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ローレンス・シルバーマン(3) — 痴と知 —

今日はエープリルフールの日。

」は意外にも、「書痴」のように「物事に執着して夢中になる」という意味で使われることがあります。でも、イの一番に頭に浮かぶのは「頭の働きがにぶい、思慮分別が足りない、ぬけている、おろか」。

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「小論文を学ぶ」の188ページから。

教育がなくとも人間は生存できる。あるいは事実の認知活動をすることはできる。しかし、いかに事実の認知活動があっても、活動の自己認識がなければ自分がシステム上でどのように振る舞うべきかは永遠にわからない。従って、自己認識に盲目的な個人は、複雑な現実の中で迷子になってしまうし、とくにシステムの攪乱要因にもなりうる。・・・・
従来のように、安直な「良い子を育てましょう」式の教育論では通用しない複雑な現実が、いまわれわれに教育問題を緊急で重要な問題として登場させている。・・・・
求められているのは、個と全体とがどういう関係になっているのか、そのシステム論的理解をとりあえずすべての人に確実に把握させることである。これからの教育に求められているのは、個々人の力の大きさを実感させながら、多様な選択の中で一人ひとりが積極的に公共性を構築してゆく自己統治能力を養うことである。それは決まりきった知識を教えることではなく、つねにシステムの中での自己のあり方を模索する能力を身につけさせることなののである。・・・・
教育の問題はいつの時代にも国家の重要な関心事であった。プラトンも紀元前4世紀のポリス社会の中で、「たった一つの大きなこと」として教育の重要性を強調しており、教育がよければ国家は好循環に入って繁栄するが、それが堕落すると国家は悪循環におちいり滅亡すると言っている。プラトンの「国家論」が、単なる権力論ではなくーーー一種の教育論ーーー魂の理想論ーーーにもなっているのは、そういう点からである。いかにして良い人間をつくるか、それがプラトンの最大の関心事であったといっていいが、それはプラトンの時代だけでなく、あらゆる時代に通用する「国家百年の計」であもある。・・・・・
現在の状況は、単なる変革期の混乱の域をこえて、決定的な崩壊への序曲のようにも感じられる。・・・・自分が何者か、自分たちがどういう歴史を歩んできてこれからどういう歴史を刻むべきかといった人格形成にとって最も中核的な部分が、何ら教えられることなくすっぽりと抜け落ちているという印象である。・・・・国民全体から基礎教養が欠落しつつあり、社会から公共心が失われつつあることは明らかである。・・・・
教育を間違えると国家は滅びるとはプラトン以来の普遍的法則であるが、そうだとすれば、現在の日本の教育を考えるに当たっても、それを単なる子育て論として論じるのではなく気宇壮大な国家論として捉え直さなければならない。・・・「教養」をたんなる「知識」の意味と勘違いしている人がいるが、教養は知識と同じ意味ではない。
教養とは「心の耕作」(cultura animi)ーーキケロのことばーーであり、ドイツ語ではBildung(人格形成)という。知識(knowledge、独 Kenntnis)は単に「知っていること」を表す概念だが、教養はそうした断片的な知識ではなく、intelligence の意味に近い統合化された知を意味している。

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一般的には国会議員もマスコミも高学歴の人が多い職種に分類されるようですが、教育の結果はどのようなものになっているのでしょう。

一人の議員を見て、すべての議員がダメだというつもりは毛頭ありませんのであしからず(笑)。

3月10日の参院の予算委員会で起こった事件です。公式な答弁でないとは言え、ボリュームをあげたら聞こえるのですから、言ったことは疑いのない事実!!! この事実を指摘されたことに対して、ご本人、名誉棄損で訴えると息巻いているというのですから、笑止千万。この上から目線、一体どんな痴性をしてるのでしょう(笑)。

こちらは、ツイート。

それに対するツイッターの反応。

本物の「国会侮辱」で懲戒決議もんだろよ。「役人のせいにすればいい」ともいってるしさ!!!
ウソでもいいから口頭で言ったって役所のせいにすればいいって
国会で質問してる議員にささやいたのをマイクに拾われたんか。市役所とかに怒鳴り込むモンスタークレーマーみたいだな。
与党なら議員生命終わってるぞ
なんでこんなに優遇されるんだ

