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ご当地アイドルを応援しづらい理由から考察する新潟の地域性

 ご当地アイドルのライブを見に行ったことをきっかけに、アイドルのライブの楽しさに感動し、それと同時にアイドルへの応援しづらさを産む原因について、新潟という土地の地域性も踏まえながら考えてみました。


1 新潟のアイドルの魅力

 令和5年10月15日、新潟市のお祭り「古町どんどん」に行ってきました。40年以上続いているお祭りで、出店や大道芸人のパフォーマンスに加え、たくさんの音楽ライブが行われるのが特色です。

 音楽ライブでは、新潟のご当地アイドルが3組登場し、一組あたり30分以上のステージが観覧無料という大盤振る舞い。

 しかも新潟のご当地アイドルは楽曲もパフォーマンスもハイレベル!簡単に紹介すると以下のとおりです。

Negicco:
キャリア20年。全国区の知名度を誇り、メンバーが結婚・出産しても変わらずファンに愛され続けるという、もはやレジェンド級ご当地アイドル。

RYUTist:
キャリア12年。名だたるポップ職人が手掛けた音楽好きも唸らせる楽曲が目白推し。妥協のない練習による卓越したステージパフォーマンス。

courtesea:
昨年結成されたばかりのNegiccoとRYUTistの妹分。中学生メンバーが中心の若いグループだが、ステージを重ねる毎に急成長中の注目株。

 と、偉そうに紹介してみましたが、実は私自身、ちゃんとライブを見るのは今回が初めてで、『観覧無料で3組も見れてラッキー!』という、正直軽い気分で見に行ったのです。

 ほとんど人生初のアイドルのライブでしたが、3組続けて観覧し、いまだかつてない衝撃を受けました。
 "アイドルのライブってこんなに楽しいんだ!"って。

 NegiccoやRYUTistには、私の好きなアーティストが楽曲を提供しているので、これまでもCDやサブスクでいくつか彼女たちの歌を聴いたことがあり、いい歌だなと思った曲も多数ありました。

 しかし、耳で聴く歌では得られない楽しさが、彼女たちのステージにはありました。ダンス、笑顔、MC、そして各メンバーの個性。音楽データを耳で聴くときは、言ってみれば一次元の楽しさですが、それがステージ上では四次元にも五次元にもなります。

 通常の音楽バンドにも、MCが面白いバンドはありますが、必ずしもダンスや笑顔があるわけではありません。バンドにおけるメンバーの個性は主に演奏する楽器や役割の違いとして認識されていたりします。

 しかしアイドルはメンバー達が同じように歌い、踊るからこそ、各人が個性をアピールする必要があり、そのことが、グループとしてのアイドルではなく、個々人のキャラクターを掘り下げ、一人一人のアイドルに惹きつけられることが、アイドル独特の魅力であると実感しました。

2 アイドルのファン層

 通常のミュージシャンとは異なる、アイドル独自の魅力にすっかりハマってしまった私は、またライブを見に行きたいなと思いました。周りの観客を見渡すと、みないい顔をしています。きっと私と同じ気持ちなのでしょう。

 しかし、周囲の観客を見渡して、少し違和感を覚えました。
 NegiccoやRYUTistは知名度も高く、たくさんの常連ファンもついており、ライブ会場となった古町5番通りは数えきれない程の人で埋め尽くされています。

 ただ、全体的にファンの年齢層が高めなのです。
 もちろんNegiccoは20年も活動しているので、デビュー当時から聴き続けているファンが相応の年齢になっていることも一因だと思いますが、RYUTistや、昨年結成されたcourteseaにおいても同様の傾向があります。

 特にアイドルに近い年代の若者が少ないように感じます。
 一部の熱狂的なファンを除き、ほぼ若者の姿が見えません。なぜ若者が少ないのか。若者がアイドルを応援しづらい何か特有の原因があるのではないか。気になってしまったので、原因を考察してみたいと思います。

3 アイドルへの応援しづらさ

 私なりに考えてみた結果、アイドルの応援への障害となるのは、アイドル特有の理由による応援しづらさと、さらに『ご当地』アイドル特有の理由による応援しづらさがあるのではないかと考えました。

 この記事を読んでいる皆さんも、これまでの人生の中で、お気に入りのアイドルがいるのではないかと思います。その時(もしくは今)に、
 「私は〇〇のファンだ!」
 と、人目を憚らず公言できたでしょうか?

