アナキズム、脱構成、ユートピア――学祭トークイベント先行公開資料①

 10月27日(金)14時から、東北大学川内キャンパスC402教室にて「学生に賃金を」をテーマにトークイベントを行ないます。アナキズム研究者でアナキストの栗原康氏とフランス文学者の白石嘉治氏をイベントにお招きし、われわれ学生と議論を交わしていただきます。詳細はこちら

 以下は、そのトークイベントのために作成した資料です。当日、栗原・白石両氏とどのような議論を行ないたいかという指針を示しておく目的で先行公開します。読み上げ原稿みたいになってしまいましたが、あくまで指針です。イベント当日、ご来場の方々には印刷した資料を配布する予定です。資料はのちのち加筆修正する可能性があります。

アナキズム、脱構成、ユートピア

 栗原・白石両氏をお呼びすることにしたのは、まず何よりもお二方それぞれが『学生に賃金を』『不純なる教養』などの著作で「大学」について論じており、その問題意識が「大学をどのように改革すべきか」というような「政策」論に収まらない射程を有していると考えるからですが、同時にわれわれは両氏の社会問題・社会運動に対する考え方自体に注目してもいます。「大学」については次回公開資料でまとめることとし、今回は「アナキズム」「脱構成」という言葉から両氏の思考をわれわれなりにまとめることにします。


無根拠な生の躍動――アナキズム

  • アナキズムと一口に言っても、実際にはいろいろあります。アナキズムは「無政府主義」と訳されることも多く、しばしば「国家の廃絶を目指す立場」と解されます。実際それが最大公約数的な定義と言えるのかもしれませんが、しかしそもそもアナキズムという言葉が様々な文脈で用いられてきたことを踏まえても、アナキズムを簡単に定義することはできません。

  • 栗原氏はその「いろいろ」を、そしてその「いろいろ」を超えて従来「アナキズム」と呼ばれていなかったものをも、「アナキズム」という表現で捉え返していくわけですが、ここで確認すべきは栗原氏が「アナキズム」という言葉で何を表現しようとしているのかです。

    • つまり、ここでは「栗原氏のアナキズムはその名に値するか」とか「真のアナキズムとは何か」ということは検討しません。ただ、栗原氏が「アナキズム」という言葉を使うのには必然性があります。

  • 栗原氏は「アナキズム」という言葉の由来から「アナキズム」を捉えます。

[…]ことばの意味をひろっていくと、アナキズムというのは、ギリシア語のanarchosからきていて、an(アン)っていう接頭語と、archê(アルケー)がくっついてできたものだ。アン、アルケーで、アナーキー。でね、このアンというのは「~がない」っていう意味で、アルケーというのは「支配」とか「統治」って意味なんだ。/だから、ていねいに訳していくと、「だれにもなんにも支配されないぞ」とか、「統治されないものになれ」ってのがアナーキーになる。

(栗原康『アナキズム』pp. 8-9)
  • そして、ここからが重要ですが、栗原氏はこの「アルケー」のもともとの意味に立ち戻り、そこからアナキズムという言葉を「根拠のないことをやる」こととして用います。

でもね、もうひとつ、あたまにいれておかなきゃいけないのは、このアルケーってのは、もともと哲学用語だったってことだ。「万物の始原」とか「根源的原理」とかね。かんたんにいってしまえば、「はじまり」とか「根拠」ってことになるだろうか。それがないってことだから、アナキズムってのは「はじまりのない生」を生きる」とか、「根拠のないことをやる」ってことになる。

(前掲書p. 9)
  • アナキズム運動とされるものであっても、それが「根拠」に依拠するものであれば、そこに権力に転化する可能性が内在しています。

    • 例えば、ある種のアナキズム思想は、「人間は本来的に共生する(ことができる)」ということを「根拠」に据えることで政府や国家の存在を批判しますが、権力を否定するために依拠されたその「根拠」ゆえに新たな権力となってしまう可能性があります。人々に「共生」するように強いる権力であり、「共生」できないモノ(人でなし)を排除する権力に転化しうるのです。

