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新潟ゲーセン回顧録④(新潟市編その2)

 新潟ゲーセン回顧録第4回。
 前回からだいぶ間が空いてしまいました…
 2000年代半ば頃、新潟市周辺に存在したゲームセンターを紹介します。

※前回記事はこちら。
新潟ゲーセン回顧録③(新潟市編その1)|Enjoy!上越! (note.com)

 新潟市内の大学を卒業した後、そのまま新潟市内で就職した私。
 社会人になってゲームは卒業。
 …なんてことはなく、自由にお金が使えるようになった私は、毎夜、ゲーセンに通うことになるのでした。


1 新潟ポピー

 かつて新潟刑務所隣にあったゲームセンター。
 店内でトラブルを起こしたら、警官がやってきて即刑務所行き!…という噂がまことしやかにささやかれていたゲーセンでもあります。
 当時はバーチャファイター4の聖地?的なお店で、週末になると県内だけでなく県外からも遠征者が集まり、熱のこもった対戦会が行われていました。友人から聞いた話によると、遠征者はゲームセンターの事務室で炊いたご飯を食べ、そのまま店内に泊まっていたとか…。本当かどうかはわかりません。 

2 ラッキー

 2023/12/30現在、弁天ICの近くにある餃子の王将の前に営業していたゲームセンター。当時の私のホームです。

 当時、バーチャロンとサイキックフォースと弾幕シューティングを足して3で割ったような「旋光の輪舞」というゲームがリリースされており、私はかなり入れ込んでいました。リリ・レヴィナスは俺の嫁。
 決して大人気ゲームというわけではなく、プレイ人口も少ないマイナーゲームだったので、対戦相手を探し求めて道場破りのように1件ずつゲーセンを訪れていた時、たどり着いたのがこのラッキーです。

 ラッキーにはこのドマイナーゲームをやり込んでいる剛の者が奇跡的に5人程度おり、常時誰かがプレイしているため、対戦相手に事欠かない貴重なゲーセンでした。もちろん面識のないプレイヤー同士ですが、まるでスタンド遣いとスタンド遣いが惹かれ合うように、(ゲーム内で)拳で語り合った私達は、すぐに意気投合し仲良くなりました。
 閉店時間の夜中の0時まで何枚も100円玉をつぎ込み、勝った負けたの熱いバトルを繰り広げ、閉店後は1時過ぎまで駐車場で円になってゲーム談義。帰ると夜中の2時で、翌朝8時には出勤。今思い返すとアホな生活をしていたと思いますが、楽しい毎日でした。
 毎日対戦が盛り上がっているラッキーの噂をネット上で聞きつけて、週末の夜には、上越や中越からもわざわざ遠征者が集まります。そうすると、ラッキーで0時まで対戦した後、24時間営業の黒崎メジャーロードに全員で移動し、戦いの宴は朝日が昇るまで続くのでした。

 ちなみにラッキーは他のゲームも盛り上がっていて、特にストⅢのプレイヤーで賑わっていたように思います。毎日たくさんの人で盛り上がっていたにもかかわらず、その後しばらくして閉店してしまいました。
 きっとビデオゲーム主体のゲームセンターというビジネスモデルが限界に来ていたのでしょうね。いかにも個人経営のゲームセンターという感じで、経営者の家族とおぼしきおじいちゃん店員が朝から晩まで勤務していて、夜になると奥の事務室のソファで眠っている様子がよく見られました。今思うと、人件費を極限まで切り詰めていたのではないかと思います。

3 パロ三条

 2023/12/30現在、国道17号線沿いのコメリ三条店の横にあるダイソーの場所で営業していたゲームセンター。新潟市ではなく三条市のゲーセンですね。
 ここの凄いところは、50円ゲーセンだったんです!通常1プレイ100円のビデオゲームが半額の50円ですよ?ただでさえ薄利なのに…。ファミリー向けのクレーンゲームやプリクラは通常の料金なので、そちらで何とか売り上げを稼いでいたのでしょう。 
 前述のラッキーを拠点に、当時腕を磨いていたゲーム「旋光の輪舞」。このゲームは中越地方にも熱心なプレイヤーが多くいて、彼らが拠点としていた場所がこのパロ三条でした。また、ここでは定期的に「旋光の輪舞」の大会も開催されており、私を含む下越勢は車に乗り合わせて、毎月三条に足を運んでいた記憶があります。大会で優勝した時はとても嬉しかったですね。

 どうでもいいのですが、私(男)は見るからに人畜無害な見た目なので、変な人に絡まれやすいです…ここで閉店までゲームした後、店内で別のゲームをしていた見知らぬ年配のおじさんから「君、名前何ていうの?」「今度2人で遊ばない?」と聞かれて、ダッシュで逃げたことがあります。現代のSNSと同様、不特定多数の人が集まるゲームセンターは、危険な場所でもありました。

おわりに

 新潟ゲーセン回顧録として①~④の4回に分けてお送りしてきました。
 新潟県内のゲームセンターは他にも様々なところに行ったのですが、当時の様子を記述できる程に思い入れのある場所は限られてきますので、この辺でお開きにしたいと思います。

 ゲームセンターの思い出を文章にして初めて実感したのですが、誰かと一緒に行ったり、一緒に遊んだりした思い出は、今も強烈に記憶に残っています。反対に、一人で遊んだ思い出は記憶が曖昧です。
 当時は、自分がゲームが好きだから、ゲーセンに足繁く通っているものだと信じて疑いませんでしたが、改めて振り返ってみると、人との繋がりを期待してゲーセンに向かっていたように思われます。
 やはり、ゲームセンターは古い時代のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だったと思うのです。二つの違いは現実の場での交流か、ネット上での交流か。また、ゲームを媒介とするか否かの違いでしかありません。

 つまり、ゲーセンでの楽しい思い出は、それすなわちゲーセンで一緒に遊んでくれた友人達がいたからこそ。特に本当の名前も知らない、連絡先も知らない数多くのゲーセン仲間達。もう長いこと会っていない、今後会うこともできないであろう彼らに対し、届かないとは思うけど、ありがとうと伝えたい。

 

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