値あるものが生まれるのではないだろうか。

二元論ではない世の中で、脇道に逸れることは大切だけれど、自分の選んだ脇道の行く先がコンクリート壁や断崖絶壁であることを避けるために、ぼくたちはたぶん正しいとは何かについて、永続的に考えなくてはいけないのだろうね。

#エッセイ

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ありとうだにょ!!!
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岡本尚之

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