  • また、無支配状態や自治それ自体を「目的」とするようなアナキズムも、その目的の実現のための「支配」を正当化してしまうことになりかねず、単に「無支配」であればいいというのではなく、「無根拠」という点も重要だと栗原氏は述べます。(栗原康・白石嘉治『文明の恐怖に直面したときに読む本』p. 130)

  • そして、栗原氏が述べているのは、そのような「根拠」や「目的」なしでも人はつい体が動いてしまうのであり、それを肯定することが重要なのだということだと思います。「何をなすべきか」を指令するものがなくても、われわれはつねにすでに何かをしてしまっている。そして、それを否定するものこそが支配の論理であるのだ、と。

「表象」と「空間」の政治から逃れ出て――脱構成

  • 次に、栗原氏の著作『何ものにも縛られないための政治学』(以下、『何縛政治学』)や、栗原・白石両氏の対談の書き起こしである『文明の恐怖に直面したら読む本』(以下、『文明恐怖本』)で触れられている「脱構成」という言葉から、両氏が共有する問題意識・展望をみていこうと思います。

  • 白石氏は、国家の権力は「表象」にあると言います。多様であるはずの民衆を「民意」という形で一意的な存在に押し込めるのが、というか押し込めた気になってその「民意」で自らの統治を正当化するのが「表象」の権力です。実際には誰がどこにいて何を考えて何をしていて何を望んでいるかは多様であるわけですが、「表象」の権力は、誰がどこにいて何を考えて何をしていて何を望んでいるかを超越的に断定します。

白石 […]国家のロジックはつきつめると「表象」ということになります。記号の世界を構成するといってもいい。あるものがなにを意味するかはっきりわかっている。経済ならば「一物一価」というような世界。モノの値段がひとつひとつきまっていて、それで経済学が可能になる。おなじようにモノやヒトの意味がきまっていて、それで国家という組織がうごくようになる。/そうした国家の認知や実践のありかたにたいして、民衆はもうちょっといい加減です。かつてレヴィ=ストロースはそれを「ブリコラージュ」といったのだと思います。フランス語で「日曜大工」というような意味ですが、とりあえず手近なありあわせのものにで用をたしてしまう。国家にとってはひとつの意味しかないものに、いくつもの意味をみいだすのですから。

(『文明恐怖本』pp. 25-26)

白石 栗原さんは『執念深い貧乏性』のなかで、民衆に民意なんてないということをはっきりとのべています。たしかに民衆はいる、と。それは人民とよんでもいいかもしれない。民衆、人民、つまりピープルはいる、と。でもそのピープルに民意などというものはない。国家の権力は、そのないはずの民意をあたかもあるかのようにみせかけて、その民意をくみとるというかたちで発生する。しかも、そうした民意だけがあることになって、ピープルはいないことにされる。べつのいいかたをすれば、民意は「表象」にすぎない。でも民衆ないし人民は、自分が石うすであり、その石うすが武器であるような「ブリコラージュ」の累乗=力能を生きている。それを国家による「表象」の権力はとらえることができない。

(同pp. 27-28 )
  • 白石氏は引用した部分に続けて、リベラルは民衆をみようとせず、よりよい「民意」についてずっと語り続ける「表象のフェティシズム」にとどまっている、と指摘します。つまり、一方では自民党議員が「声なき声を聞く」といって、民衆の言い分を超越的に断定=捏造し、他方ではそれに対抗しようとするリベラルも、「民衆が本当に望んでいることはこういうことなんだ」と言って、民衆の多様性を抑圧しようとしているのです。両者は(もちろんこのような二項対立で説明されない政治的立場も、ですが)、自分たちが捏造した「根拠」であり「目的」であるところのものに民衆を従属させることで、民衆の多様性を抑圧しようとする点で通じています。

