ポテトの回



前髪を切り過ぎたけどあの頃と同じ味にはならないコーラ/布施 

あの頃 のコーラの「味」が主体にとって良いものだったのか/悪いものだったのかを探るところから、読みの枝分かれが始まりだす一首なんだろうなぁと思います。

(その前に、「前髪を切り過ぎた」今と「前髪を切り過ぎていた」昔 の自分とではコーラへの味覚も同じになるはずだ…という不思議な前提や理屈に振り落とされる読み手もいそうですけど、このくらいのジャンプは今けっこうなんなくされそうな感じもします)(心から)

「あの頃」の「あの」にへばりついてる情緒は、日常会話や和田アキ子の曲で聞かれるような「あの頃は」よかったなあ、の「あの」のせいで、よかったもの、として読む方が無理がないくらいには蓄積があるため「あの頃の味」は「あの頃の好きだった感じかたの味」として読みます。

(良かった or 悪かった から離れて、単に「昔飲んでたときに感じた味とは違う」「コーラの味」という中立(?)に立とうとしてみるも、「前髪を切り過ぎた」というバッドな出来事→「けど」という次に続くことがグッドなことでなければ「元がとれない」と考えそうな主体、が浮かぶ書き順がなかなかそうはさせない。あの頃と違う に時間をとられている のは昔のコーラの味に固執していることの現れ と読む立ち場を今回はとります)

最初の不思議な前提(味は同じになるはず)に「おっ」、となったあと「コーラ」で終わるころには「もっとおもしろくなりそう」と箸が離れていた一首でした。


各々のポテトつつくつつく二人 そんな親友どこで見つける/へろへろ

「お鍋をつつく」みたいに書いてますけど、「ポテト(を)つつく」は書き方としてはけっこう飛んでると思うんですね。頭が無理なく走らせた想像をそのまま書けば、マクドナルドのトレイに置いてある私とあなたのポテト、を私はあなたの・あなたは私の とクロスして食べてる…そこになにも意味はないノリの感じで…な二人が思い浮かぶんですけど、そんなことをしてる人は見たことないので(この人は見たことあって、その時の印象深さがこの歌を作らせたのかもしれないですね)、読みの妥当性としてはかなり僕個人の感じ方の範囲を越えないレベルのものです。ただ、そう浮かぶ。

この歌のおもしろさって意味内容だけでは説明がけっこう無理で(親友がほしい という気持ち、に抱いた切なさや懐かしさが歌への好感を始めているとは言っても)、ひらがなに開きますけど「おの」「おの」「の」「つつく」「つつく」という語彙や音素の重複が「二人」に繋がることで、何か別のものとペアになりたさ をすごく強調してくる。歌に選び取られている食べ物が『ポテト』というたくさんあってにぎやかな、しかし均質化されたものであることもこの場合歌の雰囲気づくりに一役かっていることでしょう。

でも、続く『そんなしんゆうどこでみつける』で音たちが無残なくらい一気にばらけて、このバラバラさが『親友』を手に入れること、の困難さを文意じゃないところで味わわせてくるんだと思う。

各々「の」も気になって、ここは一回「で」で思いついたあと「各々で」ポテトを食べる、光景のあまりにも親友たちでなさ、に行ってすんでのところで「の」に回避して生まれた「各々の」なんだと思います。あっけない口調ながらも叶わない、「親友の見つけたさ」。今回の🌙はこちらでお願いいたします。

 文脈の中に私はいないけどたまにいたりしてよくわかりません/IMONIMON

『たまにいたりして』→『よくわかりません』の読み下しが気持ちよかったです。噂話に自分の名前がかつぎ出されるときの否応もなく、ゴチャゴチャと巻き込まれていく速さが『たまにいたりして』の8音で、ぴったり音での『よくわかりません』の言い切りの強さがあきらめの独語のピシャリ感、とくっついてると思います。