 当時の気持ちを思い返しながら読み進めてください。
 ※以下、男性目線で見た女性アイドルという前提です。

(1)異性のアイドルを応援することへの気恥ずかしさ

 10代の頃の私が、公然とアイドルを応援することができたか?
 改めて振り返ると、非常に難しいと言わざるを得ません。

 特に10代前半における一番のハードルは、思春期による異性に対する過剰な意識です。あまりに意識しすぎるあまり、どんなにパフォーマンスが素晴らしくても、歌が上手くても、もちろんビジュアルが好みだとしても、アイドルのファンであるという情報を開示することは困難になります。

 例えば、この時期においては、アイドルのファンであることを公言することで、周囲から、からかわれてしまうというリスクが懸念されます。
 「あいつ、アイドルの〇〇が好きなんだって~」
 って言われるやつですね。

 このからかいが成立してしまうのは、あるアイドルのファンであるという情報を示すことによって、自分の好きな異性の情報を示すことにつながるからではないかと考えます。アイドルの〇〇が好き→〇〇のような人が好き→このクラスでいうと〇〇に似てる△△のことが好きなのでは…
 と言ったふうに。
 
 このため、過剰に異性を意識してしまい、かつ小クラス授業が中心の高校生までの間は、異性のアイドルを応援することが難しいと推測します。 

(2)見た目がかわいいアイドルを応援することへの気恥ずかしさ

 過剰に異性を意識する思春期を乗り越えても、アイドルを応援することへの気恥ずかしさは残り続けます。
 それはなぜか。
 アイドルはかわいいから。そのかわいさは女性らしさの発出であり、アイドルのファンになるということは、かわいい女性を好きになるということに他ならないからだと思うのです。

 …なんだかすごく当たり前の事を言ったようですが、これは男女問わず、かわいい人、カッコいい人というだけでは、人を好きになりたくないという想いを誰しもが抱くからだと思います。
 その根底にあるのは、人の外見だけを見て、誰かの虜になってしまう軽薄な人間になりたくないというプライドであり、さらに言えば、軽薄な人間だと他者から思われてしまうことへの恐れ、恥ずかしさではないでしょうか。

 この恥ずかしさを乗り越えるためには、アイドルに対し、かわいさ以外の魅力を見出すことが必要になります。
 例えば歌が上手い、ダンスが上手い、話が面白い、特技があるとか。
 かわいいだけじゃない、このアイドルはここが凄いんだ!と言えるポイントを見出すことができれば、胸を張って応援できるようになるでしょう。

 ただ、そういったポイントを見出すためには、一歩踏み出してアイドルを知ろうとする、つまりはアイドルの歌を聞いたり、ライブを見に行ったりすることが必要というジレンマがあります。
 新規ファンをいかに取り込んでいくかというプロモーションが、アイドルにとっても所属事務所にとっても、きっと頭を悩ませる部分なのだと思います。

(3)人気者のアイドルを応援することへの気恥ずかしさ

 アイドルといえば人気者です。
 実際には、駆け出しのアイドルでまだ多くのファンがついていない場合もありますが、世間一般が持つアイドルのイメージとしては「ファンが多く、誰からも好かれている」という印象が強いのではないでしょうか。

 このイメージが、アイドルへの応援のしづらさにつながる可能性があります。人気者やみんなが好むものへの反発。流行に乗りたくない。自分は一般人とは違う。まだ自分の価値観が確立できていない時期は、大衆の趣向に対し、とりあえず逆張りしがちです。

 アイドル=大衆の好みの象徴。
 アイドルを応援している人=周りに流されやすい人=自分の意志を持っていない恥ずかしい人。という意識に陥ってしまうように思われます。実は逆張りする人も同じように自分の意志を持っていないのですが…

 特に私のような陰キャは、逆張りによって他者との同質化を拒むことによってしか自己を肯定できない時期があります。逆張りが良いか悪いかはとりあえず置いておいて、人の成長過程において、自分と相いれないタイプの人間や集団に対し、何らかの理屈をつけて否定し、反発することは、生きるために必要なことなのでしょう。 

(4)アイドルオタと一緒に応援することへの気恥ずかしさ

 ・整えられていない長髪にハチマキと眼鏡
 ・背中にはパンパンのリュック(丸められたポスターがはみ出している)
 ・ジーンズにINしたプリントTシャツorチェックネルシャツ&スニーカー
 ・不潔・異臭・脂ギッシュ
 ・割り込み、ストーカーなどの迷惑行為

 ひと昔前のオタクのイメージです。
 …今考えると現実にこんな人ほとんどいないですよね。少なくとも現代ではほぼ絶滅しているはず。ですが、アイドルオタを含め、行き過ぎたオタクについて人々がイメージするところはそれほど変わっていないのではないでしょうか。

 こんなオタクだと思われたくない!という思いから、人はオタクであるというレッテルを貼られることを忌避し、その結果、公然と応援はせずに、心の中で推し続けているという行動をとりがちです。

4 ご当地アイドルへの応援のしづらさ

 以上、様々な応援しづらさがアイドルには存在しますが、いわゆるご当地アイドルにはさらなる試練が生じます。それが、地方(新潟)のアイドル・地域に根差したアイドル特有の応援しづらさです。以下では3点を紹介します。

(1)新潟県民の新潟への愛着の薄さ

 1つ目は『地元愛』という特性によるもの。
 ご当地アイドルは地域に根ざした活動を行い、地元を盛り上げることを目的に活動している場合があります。単にアイドルが好きな人だけでなく、地元が好きな人もファン層として取り込めますが、これが諸刃の剣になります。
 そもそも新潟に住む人は、新潟のことが好きなのか?

