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2010年代最高の青春群像劇マンガ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い! 」

谷川ニコ先生のマンガ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」略して「わたモテ」は2010年代で最高の青春群像劇漫画だ。わたモテを読まないで2020年代を過ごすのは、もったいない人生を送ることになってしまう。未来にとって文化的な損失にもなる。だから是非ともわたモテを読んで欲しい。普段マンガ読まない人も、最初読んだけど途中で挫折した人も、ホントに読んで。ネタばれは最小限にするので、その想いを聞いてほしい。

2010代で最高だと言えるのか?

そもそもなぜ最高だと言えるか。わたモテの中でも神回といわれる卒業式回を含む12巻のamazonレビューを見てほしい。

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評価数が314もついていて95%が☆5つという驚異的な数字がついている。amazonの「100レビュー以上ついたコミック」高評価順のランキングでは堂々たる1位だ。エルヴィンの感動的な演説を含む「進撃の巨人20巻」(評価数190☆5率85%)、激闘だったキメラアント編のラストを含む「HUNTER X HUNTER 30巻」(評価数183☆5率82%)など他の傑作を凌いでの結果だ。これはもう2010年代で最高傑作と言えるだろう。

話の流れが最高

マンガやアニメをよく知る人は、わたモテを「ぼっちのJK喪女が高校リア充に憧れて悪戦苦闘する中二病日常モノ」(現代語訳:「ひとりぼっちでいるモテない女子高生が華のある高校生活に憧れて悪戦苦闘するも失敗続きで痛々しい自虐ドラマ」)と捉えているかもしれない。だから「ぼっちモノのどこに青春群像劇要素が?」と思うことだろう。

これはアニメ化の影響だと思う。アニメ化したは主人公が高1の間までの話。アニメが終了した後の高2の2学期中盤、修学旅行編から作品が転換しだすのだ。劇的な大転換というわけではなく丁寧な滑らかな変化。ジェットコースターが「ガコンッ」という音とともにゆっくり登り始めたかのように、修学旅行から友情のネットワークが構築されていく緊張感が徐々に高まっていく。アニメ化したぼっち時代はジェットコースターに乗り込むまでの時間に過ぎない。

どういうことか。作品の流れは以下ようになっている。

編成

高校1年:1巻~5巻。アニメ化したのはここ。主人公は友達が他の高校に1人のみで、孤独にもがき苦しむ姿に心が抉られる負の共感者が多い。また、漫画ネタ・ゲームネタ・エロネタが散りばめられおり読む人を選ぶ。しかしながら、その描写がリアルかつセンスが良かったからこそ、業界内で評価高くアニメ化したと言える。

高校2年1学期~2学期中盤:5~8巻。少しずつではあるが話す人物が増えてはいく。だが基本的路線は変わらない。むしろその進展にはマンネリ感すら感じるかもしれない。だが、この苦行をなんとか乗り越えて欲しい。ジェットコースターの興奮には退屈な行列がつきものなのだ。

高校2年2学期中盤~3学期:8~12巻。修学旅行の後半から関わって話す人が急激に増え始める。スクールカースト底辺の仲間に入れない者たちから始まり、クラスのリア充まで、徐々に関係が増えていく。その変化の急激さを感じさせない丁寧な人物描写・関係描写は本当に素晴らしい。サブカルネタの俗的な主人公の言動はそのままながら、セリフの「…」(3点リーダ)、微妙な視線・表情・仕草、光と影の当たり方、などで登場人物たちの心情を表現しだすのだ。前述の感動的神回の卒業式回もこの時期。ついにジェットコースターが激しく動き出すのだ。

高校3年1学期~
:12巻~。高校3年のクラス替えで同クラスのサブキャラがメインキャラになる、友達の友達が現れる、後輩ができる、などにより関係性がさらに増え、いつのまにか青春群像劇の構図ができあがる。主人公とだけでなく登場人物同士の関係性や心の葛藤・成長などが色濃く表現される群像劇なのだ。さらには友情を超え少女同士で関係を独占をしたがる百合的要素も強くなっていく。心情描写手法も、登場人物の立ち位置・座り位置、セリフの「てにをは」、目の光のあるなし、など高度な巧みさが加わる。ジェットコースターが爆発的に加速していく、この先どうなるんだ!?