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「小論文を学ぶ」の158ページ~。

さて、現在日本の政治状況を概観すると、こうした意味での大衆が支配するマス・デモクラシーの社会であることがわかる。それはまさにリベラル・デモクラシーが実現し、個人の自由が最大限認められていると同時に、平等意識もすこぶる高い社会である。・・・・
ただ、その一方で、マス・デモクラシーそのものに対する不満も確実に存在している。国民全体に広がった、とにかく何でもかんでも自由」と「平等」を求めたがる姿勢ーーー学校における徹底した平等教育をはじめとして、社会一般にみられる過度の自由尊重の姿勢ーーーは、いまや極限状態にあるといっていい。少々抽象的な言い方をすれば、社会全体から倫理観が欠如し、社会のアノミー化つまり無規範化が進み、個人の精神からもモラルが喪失しつつある。いわゆるジコチュー(自己中)人間が量産され、自分が自己中であることすら認識できない社会体制になっている。
学校でも「自分を大切に」などと訴え、あたかも自分が世界歴史の主人公であるかのごとき観念を刷り込み、社会的規範よりも主観的承認を重視するようになっている。上は政治家から下は小学生までひとしくジコチュー(自己中)人間ばかりとなり、人々は政治に対する不信感ばかりでなく社会全体に対する不信感まで募らせている。こうした現代の民主主義がもつ病的特徴について、古代ギリシアの哲学者プラトンは二千年以上の時間を超えてそれを見越したように言う。
この民主制国家のあり方とは、いかなるものであろうか?・・・まず第一に、この人々は自由であり、またこの国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこでは何でも思い通りのことを行うことが放任されている・・・。
しかるに、そのような放任のある所では、人それぞれがそれぞれの気にいるような、自分なりの生活の仕方を設計することになるのは明らかだ。・・・・・とくにずば抜けた素質をもつ者でもない限り、早く子どものときから立派で美しいことのなかで遊び、すべて立派で美しい仕事に励むのでなければ、決して優れた人物とはなれないだろう、と。
すべてこうした配慮を、この国制は何とまあ高邁なおおらかさで、足元に踏みにじってくれることか。ここでは、国事に乗り出して政治活動をする者が、どのような仕事と生き方をしていた人であろうと、そんなことは一向に気に留められず、ただ大衆に好意を持っていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ。
では、以上のような点や、またその他これに類するいろいろの性格をもっているのが、民主制というものだ。それはどうやら、快く、無政府的で、多彩な国制であり、等しいものにも等しくないものにも同じように一種の平等を与える国制だ、ということになるようだね。[・・・・]・・・
若者は、必要な快楽に劣らず不必要な快楽のために、金と労力と時間を費やしながら生きてゆくことになるだろう・・・・ただし真実の言論(理)だけは、決して受け入れず、城の見張り所へ通すこともしないーーーかりに誰かが彼に向かって、ある快楽は立派で良い欲望からもたらされるものであるが、・・・・。そういうすべての場合に彼は、首を横に振って、あらゆる快楽は同じような資格のものであり、どれもみな平等に尊重しなければならないと、こう主張するのだ。・・・・・ある時はすべてを放擲(ほうてき)しひたすら怠け、・・・・という風に。
しばしばまた彼は国の政治に参加し、壇に駆け上がって、たまたま思いついたことを言ったり行ったりする。時によって軍人たちをうらやましく思うと、そちらの方へ動かされるし、商人たちがうらやましくなれば、今度はそのほうへむかってゆく。こうして彼の生活には、秩序もなければ必然性もない。しかし彼はこのような生活を、快く、自由、で幸福な生活と呼んで、一生涯この生き方を守り続けるのだ。・・・・・
他方、息子は父親に似た人間となり、両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちも持たなくなる。自由であるためにね。そして居留民は市民と、市民は居留民と、平等化されて同じような人間となり、外人もまた同様だということになる。そういうことのほか、次のようなちょっとした状況も見られるようになる。すなわち、このような状態のなかでは、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育係の者に対しても同様の態度をとる。
一般に、若者たちは年長者と対等にふるまって、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分をあわせ、面白くない人間だとか権威主義者だとか言われないために、若者たちを真似て機知や冗談でいっぱいの人間となる。
[・・・]すべてこうしたことが集積された結果として、どのような効果がもたらされるか分かるかねーーーつまり、国民の魂はすっかり柔らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢が出来ないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律さえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人公をも、自分の上にいただくまいとしてね。(プラトン「国家」第8巻、藤沢令夫訳)
これが紀元前に書かれた文章であると誰が思うだろうか。まさに現在の日本の姿そのものといっていい。大衆民主制自由と平等を同時に追い求めることや、そこから派生する少年がすぐに「キレる」ことまでも、プラトンは先刻お見通しである。
こうしたプラトンの民主制批判に一種のシンパシー(共感)を感じてしまうわれわれは、すでに相当に民主制(デモクラシー)の病的性格に気づいているとともに民主制(デモクラシー)という政治体制に対する不満を託(かこ)っていると言っていいだろう。結局のところマス・デモクラシーは、個人の自由と平等を過度に尊重したことによって恣意放縦怠惰忍耐の欠如といった望ましくない効果を生み出してしまったと認定せざるを得ないだろう。
一人ひとりを大切にすることは善いことだとしても、一人ひとりの人間がそれぞれ独立に世界の主人公であるかのような錯覚が蔓延することによって、社会全体とみると、きわめていびつな社会が形成されてしまったと言わざるを得ない。したがって、ここからわかるのは、どうやら民主制国家にとっての致命的な欠陥は一人ひとりの独立性という点にあるということである。あたかもパーティション(間仕切り)で仕切られたあかのようにそれぞれの個人がバラバラに(原子的に)勝手なことを考え出すと、社会全体としてはとてつもなくグロテスクな社会が形成されるということである。