  • 「民意」の政治はよりよい「空間」設計をめぐる争いであるといってもいいでしょう。誰がどこにいて何を考えて何をしていて何を望んでいるかを超越的に判断し、その勝手な分析に基づいて、誰がどこにいるべきで何を考えるべきで何をするべきで何を望んでいるべきかを論じる。人々をそれぞれに「相応しい」場所に配置する。より適切な分析はどのようなものか、より「相応しい」配置はどのようなものか、と。

  • よりよい制度はよりよい支配にすぎない。そして、よりよい制度の実現のために支配が正当化される。あなたが望んでいる理想の「空間」は実はこのようなものです、あなたはそのためにこのようなことをしなければならないし、あのようなことはするべきではありません、と。そして、このような「空間」やその設計から逃れ出ていこうとする志向性こそ、「脱構成」と呼ばれるものです。

いまここにあるユートピア――ランダウアー

  • この「脱構成」に関わって、『何縛政治学』『文明恐怖本』では、グスタフ・ランダウアーというドイツのアナキストについて熱く論じられています(ほかに栗原氏の『アナキズム』でも)。このランダウアーをめぐる両氏の議論を通じて、「アナキズム」や「脱構成」と表現されるような契機についてもう少しみてみたいと思います。

  • ランダウアーは、設計された「空間」を「トポス」と呼び、その「トポス」のあいだに「ユートピア」が存在するといいます。そして、よりよい「空間=トポス」の設計を目指すのではなく、「ユートピア」について語ります。

  • ランダウアーにおいては「トポス」と「ユートピア」は交互に訪れるということですが、しかし、ランダウアー自身が「ここが新天地でないならどこにも新天地なんてない」と言うように、いまわれわれに対して「表象」の権力を行使している「トポス」と、そこから逃れ出る「ユートピア」は同時に存在しえないような性質のものではありません。現在の支配体制である「トポス」とその逸脱としての「ユートピア」は同時に存在するばかりか、一意的な「表象」の「トポス」を二重化するまさにその瞬間に、すでに「ユートピア」は生起していると言えます。

[…]ランダウアーはいうのだ。もうフランス革命を革命のモデルにするのはやめましょう。そもそも国家がなくなったあとじゃないと、ひとは自由になれないってのはどうなんでしょうと。むしろ、そういうことをいう人たちってのは、いまの国家のあとに、あたらしい理想社会みたいなのを想定していて、それだとけっきょく、どんなにキレイなことばで彩られていても、どんなに平等に設計されていても、その社会のなかで、あれはダメ、これはダメと、なにかしらの尺度がたってしまって、ひとはそれに強制される。あたらしい支配がうまれてしまうのだ。だから、そろそろ発想をきりかえてみませんか、ひとは国家にたたかいをいどんだその瞬間に、国家とたたかっているそのときに、すでに自由になっているんだ、それがいちばんだいじなことなんだと。

(『何縛政治学』pp. 298-299)
  • この一意的な「表象」からの逸脱に、歴史上の大アナキストのような覚悟は必ずしも必要ではない。そればかりか、われわれは意識的、そして多く無意識的に「表象」を裏切っている。ユートピアはつねにすでに存在しているのです。

    • 例えば、「空間=トポス」は「道路」に通行以外の意味を認めません。そこにおいて人はある場所からある場所へとスムーズに流れていかなければならない。その「道路」に目を引くビラを貼って流れを停滞させること、その「道路」でなんとなく立ち止まって流れであることを拒絶すること、これがすでに「空間=トポス」からの逸脱と言えます。そのような逸脱のシーンは絶えず生じています。それは意識的であったり無意識的であったりします。

    • それはいくらなんでも話をショボくしすぎだと思われるかもしれませんが、しかし「それはショボすぎる。政治的ではない」と言うこと自体が、何が政治的であるかを超越的に規定し、政治の可能性を縮減するところのものです。

