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宮家(1)

高輪プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル高輪)の貴賓館として活用されているのが、1911年、1万1千坪の敷地に竣工した竹田宮邸。

最近、竹田恒泰さんという作家・憲法学者を知ったのですが、その方がなんと竹田宮家の末裔だっていうじゃないですか。恒泰さんはオイラが憧れる貴種ではありますが、以下、敬称なしでまいりますので、お許しを。

https://note.com/gashin_syoutan/n/ne6707d01c435

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竹田宮家は明治後期に、北白川宮(きたしらかわのみや)能久(よしひさ)親王(しんのう)と側室の間に生まれた第1王子、恒久王により大正期に創設された宮家。そして、1908年に恒久王と結婚したのが、明治天皇の第六皇女・昌子内親王(まさこないしんのう)。

2代目当主にあたる恒徳王(よしつねおう)は三条公輝公爵の女子・光子と結婚、3男2女を設けています。現在、竹田家当主となっているのは恒正。その弟(次男)が恒治で、三男が恒和。今日の記事のタイトルにもなった恒泰の父親である恒和は、以前、日本オリンピック委員会会長を務めていました。


つまり、恒泰明治天皇の玄孫(やしゃご)で、まごうかたなき貴種ってこと。ただ、お父さんが先代の三男ですから、宮家が復活してもその仲間にはなれませんけどね(笑)。

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次は、能久親王と伏見宮北白川宮について。

皇族が増えすぎるのを防ぐため、賜姓降下(しせいこうか)が一般的でしたが、室町時代以後は出家(入寺得度)する親王が増えます。つまり、親王が寺院に入って門主となるのです。これが、宮門跡(みやもんぜき)

また、宮門跡から皇親(こうしん)に戻ることを還俗(げんぞく)と言います。江戸時代には伏見宮邦頼(くにより)親王や邦家(くにいえ)親王が還俗して宮家を継承しています。明治維新前後に還俗した親王の多くは伏見宮邦家親王の王子たち。

聖護院に入寺得度していた信仁(しんにん)親王は維新後に還俗して照光院宮智成(さとなり)親王となり、北白川宮の初代となります。二代目は幕臣にかつがれ会津のミカド、あるいは東武皇帝とされる案まで出された公現(こうげん)親王=能久親王。

能久親王は伏見宮邦家親王の第9男子。北白川宮初代の智成親王は能久親王の弟。幕府とのつながりは、能久親王が三代将軍家光の時代に創建された寛永寺輪王寺門主として迎えられたのが発端。だから、一時、輪王寺公現と呼ばれていました。新政府軍が東征をはじめると、幕臣たちは公現親王=能久親王を立てて官軍と戦おうとしたのでした。

ちなみに北白川宮家邸宅は、戦後、高輪プリンス会館として使用されていましたが、現在は取り壊されてしまっていて存在しません。そして、伏見宮家の邸宅はホテルニューオータニの場所にありました。

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まとめです。

伏見宮(南北朝~) ⇒ 北白川宮(明治~) ⇒ 竹田宮(大正~)


この能久親王の血を引いている恒泰さんですから、歯に衣着せぬ物言いもわかりますよね(笑)。それにどう転んでも皇位継承権が発生する可能性はないのですから(失礼)、自由ですし。オイラと波長が合うと言っては失礼でしょうか(笑)。

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