 周囲の人間に「新潟のいいところは何?」と聞くと、だいたいこんな反応が返ってきました。

 ・米と魚がおいしい!…でも観光名所みたいなのはないなあ。
 ・暮らしやすい!…でも全国一番とかではないなあ。
 ・自然が多い!…でもお店や遊ぶところは少ないなあ。
 ・いいところはたくさんあるんだけど、宣伝が上手くないんだよなあ。

 総括すると、『悪いところじゃないけれど、突出していいところがあるわけではない』という感想です。この感想はいろいろな受け止め方がありますが、私の感じることは次の2点です。

 a)「新潟のいいところ」が誰もが言えそうな「食材」「暮らし」「自然」としてマクロ的に集約され、自身の言葉として「新潟のいいところ」が語られていない。
 b)全国の観光名所等と比較して、新潟は劣っていると考えており、一番(誰もが価値を認めてくれる客観的な指標)でなければ、「新潟のいいところ」とまでは言えないと考えている。

 新潟は宣伝が下手とよく言われます。
 実際その通りなのですが、その原因は行政や観光業者がアピール不足というだけにとどまらず、個々人自らが具体的に新潟の良さを語っていないからだと思います。

 さらにその背景にあるのは、誰もが認めてくれる客観的な指標がなければ意見を言えない。逆に言えば個人の想いだけでは積極的に意見を言えなかったという雪国の歴史ではないでしょうか。

 雪に閉ざされた新潟、生きるために地域の連帯が必要不可欠だった新潟では、個人よりも集団の尊重が求められるが故に、自分の意見を表に出さないよう、自己主張はできるだけ控えて静かに生きることが求められてきました。

 多くの新潟に住む人は、なんとなく新潟を心地よく感じながらも、そのよさを具体的に、積極的に発信できないまま今日を迎えています。その結果、新潟のよさは新潟に住む人にすら伝わっていないという現状。だから、新潟に住む人であっても新潟への愛着が薄い人が多い。私はそのような印象を抱いています。
 
 アイドルの話に戻すと、ご当地アイドルの主要なファン層として、地元愛の強い人達もターゲットでになりうるはずなのに、新潟では地元愛が薄い人が多いことから「そんなに地元が好きじゃないし…」という理由で、なかなか見てもらえない、応援してもらえないという難しさがあると推測されます。

(2)地元の極端な卑下

 2つ目は、地元を極端に卑下するという地方の特性。
 新潟に限ったことではないですが、都会で作られたものに比べ、地方で作られたものはレベルが低い、質が悪いと思っている人がたくさんいます。
 アイドルについても同様で、地方のアイドルは2流だから、よりクオリティの高い都会のアイドルを応援すべきという空気が、以前は確実に存在しました。(この空気を覆したのがNegiccoだと思います。)

 もちろん、ビジネスなどにおいても、都会の豊富な人材と厳しい競争の中で、生き残って来た商品やサービスのクオリティは高いと思います。しかし、だからと言って地方の商品やサービスやクオリティが負けているかというと、決してそんなことはありません。地方は都会とは違った意味での苦境があり、その中で、活躍している人や会社は紛れもなく国内でも一流です。
 まして、数値や技術のみで優劣が決まるわけではない、芸能・文化的分野においては、都会のものが地方より常に優れていることはありえません。

 さらに情報化社会の急速な推進により、リモートワークを例に挙げるまでもなく、都会と地方の格差は縮まりつつあります。結局のところ、地方が都会に抱く劣等感は、過去の格差がもたらしていた憧れという偏見にしかすぎません。

 今年の流行語大賞の候補として、先日、野球の大谷翔平選手の言葉「憧れるのを、やめましょう」がノミネートされました。大谷選手はスター選手揃いのアメリカチームとの決戦前夜、チームメイトにこの言葉をかけましたが、この言葉は現代の地方に生きる全ての人にも言えると思います。 

(3)「調子こき」への冷淡さ

 3つ目は、地方特有の「調子こき」への冷淡さ。
 「調子こき」=「調子に乗る人」という言葉は、「得意になって勢い付き何かすること」という意味で、特に地方ではよく使われる言葉だと思います。