見てもらえば分かる通り表紙カバーの人物数の変化も顕著である。

「じゃあ8巻から読めばいいじゃん」と思うかもしれない。そこは踏み止まって最初の1巻から読んでほしい。作者の谷川ニコ先生の心理表現の描写は巧みだが、ストーリー構成も巧みなのだ。暗黒期の孤独な出来事が、友情が眩しい時期への見事な伏線になっており、ストーリーの明暗コントラストが最高なのだ。同時に、マンガにありがちな「大嫌い or 大好き」みたいなデジタルな心情表現ではなく、登場人物も判断に当惑する緩やかなグラデーションのようなアナログな心情の変化も最高なのである。だから最初の1巻から読んで欲しい。

間接的な表現が最高

もう一つ最高なのが、先にも述べたように間接的な心情表現だ。

最初からの作品の体面は、サブカルチャーなネタをたくさん盛り込んだり自虐ギャグだったり大衆文学的である。しかし修学旅行以降、直接的に書かない心理描写をする純文学的な奥面が見えてくる。直接的に言動や思考を述べるモノローグが表面にあるが、間接的に表現する心情が裏面にある感じである。この複数レイヤーからなる表現により、作品に深みを与える結果となっている。読み手の想像力に委ねられる読み味が最高なのだ。

間接的な表現は前述の、セリフの「…」や「てにをは」、立ち位置や座り位置、視線や目の光、僅かな表情の変化や仕草、などの手法がよく使われる。

作品を読んでほしいのでネタばれは最小限にしたいが、オチや伏線回収部分でないところで具体例を示したい。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い! 10巻 喪97より
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右上1コマ目、右側の地味なロングスカートが主人公の黒木で、左のポップなツインテールが根元である。このシーンは、オタク文化とは縁がないリア充グループに属する根元は密かに声優を目指しているが、黒木が昼休みにリア充グループと話をするときにアニメの話を振り、会話がギクシャクした後の放課後のシーンである。

みんなの前では陽気なキャラクターとして振る舞う根元にとって、アニメのことは隠したい闇の部分なので、表には出したくはない。それを表現したのが3コマ目、重苦しい影に立つ根元だ。そして4コマ目、いつもの根元として軽やかに挨拶し陽の当たる方へ去る。物理的な明暗で心理的な光と闇を表現する手法は最高ではないだろうか。
ちなみに、根元は1巻のころはコマの隅っこにたまに登場するモブキャラだった。メインキャラまで徐々に登っていくストーリー構成の素晴らしさも合わせて感じてほしい。

もう一つの例。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い! 10巻 喪98より
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右上1コマ目、左側が主人公の黒木より1つ上の3年である清楚で人望の厚い生徒会長、右側のプリン頭がクラスメイトのヤンキーの吉田である。このシーンは、黒木が冬の雨にも関わらず傘を忘れ学校の玄関に佇んでいたところ、吉田が相合傘で駅まで送ることを提案するもヤンキー特有の高圧的なセリフと表情により黒木は萎縮して絡まれたような構図になっているところに、生徒会長が来て誠実に仲裁し、3人で帰ることになった後に、黒木だけコンビニに入って2人きりになったシーンである。

主人公とヤンキーが仲の良いことを完全に理解した生徒会長、仲の良いことを否定するヤンキーという出だしだ。おそらくヤンキーは照れで否定したわけでなく、本人も気づいていなかった。生徒会長は、ヤンキーの肩が主人公が濡れないようにしたことにより濡れていることなどで、関係を客観的に見れていた。だからこそ、2コマ目の否定を受け流した「雨ちょっと弱くなったかな」である。そして、それを感じ取るヤンキーの「……………」だ。生徒会長の認識は5コマ目の「私『』嘘をついちゃったけど」の『』で強調される。「てにをは」による表現手法だ。

わたモテではこの「……」が非常に意味を持っている。4コマ目の「…」も同様だ。その意味はヤンキーの攻撃的ではない表情から推測できる。実は、生徒会長は3巻から登場しており、ぼっちでいる主人公のことをずっと気にかけていた。3年の冬であり卒業も近い。だから、帰るのとは反対方向だけど主人公に付いていく。でも仲の良い友だちと認識でき、安心して去ることができる。それが4コマ目で表現したい内容と思われる。深い意味のあるコマなのだ。

8巻以降にはこういった純文学が如くの間接的表現に溢れている。他にも色々な表現手法があるし、私が見逃しているメッセージもきっとある。この全てが伝えられないがゆえに想像が果てしなく広がる感じが最高なのだ。

終わりに

これからの2020年代、マンガにはこういった間接的な表現が広まって欲しいと思っている。小説だと読み飛ばすのが難しいので間接的な表現が押し付けっぽくなりがちだし、アニメだと速度を変え難いので自分のペースで深く味わいにくい。だからこそ、間接的な表現はマンガの独自の強みだ。さらに言えば、わたモテのように娯楽的に読むのを好むタイプと文学的な描写を好むタイプの両方の層が楽しめる作品だとなおさら最高だ。来たるべき未来はそういう優しさがあるべきなのだ。

だからこそ「わたモテ」を読んでほしい。
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