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「知は力なり」と言ったのはフランシスコ・ベーコン。「自然から得られる経験的な知識は自然を支配する力につながる」というのが、ベーコン主義。自然はわれわれによって支配され利用されるべき存在だという、人間の傲慢な権力意識が、その正体なんですけどね。

小西発言の場合は、まさに「は力なり」。大衆はわれわれによって支配され利用されるべき存在だという傲慢な権力意識のジコチューかと。

真実の言論(理)は、決して受け入れずウソを奨励する人が高学歴の議員ってことは、日本の教育が恣意放縦怠惰忍耐の欠如した人の拡大再生産に加担するだけのモノだったってこと? これじゃ、エープリルフールからエープリルを抜いた、ただのフール。

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議会制民主主義を冒涜する、この重大な事実を報道しないマス・メディアはプラトンを知らないのか、はたまた、19世紀の世界にいるのか、さて、どっち?

105ページ。

ところで、情報はそれを担う情報主体がなければならない。情報は交換されてはじめて価値をもつからである。また、交換を実現する情報主体は、量的にも情報の一定の価値を形成できるだけの量でなければならない。情報を担うそうした情報主体はひとつの社会(あるいは市場)を形成していなければならない。それは言語という情報がいかなる場合においても社会的にしか成立しないのと同様である(私的言語は存在しないということ)。だが、情報を担う社会は、情報の意味付けや価値づけについて一定の合意(コンセンサス)をもっていなければならない。情報の意味づけや価値づけについての合意がない社会は、たんなる混乱した情報や記号の海にすぎないからである。一定の価値感や世界観をもった安定した社会は、一定の情報の意味づけ、すなわち交換のルールをもった社会である。こうした社会は、その意味で理解の共同体を備えている。もちろん、なにも同じ情報をみなが共有している必要はない。しかし、何が価値ある情報か、何が意味ある交換かと言う、情報社会に関する前提的なルールは共有されていなければならない。それがここでいう理解の共同性である。それはあたかも一つの言語を有する言語共同体においては、みなが同じ話をしている必要はないが、同一の言語ルールを備えている必要はあるというのと同じことである。かくして、情報というものが存在し、それが有意味なものとして社会的に機能するかぎりにおいて、そこには情報を支える理解共同体が存在しなければならないということはおわかりだろう。こうした理解共同体の特性を認識することは非常に重要なことである。というのも、どんな情報にせよ、それが意味あるものであるかぎり、そこにはすでに共同体が存在してなければならないという考え方は、言語の意味がどのように成立するかや、ブーム(流行)なるものがどのように起こるかや、人間の価値観というものがどのように形成さるかや、あるいは科学的真理がどのように人々に信じられるか、等々、広く人間社会のできごと一般を深く理解するために必要不可欠だからである。人間はおよそ自分たちに理解できるかぎりのことしか理解しない。そのことを別の表現で表現すると、人間は理解共同体の内部でしか情報を理解しない、ということである。このことを人間が強く意識しだしたのは20世紀になってからなのだが、---逆にいえば 19世紀までは、まだ理解共同体を超越した “普遍的真理”なるものが存在すると考えていた• • • • 。

