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N-014 サモトラケのニケ(大)

石膏像サイズ: H.105×W.57×D.60cm(縮小像)
制作年代  : 紀元前190年頃
収蔵美術館 : パリ・ルーブル美術館
出土地・年 : ギリシャ・サモトラケ島 1863~91年

ギリシャ北東部、東マケドニアのトラキア沖合にあるサモトラケ島から出土した勝利の女神像です。古代ギリシャ・ヘレニズム期のオリジナル大理石像で、ルーブル美術館の「ダリュの階段」の踊り場に展示され、美術館を象徴する重要な展示物となっています。

①ニケ像の発掘


トルコ・ハドリアノポリス(現在のエディネル)のフランス副領事代理だったシャルル・シャンポワゾ(Charles Champoiseau)は、考古学愛好家であり、パリの帝国美術館の収蔵品充実のために古代遺物を探し求めていました。

1863年4月、サモトラケ島の遺跡を調査していたシャンポワゾは、大きな女神像の断片・部品を発見します。頭部と腕については発見できませんでしたが、衣や羽根の断片が多数出土し、彫像と断片は1864年ルーブル美術館に到着しました。

研究者たちが慎重に修復作業を行い、1866年に体の主要部分の塊が「カリアティードの間」に展示されました(この時点では、両羽根・船の先端の形をした台座部分は欠いている)。その後、1875年にシャンポワゾが女神像を発掘したのと同じ遺跡をオーストリアの考古学派遣隊が調査したところ、シャンポワゾが回収せずに現地に残してきた大理石の塊を正しく組み合わせることで、船の先端の形をした女神像の台座部分が復元できることが判明しました(シャンポワゾは、彫像とは色が異なる灰色の巨大な大理石群を、別の墓の一部と勘違いした)。1879年に、シャンポワゾはこの事実を知り、それら台座部分となる灰色の大理石群をパリへと輸送させました。ルーブル美術館の中庭で行われた組み立て作業の結果、それらの大理石群がニケ像の台座であることが証明されました。

(ルーブル美術館中庭での組み立て作業)

その後、台座を含めた形での復元作業が進められ、1866年の時点では除外されていた右胸部分を本体に接合し、欠損していた左胸部分・乳房下の帯の部分については石膏で補足されました。複数の断片になっていた左の翼は、裏面・後方を金属で補強して復元し、右の翼については左翼を型取りして反転した石膏製のものを取り付けました(右翼は断片が2個だけ発見されている)。

このようにして現在我々が鑑賞するのとほぼ同じ形態に整えられたニケ像は、1884年、完成したばかりの「ダリュの階段」の中心部分に設置されました。その後1950年になって、ニケ像の右手部分(親指、薬指以外は消失)がサモトラケ島で発見され、現在はニケ像の脇のケース内に展示されています。


②製作者・年代


制作年については、古代ギリシャ・ヘレニズム期の紀元前190年頃とするのが定説となっています。風にはためき、体に纏わりつくような衣文の表現はヘレニズム的なものですし、劇的で力強い表現形式は、紀元前180年頃に製作されたペルガモン大祭壇(ベルリン美術館収蔵)の帯状レリーフ彫刻との類似性も指摘されており、同一の作者とする説もあります。

ニケ像は、船の舳先に立つ姿で神殿に奉納されたものであるため、何らかの海戦での勝利を記念したモニュメントとする説が有力です。サモトラケ島が位置する地中海東方では、紀元前221年のマケドニア王フィリッポス5世の即位後から海戦の回数が急増しており(紀元前189年頃に収束に向かった)、その年代の何らかの海戦での勝利を祝して奉納された彫像ではないかとも考えられています。

彫像の根幹部分が複数の大理石のパーツを組み合わせて成立していることもヘレニズム期の作品としての特徴です。ニケ像の胴体部分は、乳房の下から足までの部分と、乳房から頭部までの部分が別々の大理石から掘り出され接合されています。こういった手法は、小アジア、ドデカネス諸島、キュクラデス諸島などで行われていた技巧とされており、彫像が製作された場所を示唆する手掛かりとなります。

船の形をした台座・土台については、灰色の縞模様が入った大理石の性質からロードス島で製作されたものであるとされています。ただしパロス産の白大理石を使用したニケ像自体がロードス島由来のものであるかはよく分かっていません。

