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【小説】駆けて!ホンマチ⑱

 本町商店街を私はまた走っている。さっき走ってきた通りを再び引き返す格好だ。

 吹き出した汗に、前髪は額に張り付いているのがわかる。背中のリュックは走りに合わせて右へ左へと暴れる。必死の形相でバタバタと不恰好に走る私に向けられる通行人からの怪訝そうな視線も感じるが、そんなものに構う暇はない。

 一刻も早くマドンナさんに伝えなければいけない。おじいちゃんとの再会を、今日この日に果たすために。その一心だった。


 喫茶ソルティは、南北に伸びる本町商店街の北寄りに位置している。マドンナさんはそこから更に北へと歩いていった。商店街の南方に店舗を構えるオデオン劇場からは果てしない距離に感じる。

 心臓の鼓動が異常に早い。息が苦しい。脚がもつれそうだ。それでも、とにかく前へ進めと自らを必死に鼓舞する。

 

 ソルティを過ぎた辺りからはスピードを緩めた。どこかのお店の店内にいるのかもしれない。左右の店舗内を注意深く確認しながら小走りで進んだ。

 すると前方に、目にも鮮やかな白黒ワンピースの女性が優雅に現れた。友達と思しき二人の女性を従えて、こちらに歩いてくる。アイスキャンディーを頬張る様からも、圧倒的なチャーミングさが滲み出ている。その光り輝きぶりは、この日の太陽にも決して引けを取ってはいない。

 一目散に駆け寄った。乱れた呼吸を整える猶予さえなく、心肺機能が限界に達した状態で懸命に用件を伝えようとするが、息があがり上手く言葉になってくれない。

「あなたの・・探している人が・・向こうにいます・・。映画館の・・前です・・」


 汗まみれで息も絶え絶えという、ただならぬ状態で現れた見知らぬ少女からのメッセージを、おばあちゃんはさぞかし怪しんだに違いない。だが疲労困憊で膝に手を付き、呼吸を荒げている私を気遣うように、優しく見つめ返してくれた。

「そう、教えてくれてどうもありがとう」


 そう言うと、持っていたアイスキャンディーを隣の女性に預け、颯爽と駆け始めた。カツカツというリズミカルなローヒールの靴音が本町商店街に響きわたる。

 私もそのあとを追う。体力を使い果たしているので、足取りがおぼつかない。

 ミニのワンピースにも関わらず、大股で懸命に走るおばあちゃんに視線が集中しているのがわかる。その後ろ姿を至近距離で見る私は、神々しい美しさを覚える。真っ直ぐなおばあちゃんの気持ちが伝わってくる。


 だが、その艶やかで健気な後ろ姿は次第に遠のいていく。もはやジョギングのようにしか走れなくなった私の脚はガクガクで、息もあがっている。

 しかし、遠のいていくのはおばあちゃんの後ろ姿とローヒールから発する靴音だけではなさそうだ。どうやら、私の意識も遠のき始めているようなのだ。


 心拍が激しく騒ぎ、呼吸の乱れも尋常じゃない。脚は鉛のような重さと化している。私の体は走り続けることを強く拒んだ。

 遂には歩き始めたが、体がふらつき始める。いつの間にかまた、靴紐がほどけていたが、結び直す余力などない。

 立ち止まった私の眼前の景色から、色がなくなっていく。音も消えていく。

 めまいが起こる前兆だ。



 私のタイムスリップは、めまいから引き起こされた。

 以前タイムスリップを経験したトシ君は、未来に行ったときも帰ってきたときも、激しくむせ返ったという。

 それを私のタイムスリップに当てはめると、最初のめまいが過去への入口で、二回目が出口ということになる。

 つまり、タイムスリップ先であるこの昭和46年の世界で私がめまいを起こすと、元の令和3年に戻るという仕組みだ。


 遠のく意識に、私は懸命に対抗する。今このタイミングで、ここから去るわけにはいかない。

 光が薄れ、モノクロになりつつある風景に抗うよう、必死に目を見開く。心臓の激しい鼓動しか認識しなくなった聴覚を叩き起こすように、耳を澄ますことに集中する。


 帰るのはもう少しあとでいい。二人の再会を見届けてからにしたい。そうじゃなきゃ安心できない。手を取り合う二人の姿が確認できればそれでいい。私はそのために、ここへ来たはずなのだから。

 訳も分からずに、たった一人でおじいちゃんを援護してくれているであろうトシ君にも、申し訳が立たない。このまま私がいなくなって、一番迷惑を被るのはトシ君だ。

 おじいちゃんを守るということは、仲間内の取り決めに対する造反行為に他ならない。裏切り者への仕打ちを考えると恐ろしくなる。

早く行ってあげないと、トシ君の身が心配だ。

 トシ君への説明義務が私にはある。それよりも、私からの突拍子もない指令を遂行してくれたことに対するお礼をすることのほうが大切だ。

 そう、だから今はもう暫くこの昭和46年に留まっていなければならない。


 その思いとは裏腹に、立っていることすら怪しくなってきた。視界は強い濃霧が立ち込めたかのように薄れていく。膝から崩れ落ちながら、宙に浮かぶかのようにふわりと体が軽くなる感覚。

 それが最後の瞬間だった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 神社の敷地内に私は横たわっていた。心地よい眠りから目覚める感覚で瞼を開いた。

 ゆっくりと上体を起こし、腕についた砂を払い落とす。太陽は雲に隠れているが、息苦しくなるような不快な湿気が襲う。

 リュックからマイボトルを取り出すと、一気にお茶を喉に流し込んだ。落ち着きを取り戻すと、スマホのホーム画面を覗いた。

 13時56分の時計表示の横にある通信電波のアンテナは正常な受信値を示している。カレンダーアプリを恐る恐るタップしてみる。


 2021年(令和3年)


 右足の靴紐を結び直して立ち上がる。かつての隆盛の面影を残すことのない、静かな蟹江町本町通りが佇んでいる。


 戻ってきた安堵感よりも、戻ってきてしまった後悔の念が何倍も上回った。

 悔し涙というのが、こんなにもしょっぱいものだということを、私は初めて知った。

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