112ページ

大衆はいつの時代でも目先のことしか考えず、目先のおもしろさにひかれて風見鶏のようにその時どきの風の方向に頭を向けるからである。とするならば、サイバースペース上で大衆受けのする“おもしろい” 情報が覇権を獲得することになる。そしてーーーここが重要な点だがーーー、大衆が「おもしろい」と思う情報は、得てして欲望と妄想の発現であるということである。たとえば、金儲け情報とかセックス情報とか単なるデマ情報などなど。あるいはまた、普通の価値観をひっくり返すような特殊な情報ーーーたとえば「ナチスによるユダヤ人虐殺はなかった」とか「テロリズムのすすめ」といった情報ーーーなどでも、それなりに人々の注意をひくことになろう。こうした、大衆に欲望と妄想を刷り込み、大衆の妄想を喚起させるような情報が、ネットワーク社会ではふせぎようもなく多数出現することになる。脱中心化された社会というのは、いままでの中心化された権威がもはや存在しないために、どんな危険性のある情報でも確固たる市民権をもって存在しうるのである。ここで「危険な情報に気をつけろ」などというのは、少なくとも意識レベルの話としてはただの空文句にすぎないといっていい。大衆の意識は確実にそういう情報に吸い寄せられていくからである。インターネット時代とは、こうした危険性に満ちた時代である。そんことを非常に強く意識しておく必要がある。どんなにつまらない思想や危険な思想の持ち主でも公共空間に情報を発信することができ、またそれを受け手は価値ある情報と同列に受け取るのである。インターネット時代になって、国籍や性別や年齢や障害の有無などが無意味化して一方では非常に好ましい環境が整いつつあるが、裏を返せば欲望と妄想の危険性が急速に増大しているのである。後に述べるが、これが現代の「教育問題」の重要性と緊急性の在処である。いまほど一人ひとりの良識や倫理観が問われる時代はないといっていいのである。

大衆に欲望と妄想を刷り込み、大衆の妄動を喚起させるような情報(痴)は流すが、価値ある情報(知)はスルーするマス・メディアのあり方は正しいの? いえいえ、正しい訳がありません。マス・メディアには、何が価値ある情報か、何が意味ある交換かと言う、情報社会に関する前提的なルールを国民と共有する努力を求めたいものです。

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世界観も人生観も持ち合わせておらず、単なる専門知とあり合わせの雑学しか持っていない者が教師になったり官僚や政治家になったりマスコミに従事したりすることがそもそもの間違いである。アメリカに見習う必要はないが、そろそろ日本もそうした根本的な問題性を認識して、本来の教養教育を教育全体のなかで構築してゆく努力をしなければならないのである。(・・・「や政治家」はオイラが付け加えちゃいました(笑))

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今回は、自分がシステム上でどのように振る舞うべきかもわからず、システムの攪乱要因にしかなっていない自己認識に盲目的で「痴性あふれる議員」のご紹介。そして、大衆に欲望と妄想を刷り込み、大衆の妄動を喚起させるような情報(痴)は流すが、価値ある情報(知)はスルーするマス・メディアに触れました。

「痴」と「知」の 「チ」ガイが、わかる教育が求められているようですね。


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