ニケ像を海戦でのロードス島の大勝利と関連づけるとするならば、ミオンニオスの海戦、またはシリアのアンティオコス3世の船団に対する紀元前190年頃の勝利を記念して奉納されたものではないかと推定されています。他には、大プリニウス(古代ローマの歴史家)の記述からロードス島で活動した彫刻家ピトクリトスの作とする説や、デロス島・サモトラケ島を聖域として伝統的に守ってきたアンティゴノス朝(アレキサンダー大王後のマケドニアで発生した王朝 B.C.306-168)のアンティゴノス2世ゴナタスが、B.C.250年頃のプトレマイオス2世に対しての戦勝の記念として奉納したとする説などが存在しています。

③彫像の本来の姿


サモトラケ島にはカベイロイ(kabeiroi)と呼ばれた密教的な神々への崇拝があり、秘儀的な祭式を行うための神域が形成されていました。ニケ像は、そういった神域の最も高い位置の場所に建てられた小さな建造物の中に設置されていました。ニケ像の繊細な布ひだの保存状態から判断して、この建造物には屋根があったものと推定されています。

(地図最下部のNo.9の神殿内にニケ像は設置されていた)


彫像は、建物正面から眺めた場合、左側の側面が良く見えるように斜めに設置されていたことが台座跡から判明しています。彫像の左側面の衣文が実に繊細に表現されているのに対して、右側面の表現が極端に簡略化されているのはそのためです。

彫像の土台部分は、まず厚さ36cmの板状の大理石が敷き詰められ、その上に船の舳先の形となるように巨大な大理石が組み立てられていました。舳先の部分は当時の典型的な戦艦の先頭部分を表しています。古代ギリシャ艦隊の最大の武器は、船の先端部分に設置された衝角(しょうかく)と呼ばれる鋭利な金属製の突起物で、これを敵戦艦の船腹に衝突させ撃沈するというのが勝利の王道でした。残念ながら、ルーブルのニケ像の台座ではこの衝角の部分は失われていますが、彫像の完成当初は存在したものと推定されています。さらにこの船の台座部分には、櫂(オール)を格納するための箱状の部分なども再現されています。

ニケ像の頭部と両腕については発掘されていません。右の腕の断片だけがわずかに発見されており、右腕の様子を推定する手掛かりとなっています。

女神像はキトンと呼ばれる薄い布のドレスをまとっており、腰のあたりで縛った帯を覆うように折り返した部分が垂れ下がっています。さらに左側の腰のあたりに掛かるような形でヒマティオンという厚い布のマントをまとっており、前方ではその裾が両足の間へと降りてゆき、後方では風にはためく形で大きな突起物として彫刻されています。右の肩と乳房が上がっていることから右腕が上がっていたことが想像できます。発見されている右腕の僅かの断片から、右腕が体から少し離れた場所で上方に上げられ、わずかに肘を曲げていたことが判明しています。

彫像の発見当初は、この右手にはトランペット、冠、帯などが握られていたと推定されていましたが、1950年に発見された彫像の右手によって、手の平は開いており、何も持っていず単なる挨拶をしていたことが判明しました。

(復元案のひとつ。トランペットを握っているという説は否定されている)

胴体とは別の大理石から彫刻されていた両足部分は現存しませんが、胴体側の痕跡からその様子を推定することができます。右足は船の甲板に乗せられ、左足は宙に浮いていたようです。ニケ像は歩いている様子を表していたのではなく、船の甲板にそっと舞い降りた瞬間だったのでしょう。頭部については正面を向いており、左腕は下方向に降ろしていたと考えられていますが、それらはまったくの仮説にすぎません。

④ニケ像とは


ニケ(Nike ローマ神話ではウィクトーリアVictoria)は古代ギリシャ神話に登場する勝利の女神です。ティタン族の血族パラスとステュクス(冥界の河)の子で、ゼウス(オリュンポス側)とティタン族(クロノス側)との争いの時にオリュンポス側に加担し、ゼウスに庇護される存在となりました。有翼の女性の姿で表され、アテナの随神とされています(パルテノン神殿の本尊のアテナ神像は、手の平にニケ像を載せていた)。勝利の知らせを広く伝達できるように翼を持ち、ときにはトランペット、冠などを携えてそのメッセージを伝えました。紀元前6世紀のアルカイック期からニケの彫像はたくさん作られており、時代の変遷とともに様々なスタイルの彫像が残されています。

ルーブル美術館収蔵 「サモトラケのニケ」 紀元前190年頃
(写真はWikimedia commonsより)


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