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K-169 老人の像(詩人ベニビエーニ)

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石膏像サイズ: H.49×W.23×D.27cm(原作サイズ)
制作年代  : 1860年
収蔵美術館 : ルーブル美術館
作者    : ジョバンニ・バスティアニーニ(Giovanni Bastianini 1830~1868)

この彫像の作者は、19世紀半ばに活躍したジョバンニ・バスティニアーニ(Giovanni Bastianini 1830-1868)という彫刻家です。そしてモデルとなっているのは、15世紀末のフィレンツェの詩人ジローラモ・ベニビエーニ(Girolamo Benivieni 1453~1542年)という人物。

オリジナル作品はテラコッタ製で、パリのルーブル美術館に収蔵されています。かつてこの石膏像には「ルカ・デッラ・ロッビーア作」という情報が付加されていましたが、それは誤りでした。

ロッビーアは、15世紀ルネサンス期のフィレンツェで活躍した彫刻家一族で、独特の釉薬を用いた美しいテラコッタ彫像で有名です。彫像のモデルとなった詩人ベニビエーニがサボナローラ登場時のフィレンツェの人物であることを考えれば、肖像彫刻の作者がルネサンス期の人物であろうと考えるのは自然なことのように思えます。ところが実際には、この彫像の作者は19世紀中頃の人物でした。

作者のバスティアニーニは、1830年フィレンツエ近郊のフィエーゾレの石工の一族の子として生まれました。貧しかったバスティアニーニは、美術教育を受けるような環境ではありませんでしたが、10代になると彫刻家に弟子入りしフィレンツェで石工としてのキャリアをスタートさせます。一介の石工にすぎなかったバスティアニーニですが、1848年にフィレンツェの美術商のジョバンニ・フレッパ(Giovanni Freppa)という人物に見出されます。フレッパは、バスティアニーニの彫刻の腕を高く評価し、作業場と俸給を保障する代わりに、フレッパの要望に沿った作品を製作するように依頼し契約を結びました(1866年まで、この関係は続いた)。

バスティアニーニは、38歳という若さで亡くなっていますので、彼の作品の多くはこのフレッパとの契約関係の下で制作されたものです。フレッパは、バスティアニーニに対して、ドナテルロ、ヴェロッキオ、ロッビーアなどのルネサンスの巨匠のスタイルを模倣した彫刻を製作させ、当時の美術愛好家達へ販売しました。19世紀半ばというのは、他のヨーロッパ諸国の貴族・知識階級がグランド・ツアーと称して、こぞってイタリア半島を訪れていた時代です。そういった旅行者達は自国への手土産として古代ギリシャ・ローマの古代遺物や、ルネサンス作品を欲しがりました。バスティアニーニの作品は、そういった”需要”に見事に応えていたというわけです。

端的に言ってしまえば、これは”贋作”作りです。ルネサンス作品(例えば、ミケランジェロの作品など・・)をそっくりコピーしたのなら、だれの目にもコピー品だと分かります。でも制作のスタイル、様々なテクニック、作品のテーマなどでルネサンスの巨匠を模倣しつつ、まったくの新作を製作するということだと、その作品は過去の巨匠達の”新発見の名作!”とみなされる可能性がある、つまり贋作ということになってしまいます。実際にバスティアニーニ作品を購入した顧客たちは、”限りなくグレーだけど、良い買い物をしたかも”という気持ちだったのではないでしょうか。

1860年代になると、バスティアニーニの制作した「サヴォナローラ像」が、フィレンツェの高名な美術商によって”発掘”され、国家によって買い上げられる事態となり、フレッパとバスティアニーニはさらなる”贋作”作りに邁進してゆきます。そのような状況下で製作されたのが、今回の石膏像である「詩人ベニビエーニの胸像」なのです。フレッパは、サヴォナローラと同時代を生き、その思想に共鳴した詩人であったベニビエーニの肖像彫刻の制作をバスティアニーニに依頼します。バスティアニーニは、19世紀に制作されたベニビエーニの肖像版画と、近隣のタバコ工場の労働者をモデルにして(!)、この詩人ベニビエーニの肖像彫刻を製作しました。

