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【小説】駆けて!ホンマチ㉑

「あの日のことは、はっきりと覚えているよ。50年が経った今でもね」

 トシ君は赤紐付きの五〇円硬貨を手のひらに乗せ、しげしげと眺めている。

 静かな休日を迎えている株式会社ヒビノのオフィス内。空調の風が観葉植物の葉を優しく揺らしている。

「忘れるわけにはいかなかったんだ。今日という日が来るまで。どうしても、真汐さんに伝えなきゃいけなかったからね」


 椅子の肘掛と背もたれに身を預けるような体勢をとり、トシ君は深く息を吐いた。

 そして、私が見ることのできなかった50年前のクライマックスシーンを話してくれた。その話しぶりは、まるで一週間前の出来事であるかのような鮮度で、詳細にその顛末がまとめあげられたいた。



 1971年7月11日


 騒乱の続くオデオン劇場前、走り去っていく真汐の後ろ姿を見送る俊夫は、脳内が混乱を極める中、懸命に事の次第を整理していた。


 本町商店街に突如として現れた絶世の美女であるマドンナは、瞬く間に本町の青年たちを虜にした。熱いラブコールを浴び、激しい争奪戦が勃発する中、マドンナはある男を捜していると明かした。右手の甲に痣のある高倉健を彷彿とさせる二枚目だというが、地元の人間ですらその男を見た物は誰一人としていない。

 若者たちの間ではマドンナ争奪レースは大いに盛り上がり、本町の誰が彼女の心を射止めるのかの賭けは、白熱の様相を呈している。もし高倉健が本町に現れれば、その賭け事自体も不成立となってしまう。

 マドンナに高倉健を会わせてはいけない。万が一、高倉健が現れた場合は即刻本町から排除する。

 そんな不文律が浸透して久しい中、遂に高倉健がその姿を現した。


 実際は高倉健には似ても似つかないその人物は、臆病そうな小男だった。訳もわからず血の気の多い輩たちに取り囲まれ、当初は明らかに怯えた様子だった。

 素直に要求を受け入れ、揉めることもなく本町商店街を後にしていくと思われたが、この高倉健は一筋縄にはいかなかった。

 理不尽な申し出に「ふざけるな」と激高したのは意外だった。

 多人数を相手に、明らかに分が悪く勝算など無いに等しくとも、激しく抵抗を繰り返した。


 真汐から高倉健を守れと命じられたのは、その最中のことだった。

 俊夫はその激しい口調に驚いた。それ以上に、真汐の悲壮感に満ちた鋭い視線に圧倒された。

「あの人を、健さんを助けて!守ってあげて!それが、私が今日ここへ来た理由なの!」

 真汐の悲痛な訴えの真意はわからない。ただ、喫茶ソルティーでの話題がマドンナと高倉健に移行してからは、真汐の様子に異変が起こったことは明らかだった。

 真汐がタイムスリップしてきた日に、高倉健が現れたことも偶然ではないのだろう。


「理由はあとから話す。私はマドンナさんを連れてくる!」

 叫びにも似た真汐の声の残響が頭から離れない。俊夫は小さくなった真汐の後ろ姿に背を向ける。


 哀れな高倉健の顔面は無残にも腫れ上がり、鼻と口元から出血している。それにも関わらず、たった一人で立ち向かっている。必死に殴りかかるが、繰り出されるパンチは悲しいほど非力で、弱々しく宙を切るばかりだ。

 細々とした体型で、その緩慢な動きを見ても喧嘩の経験が乏しいことは明白だ。それでも何かを喚きながら向かっていくその目は、負けまいとする気持ちが表れていた。

 確かに、正当な理由も無く『本町から立ち去れ』と凄まれたところで、到底納得のいく話ではないだろうが、何がそこまで彼を駆り立てるのか、誰もが疑問に思うほどだった。


 もはや周囲を取り囲んでいる本町の屈強な連中も、半ば呆れ顔になり、本気で相手をするつもりなど失せている。

 埒の明かない状況に、俊夫はチャンスを見出した。


 ここで時間を稼ぐ。真汐はここへマドンナを連れてくると言った。理由は不明だが、この高倉健と会わせるためだ。それが真汐のタイムスリップの目的なのだろう。

 休日で賑わう本町商店街の人ごみの中からマドンナを探し出し、ここへ連れてくるまでにどれくらいの時間を要すのか判らない。とにかく、真汐がマドンナを連れてくるまでに、このKO負けを喫したボクサーのような顔面と化した高倉健を、ここに留まらせておかなければいけない。俊夫はそう胸に誓った。


「なあみんな、一度冷静にならないか」

 輪の中に入り込んだ俊夫はぐるりと皆の顔を見渡した。例外なく事態が収束しないことに困惑の表情を浮かべている。

「この人は一度しかマドンナと会っていないと言っている。さっき写真を見てやっと思い出したくらいだ。まず言えることは、そんな人がマドンナを狙っているなんて考えられないだろ」

 俊夫の冷静な口ぶりを、皆は黙って聞いている。

「重要なのは、あのマドンナがこの人に会おうとしている理由が何なのかだ」

「こいつに惚れているんだろ」

 その誰かの言葉に相槌を打つ者は少数派だった。

「確かに、あんなべっぴんさんがこんな奴に一目惚れするとは考えられん」

「俺らが想像していた高倉健とは程遠いからな」

「そうだな、よっぽど俺のほうが男前だ」


 輪の中心で跪いている傷ついた高倉健に集まる視線が、これまでとは変わってきた。俊夫はゆっくりとした口調で、全員を諭すように語りかけた。

「そう、俺たちは高倉健という言葉に惑わされてしまったんだ。マドンナが惚れ込んでいる男だとばかり思い込んでいた。だけどマドンナが本町に来る本当の理由は、惚れた男に会うためじゃなくて、何か他にあるんじゃないだろうか。この人に会わなければならない理由が」

 俊夫はしゃがみ込んで、高倉健の目線の高さに合わせる。

「あんた、名前は何ていうんだ」

 大きく肩で呼吸をし、唇を震わせながら「神谷だ・・」と言い、血の混じった唾を吐き捨てた。


 それを聞き、俊夫は驚いた。確信までには至らないが、事の次第がおぼろげに理解しかけてきた。


「神谷さん、あの女があんたを探している理由を知りたい。何か心当たりはないか」

 そう訊きながら一歩近付いた俊夫は、神谷と名乗る高倉健から不意の一撃を受ける。

「さっきからごちゃごちゃ喧しいんだ!」

 俊夫をはじめ、本町の連中はすっかり冷静になっていたが、手負いの高倉健だけは興奮状態から覚めていないことに気付けなかった。渾身の右ストレートは、的確に俊夫の顔面を捉えた。

 非力なパンチではあるが、無警戒なだけに思わぬダメージを負った俊夫は、条件反射的に応戦し、二人はその場で揉み合いとなった。


 その直後だった。俊夫の側頭部に経験したことのない衝撃と激痛が襲ったのは。

 頭を抱えて倒れこんだ俊夫は、何が起こったのかを把握できない。

 激しい痛みにもんどりうちながら薄く目を開く。その光景に目を疑った。


 仁王立ちのマドンナが、こちらを睨みつけている。脱いだローヒールを手にしながら。



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