  • 広く政治的係争事項とされることであっても、場面によっては、例えば議会政治などにおいては、「それは政治的に論じることではない」として棄却されることがあるでしょう。それと同じ抑圧の構造がさまざまなシーンで反復されているのです。それに抗おうとするのであれば、「道路」の流れを遮断してみせるその「ショボい」実践を「政治的ではない」と宣告することはできなくなるはずです。

  • くわえて重要なのは、多様な民衆の存在しない「民意」を汲む「表象」の政治が、〝誰が〟何をすることが政治的であるかについて超越的に規定することです。同じことをしていても、それを〝誰が〟担っているかによって、それが政治的であるかどうかが決まってしまう。この「序列」もまた、さまざまなシーンで反復されています。白石氏は『文明恐怖本』で「文明は会話と議論を区別して序列をもちこむ」と述べています。

白石 […たいていのことはカフェで話しあえば解決するというような考え方に対して、]「会話してるだけじゃ人間は生きていけない」みたいに批判するひともいるかもしれないけど、でも、偉いひとたちだってそうやってものごとを決めているはずです。安倍政権だって同じでしょう[『文明恐怖本』の出版は2018年]。偉いひと同士で酒飲んで、くっちゃべって。会話しかしていない。そういう会話を権威づけるものとして、代議制だとか、そういうさまざまな制度がある。[…]つまり、会話しているというそのことじたいはちがわないのに、あることがらをある身分のひとたちが話しあうと、それが大きな力をもつけれど、そうじゃないひとたちが話しあっても、大して力をもたない。その構造そのものが文明のからくりだと思う。
栗原 くっちゃべることに序列をつくっちゃうわけですね。
白石 そうそう。文明は会話と議論を区別して序列をもちこむ。

(『文明恐怖本』pp. 51-52)
  • 話をまとめると、「表象」の「空間=トポス」からの逸脱という「ユートピア」はつねにすでに存在し、その存在するユートピアは政治的ではないと宣告することが、国家の行使する抑圧の論理でる、ということです。よりよい「トポス」を目指す立場は、「それはあなたの真に望んでいるものではない。あなたは本当はこのようなトポスを望んでいる」と宣告することで、「ユートピア」を封殺しようとするわけです。「よりよくなれはクソくらえ」(栗原康)

  • 「それは政治的ではない」と宣告することを拒絶するのであれば、「すべてが政治である」ということにならないでしょうか。そう言われても困惑してしまうのではないでしょうか。では、われわれは結局何をなすべきなのか、と。しかし、なすべきことなどないのではないでしょうか。それは現状を認めよ、諦めよという意味ではありません。なすべきことがないとしても、われわれはついつい何かをやってしまう。それこそが栗原氏のいう「生の躍動」であり、それを肯定することが重要なのではないでしょうか。

まとめ

  • 栗原氏のアナキズムは「根拠のないことをやる」ことである。単に「無支配」を目指すのであれば、「無支配」を「根拠」づけるものや「無支配」という「目的」自体によって別の支配が生まれてしまう。「根拠」や「目的」を拒絶する必要がある。

  • 国家の権力は「表象」である。誰がどこにいて何を考えて何をしていて何を望んでいるかを超越的に判断し、その勝手な分析に基づいて、誰がどこにいるべきで何を考えるべきで何をするべきで何を望んでいるべきかを論じること自体が、民衆の多様性を抑圧している。この抑圧は国家に抗う言説の中でも反復されてしまっている。

  • 「脱構成」は、よりよい「民意」の分析=捏造とそれに基づいたよりよい「空間」設計=配置の追求とから逃れ出ていく。よりよい「空間」やその設計からの逸脱としての「ユートピア」はつねにすでに存在する。

(了)

配布資料一覧
①「アナキズム・脱構成・ユートピア」
「学生に賃金を」
「原子力体制」
「いまの大学を取り巻く問題の背景について」


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