経年変化を感じさせるような着色まで施され、「ルネサンス作品」としてパリのオークションに出品されたベニビエーニ像は、鑑定家たちから「ベロッキオの工房の作品」と持てはやされ、13600フランという当時としては破格の値段でルーブル美術館が購入したのです(ちなみに、この価格はフランスがトルコから”ミロのヴィーナス”を購入した値段よりも高額だったそうです。もっともヴィーナスの購入は、政治的な駆け引き込みでの値段でしたので、単純に比較はできないでしょうけど)。その後も作品自体の真贋はまったく疑われることもなかったのですが、報酬の配分に不満を持ったフレッパが結局は”贋作”であることを暴露してしまいました。

結果的にルーブル美術館の面目は丸つぶれとなってしまったわけですが、このスキャンダルが発覚した後もバスティアニーニ作品を購入したオーナーのほとんどは手元にある作品を高く評価していたといいます。それはバスティアニーニの作品が、単なる”贋作”の域を超えた素晴らしい出来栄えだったからでしょう。

その後のバスティアニーニへの評価は、”贋作家”という側面よりは”新ルネサンス様式の彫刻家”という見方がなされているようです。ルネサンスの巨匠たちからのインスピレーション・テクニックを受け継ぎ、歴史上の人物の肖像彫刻を製作した彫刻家・・・。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館は、1864年に”ルネサンスに影響を受けた現代的な作品”という認識でバスティアニーニ作品を追加で購入していますし、パリのジャック・マール・アンドレ美術館、ワシントン・ナショナルギャラリー、フィレンツェの近代美術館などには、現在でもバスティアニーニ作品が収蔵・展示されているそうです。バスティアニーニは、今回の石膏像のような”新ルネサンス様式”の作品だけでなく、自身の生きた19世紀に支配的だった”ロマン主義”的な作品も残しています。

この石膏像「老人の像」のモデルとなった”詩人ベニビエーニ”とは、16世紀初頭にフィレンツェで活躍したジローラモ・ベニビエーニ(Giroramo Benivieni 1453-1542)のことです。ミケランジェロを見出し、フィレンツェにおける盛期ルネサンスをもたらした偉大な為政者”豪華王=ロレンツォ・デ・メディチ”が擁護していた人文主義者サークルの一員として詩作をおこなっていたようです。その後1490年以降に出現したサヴォナ・ローラ(メディチ家支配下にあったフィレンツェで、社会の腐敗を説いた修道僧。神聖政治を行うも、失脚し火あぶりの刑となる)に強い影響を受け、過去の詩作を捨て去ってしまいます。サヴォナ・ローラの思想に心酔したベニビエーニは、その教えをラテン語からイタリア語に翻訳したりしました。サヴォナ・ローラの失脚後、フィレンツェは共和制→メディチ支配→共和制→メディチ支配・・・というようにコロコロと政治体制が変化していきましたが、このベニビエーニはサヴォナ・ローラの思想を伝える者として双方(共和制&メディチ)の政治体制から助言を請われるような存在だったようです。金融・商業によってもたらされた富を背景に、きらびやかなルネサンス文化が花ひらいていた15世紀末のフィレンツェでは、一方でサヴォナ・ローラの説く、清貧で信仰を重視した思想に共感する人々は多かったようです。ミケランジェロ、ボッディチェリなどはこのサヴォナ・ローラとの出会いを契機に作風がガラッと変わってしまいました。ボッデイチェリは、「ヴィーナス誕生」「春」などと同時代に描いた多くの作品を、サヴォナ・ローラの行った「虚栄の焼却」に提出してしまい、それらはみな焼かれてしまったということです。

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ギルランダイオ工房作 1510年頃 「ジローラモ・ベニビエーニの肖像」 ロンドン・ナショナルギャラリー収蔵 (写真はWikimedia commonsより)


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