眠れない夜に読み込むファッション誌 何かが100を超えた通知音/沖 雅史

恐怖心が頂点に達した瞬間…みたいな歌として最初は読んだんですけど、なにかを100溜めるのってけっこう難しいですよね。満点、の数字が100だったりするのもあると思うんだけど、100が見えてきた頃この人はけっこう楽しかったんじゃないだろうか。『眠れない』にどうも良好でない精神の時期が匂わされてますけど、それはそれとしてうつぶせで『ファッション雑誌』を読んでいる見栄えののんきさというか。100 という数字が持つ楽観性に気づけた一首。

夢がある米が炊けたと同時に麺茹でて生地こねてまた眠る/梶井ミメ

一人暮らしで、だれも家事の共同者がいないつらさ面倒くささ、の時期を越えると一つ一つがゲーム化していくっていうか、洗濯機と炊飯と電子レンジあたためが「~♪」と同時に終わるとちょっと「よっしゃ」感がある。(生乾くし冷めるし炊きたてじゃなくなるしこの場合だめなんですけど)そのへんの「クリアー!」感を含んだ『夢がある』として受け取りました。

(歌を二度読むと『また眠る』の後にくる『夢がある』のため、矢継ぎ早に過ぎて行く日々を朝→夜 まで主体の感情ゼロで書いた、とも読めるんですが『夢がある』が呼び込むのは今回評にした意味のほうが強いと感じたので こっちでとりました)

「食べる」パート無くの『また眠る』という結語にこのスピード感で行かれちゃうと(同時に麺/茹でて生地 のでんぷん2音でそろってる感じきもちいいです)、「あれ?」(食わんの?)とスカされるんですけど、このスカされに今回は本当にスカされて終わったっていうか、なんだったんだ、でした。好きな人でも嫌いな人でもない、鼻のすぐ前を走って行った人。速く走っていけるだけでかなりすごいんですけど。

腕力を競うのどかな時代あり両手で国を造るたのしさ/のつちえこ

「のどか」だったろうし、たのしかったんだろうなーと思った主体のことはこの「」で書かれないことには分からなかったんですけど(ひらがなに開かれていることで「腕力を競う」ことや「楽しく国が造られてしまう」ことへの批評性や「そうは思ってなさ」が生じてるか、ということもこの一首だけでは判断できなくって)そのうえで「のどかな」と「たのしさ」なのかー‥‥、というか、書きようによって色気を付与できた2カ所をスッと流した感じがちょっと気になりました。

おこることぜんぶうれしい春ぼくがすごくめちゃめちゃにした花畑/平出奔

「夏のせいにすればいい」はクリープハイプでしたが、ハイトーンボイスとキャッチーなメロディを味方に付けていない「春のせいにすればいい」はどうだったかというとこっちはけっこうきびしい戦いになったようです。どうとでも言えてしまう言葉と、こんなにも到れてしまう多幸感が「この一首が終わったあともこの人は『こう』なのかな」を思わせてしまうっていうか、花畑をめちゃくちゃにされた代わりに見える素敵なものの到来‥‥のまえに一首が終わってしまったという感想です。

また腹話術人形を出してきてきょう買う物言わせる 三つまで/沢茱萸

腹話術人形、けっこう久しぶりにあれのことを思い浮かべました。山荘に閉じ込められる回の「コナン」とか「金田一少年の事件簿」で あれごしにしか人と喋らなくてやばすぎる容疑者、絶対犯人ではないですよね。

『きょう買う物』で思い浮かぶのは僕の場合デパートにある素敵なものじゃなくトイレットペーパーや切らしてる洗剤なんですが、それだと『腹話術』は朝の「いってらっしゃい」の前に喋ってることになる、けどあの時間にそんな悠長なことをしている腹話術人形「たち」がいたら生じちゃうイラッがもう少し書き方に滲みそうなものなので、やっぱり休みの日の百貨店やモールに行く前の『腹話術人形』なのかな。けっこうハイブロウなふざけノリです。『また』にちょっと「。」くらいのわずらわしさ要素が香るけど、その怒りをそのサイズで表明して以降『腹話術人形』でふざけさせないようにさせるくらいは主体は立ち場と言葉を持ってそうだから、好きや嫌いではない、純粋な「そういうシーン」としてだけ歌を思い浮かべて目を開けたような状態になりました。

