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K-108 ブルータス胸像

石膏像サイズ: H.83×W.71×D.33cm(原作サイズ)
制作年代  : 1540年頃
収蔵美術館 : フィレンツェ・バルッジェロ美術館
作者    : ミケランジェロ・ボナローティ(Michelangelo Buonarroti 1475-1564)

ミケランジェロがブルータスの胸像を製作したのは、1540年頃、だいたい60歳頃だったとされています。ミケランジェロのそれまでの作品を辿ってみると、ごく初期の若い時代(古代ギリシャをテーマとした、バッカスなどを作っていますが・・)を除いては、そのテーマは一貫してキリスト教の世界観に忠実に沿ったものがほとんどです。ピエタ像、ダビデ像、モーゼ像、システィーナの天井画などは旧約、新約の違いこそあれ、キリスト教の範疇にあるものばかりです。ミケランジェロ自身も根本的には敬虔なキリスト教徒でした。それがなぜ老境に入ろうかという年齢の時に、唐突に古代ローマ時代の政治家の彫像を作ることになったのか?

シーザー暗殺事件が起こったのは紀元44年ですので、キリスト教とはまったく関係ないテーマです。古代ローマの政治体制は長らく共和制の体裁を維持し続けていたわけですが、そこから独裁制へと一歩踏み出したのがシーザーです。ブルータスを首謀者とした反対勢力によってシーザーは暗殺されますが、結局は皇帝が支配する帝政ローマの政治体制へと移ってゆきました。

この独裁体制に”待った!”をかけたブルータスの彫像を製作したミケランジェロは、自分の意思だけでこのようなテーマを選んだわけではありません。当時の芸術家にとって、作品制作の一番の動機づけはパトロンからの”注文”でした。それは、すでに当代随一の芸術家としての地位を不動のものにしていたミケランジェロも例外ではなく、教皇、メディチ家などのパトロンからの要望に応える形で作品を制作していました。このブルータス像の場合は、フィレンツェの”共和制支持者”であったリドルフィ枢機卿という人物からの注文に応じて、1540年に製作にとりかかりました。

ルネサンスが花開いた15世紀末~16世紀初頭のフィレンツェは、華やかな芸術分野の成果とは対照的に、政治的には二転三転を繰り返しました。メディチ家支配、その後の共和制、さらに君主制のメディチ公国へ。メディチ家の独裁国家となった1532年以降は、それまでの共和制支持者(メディチ家と対立する勢力)はことごとくフィレンツェを追放され、前述のリドルフィ枢機卿もそんな追放貴族の一人でローマへ亡命している身だったのです。

彼は、古代ローマで独裁者となったカエサルを暗殺した共和制支持者のブルータスに、自身の境遇を重ねてこの彫像を発注したのです。しかしその後は共和政支持者達の勢力は次第に弱まり、ミケランジェロが多忙であったこと(システィーナの”最後の審判”、ユリウス二世霊廟など)もあって、このブルータス像は頭部のみが製作されて未完となります。胴体部分のほとんどは、ミケランジェロの助手であったティベリオ・カルカーニ(1532-65)によって補足されたとされています。

未完成でローマに放置された作品は、結局はメディチ家により買い上げられて、フィレンツェへと運ばれることとなりました。現在はフィレンツェのバルッジェロ美術館に収蔵されているブルータス像ですが、メジチ家によって取り付けられたラテン語の銘文にはこう書かれています。「彫刻家が大理石からこの像を彫り出していたとき、彼はブルータスの犯罪を思い起こして、彫るのをやめてしまった」。ミケランジェロが未完で放置したことを、積極的に自分達に都合よく解釈してこんな一文を加えたのです。

当のミケランジェロの気持ちは、比較的明快です。かれは終生”共和制”を愛し、キリスト教の信仰を重んじていました。独裁者としてフィレンツェに君臨したメディチ家のためにブルータス像を未完のまま放置したわけではないのです。ミケランジェロの後半生は、”共和制”と”メディチ家”との間での板挟みの歴史です。ミケランジェロの内心は明らかな共和制支持者であるにもかかわらず、共和制を否定し独裁支配者(イル・マニィフィコの時代も含めて)となっていったメジチ家が最大のパトロンだったのですから。

(写真はWikimedia commonsより)


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