 私がこどもの頃は、いつもパッとしない子が、何かのきっかけで注目されたり、新しい事を始めた時に「あいつ調子こいてる」と、クラスの中心グループから揶揄されていました。
 
 私は、この「調子こき」という言葉が今でも大嫌いです。
 なぜかというと、この言葉が主に使われるシーンは、立場が強い者が弱い者を見下しているという前提の下、立場が弱い者が自分の地位を脅かさないように貶めるためのものだからです。

 そして、地方は「調子こき」に異様に厳しいです。今まで目立たなかった人が目立つこと、新しい事を始めること、外から来た人、いわゆる「よそもの」が何かをしようとすることに対し、容赦なく「調子こき」のレッテルを貼ります。これは単に意地悪ということではなく、コミュニティの維持が何よりも重視される地方では、現状を破壊しかねない異物をあらかじめ排除する必要があったのだと思います。
 私も日々目立たぬよう、後ろ指刺されぬよう、調子こいてると思われないように、息を殺してひっそりと暮らしています。

 ご当地アイドルは「調子こき」の典型例です。
 地方では数少ないアイドルになって、人前で踊り目立って、かわいさをアピールして、人気を集めて勢いづかなくてはならない。そんなご当地アイドル達に向けられる目は冷淡です。
 しかし、もはや閉ざされたコミュニティを維持するだけでは社会は縮小し続けていき、新しいものは生まれません。緩やかに消滅するのみです。そこに風穴を開けることができるのが、「調子こき」でありアイドルではないかと思うのです。

5 それでもご当地アイドルを応援する人達

 アイドルへの一般的な応援しづらさ。
 そしてご当地アイドル特有の応援しづらさ。
 ご当地アイドルを応援することは正に茨の道です。

 この応援しづらさを乗り越えられる人には2種類います。

 一つは年齢を重ねた人です。
 年齢を重ね、自身の価値観が確立していくと、他者の視線に揺らがなくなり、自分が好きだと感じたものを迷いなく推せるようになります。
 また、家庭を持ったり、アイドルとの年齢差が大きくになるにつれて、アイドルを異性として意識することは少なくなります。どちらかというと子供や孫の活躍を応援する気持ちに近いのかもしれません。
 加えて、年齢を重ねるにつれ、地元への郷愁が深まり、ふるさとを愛するようになるとともに、地元以外の土地を知ることで都会への憧れも霧散します。これによりご当地アイドルを応援しようという気持ちが高まるのではないでしょうか。

 ご当地アイドルを応援しているファンの多くは、このタイプのある程度年齢を重ねた人達だと思います。彼らのアイドルに向けられる視線は暖かく、応援のマナーもよい人が多いように感じます。しかし、熱量は足りません。

 もう一つは、ご当地アイドルと同世代またはより若い世代で、アイドルを文字通り偶像・理想として脇目も振らずに追いかけるような、熱いファンです。
 圧倒的少数ではありますが、確実に存在はしています。

 アイドルを応援するための様々なハードル、新潟特有のハードル、それらが降りかかったとしても、真正面から受け止め、時には悩みながら、跳ね返していけるような、そんな熱い人達。
 周囲の視線を気にして誰も応援してこなかった自分にとって、彼らは誰かを応援することの大切さを思い出させてくれた存在であり、取り戻したかった青春そのものでもあります。 

6 アイドルという存在

 ご当地アイドルには、様々な応援しづらさが存在しますが、もちろん一番大変なのはアイドル本人たちだと思います。
 前述した応援しづらさのため、固定ファンを得るためには、一朝一夕にはいきません。何年もかけて、粘り強く、地域に根差して活動し続けなければなりません。
 華やかなアイドルだからと言って、莫大な報酬をもらっているわけではありません。アイドルでない日は働いたり、学校に通ったり、普通の人として生活を送っている人もいると思います。日々の生活の隙間を縫って、ステージに立つための厳しい研鑽を積み、楽しい時も、つらい時も、観客に笑顔を届け続ける。それでも必ず報われるとは限らない。強い覚悟が必要です。そしてその覚悟はアイドルを始めるその時、早ければ10代前半には持っていなくてはならない。
 ましてやここは雪に閉ざされた街、新潟です。冷淡な視線もあるでしょう。東京のアイドルには敵わないという人もいるでしょう。調子こいてると影で囁かれることもあるでしょう。アイドルに降りしきる雪は決してやむことがありません。
 無責任かもしれませんが、それでも走り続けてほしいと思う。
 全てを跳ね返して輝くアイドルが、たくさんの人を惹きつけることができたなら、かつて塞ぎこんでいた自分も救ってくれるような気がするのです。

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