その場合ノーヒントの『三つまで』だけ余る感じ

ここ以外雨だみたいな晴れの日の食えばおいしい元気なカレー/シロソウスキー 

一首目の『コーラ』とは歌の落としどころの発想が同根な感じで、『前髪を切り過ぎた』よりも書かれてる条件は詳細なんですけどなにぶん天気と『カレー』の話‥‥なので歌で思い浮かぶのが個人ではなく、もっと名前を持たない一日と顔を持たない人の「カレー」の感じ。でもそれも狙って「こう」してるんだろうなという印象も受けます。『みたいな』がついているから『ここ以外雨だ』は不思議な前提や理屈から発声されている。「食えば」「おいしい」から「元気な」でちょっと言葉が飛んでるんですけど、ここがいちばん未解決な気持ちです。

将来は近海ものになりたいと言われた日にゃあ父さんはもう/菊華堂 

『言われた日にゃあ父さんはもう』、気持ちいいですね。ほかの人と使う言葉カブったら駄目なルールが短歌界にあったら、オークションで競ってでも手に入れたい人いそう。直泰さんには『伊佐坂先生でもあるまいし』という下の句があってこれもけっこう素晴らしいです。

子どもにおまえ将来なにになりたいんだ?って訊いたら「」って言ってさー、ってフォーマットのおもしろ話ありますよね。『父さん』は自称のもので、歌は『父さん』から発話されている言葉としてとりました。『近海もの』じたいは回答としてはかなりいいほうに入るやつだと思いますけど、順番としてはたぶん「将来なりたいもの」として子どもは何種類か魚の名前を言って、それを『父さん』が大人の言葉で『近海もの』とくくった、んだと思うんですね。この変換によって、回答の所持者は『父さん』に移るわけですけど、そのことによって一首のおもしろさがけっこう減じられるよなーと。まぁ言えば、子供の声じゃなく大人の声での『近海もの』になるから、こちらの点が厳しくなるという。本当に『近海もの』といった子供がいた、という事実の歌だとすると今度は『父さん』と自称する「父さん」にけっこうぬるさを感じてしまうしで、『近海もの』けっこういいのになーとなりました。

オレンジの壁のコテージ大雨の湖畔にポツリ屋根はもう無い/涸れ井戸

『オレンジ』の歌だと 山頂でヘリコプターから降りてくるオレンジ色の救助隊員/谷川由里子『ずっとレコード』 が他にはありますね。あまり詠まれてない色なのかなーとおもいます。『オレンジ』。

雨が降って来る湖周辺は緑やら灰色がかった視界でしょうけど、そこにある『オレンジ』の建物、というのはふしぎに不吉な感じがします。明るい色なのに、が明るい色「だから」になる感じっていうんでしょうか。このへん興味深いところです。『屋根はもう無い』がちょっと飛び過ぎというか(実景なのかもしれないですけど)、定型の最後にこれが来ると、急いで話を落とした、ような印象を受けました。湖を近くに持つオレンジ色の建物…というところで始まるわくわくはあったのでパラレルワールドとしての『大雨』以後が見たいです、という欲があります。



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今回いただきました短歌は以上です。ご投稿ありがとうございます。初回ということで全首評にしました。



・月の末日までに届いたどれかへ1首評を書き、翌月の2日にnote(https://note.mu/gegegege_)へアップいたします。
・引用された短歌は既発表作扱いとなります。
(新人賞応募作品等に組み込めなくなります)
・投稿歌・投稿者に関して、文章以外の形で喧伝・口外することはありません。 【伊舎堂 仁(TWi ID:@hito_genom)】