遅く起きたからって何だ

またやってしまった。

起きたら16時。こんなつもりではなかった。つい朝の8時までなにかに熱中してしまい、このまま起きていられるんじゃないか?という勘違いと共に寝落ち、そのまましっかり8時間寝て、昼夜逆転する。

そして、その日はなんだかそれがとても悔しく、恥ずかしく、何を持ってしても贖えないことだと感じて、とにかく起きる時間を早くしないといけない、さもなくば迷惑だ、と感じて、じゃあ何をしたかというと、すぐになにかに取り掛かるわけでもなく(そうするとまた朝方まで働いて昼に寝るようになることがわかっているので)、無理矢理にでも布団にこもって、実際の所それでどうなるかはわからないのだけれど、生活時間が戻ることを祈るのだ。しかし、結局の所「ただ怖くなって布団に潜り続けた」という事実だけが残り、さらなる居心地の悪さを感じるのだった。

こんなことは今に始まったわけではなく、もう何年もこんな調子で突然会社に行けなくなったりして迷惑をかけている。しかし、毎度思うのだが、別に遅く起きたからって、何が悪いんだろうか。

朝早く起きて、早く退社する人と

遅く起きて、遅く退社する人は、何が違うんだろうか。

もちろん、中には早く来ているのに自分より遅くまで仕事するような人もいて、そういうのはもう勘弁してほしいが、体力の次元が違うとそういう事も可能らしい。自分には無理だ。お疲れ様だ。

ただ、別に朝8時間仕事したって、夜8時間仕事したって、それは別に何も変わらないはずである。それはただ相対的にズレているだけで、優劣が与えられるのはおかしいのではないか?

とはいえ、仕事も一人でやるわけではないから、連絡が取れる時間に働いたほうが良い。その観点で、「みんなが働いている時間」に合わせることは一定の合理性がある。しかし、それだとしても、早めに就業して19時以降連絡がつかない人と、遅く始めるけど夜中まで仕事してる人と、どちらが連絡取りやすいか、それこそ人による。

それなのに、心情として、どうしても劣等感や焦りを感じてしまう。

遅く起きると、

「皆もうとっくに起きて真面目に仕事してるのに」

「早く挽回しないと」

「連絡が遅れたことを謝らないと」

といった感情に支配される。そして、場合によってはそれが恐怖になり、逆に現実から逃げ出そうとして、さらに遅れを深刻化させるのである。

しかし逆はどうだろうか。朝早く起きて仕事して、早く上がった人は、私が夜中ひたすら仕事をしている事に対して、そんな劣等感を感じることがあるのだろうか。なさそうである。私が夜中誰かに連絡しようとしたとして、それに答えられない人は、そこに責任を感じるだろうか。いや、ない。

だいたい、同じ単純労働を比べているわけでもなく、専門分野で仕事をしているのだから、単に早い・遅いで比べられるものでもない。私が何時にそれを実行しようが、他の誰にもできることでなければ、価値は変わらず存在している。

それなのにだ。遅く起きると劣等感を感じ、責められているように感じる(実際誰もそう思っていなくとも)。

なぜこの「違い」が「優劣」に感じられるのか。

それを今日、たまたま偶然早く起きることができた日に考えている。

この「早く起きることができた」という感覚も、暗に早起きを肯定していて嫌になる。気分が良いこと自体が嫌になる。なぜいつも(遅く起きる)は気分が悪くなくてはならないのか。遅くても気分が良くなれば良いのではないか。

「生活リズムを一定に」することは大切だと言われるが、それは暗黙に「早寝早起き」のリズムを保つという文脈で使われ、決して「朝8時に寝て16時に起きる生活」ならリズムが保てるとしても、それで「生活リズムが正しい」とは言われない。いやこれも私自身の偏見かもしれないが、しかし、そう感じてしまう。

単なる相対性が、「社会にあっている、あっていない」という尺度から、優劣に変わってしまう。

そう考えると自分はマイノリティなんだな、生きづらいんだな、と思う。

しかし、LGBTなどの「権利が認められるべき」マイノリティに対して、

夜型というのは、「権利が認められるべき」とすら、思われているだろうか。というのは、冗談も含めてよく言っているが、誰も真面目に

「企業の役員の夜型比率が実世界の夜型比率に近づくようにしよう」などとは言ってくれない。そういう奴らが自分と違う時間で生きているから、自分は生きづらいんだが。

あぁ。誰か夜に開店するパン屋を開いてくれないか。夜型の街を作ってくれないか。そして自分を、暗い中でも「おはようございます」と、気さくに受け入れてくれないか。

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