退職 (冊子『すてるあぶら』より)


(2023.11.11 発行)

https://note.com/gegegege_/n/nfe58debb9b07

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退職

 死別や失恋の小説は思い出せるけど、退職を書いた話ってパッとは浮かばない。

 仕事を辞める日で言うと津村記久子の『ポトスライムの舟』、
〈また会おうと思えばいつでも会える、という言葉にはなんの意味もない〉
 みたいに書いてたのは島本理生の『ナラタージュ』だけど、小説に出てくる退職と、小説で書かれる会えなさは、おおむねこの二篇が含む解放感やストイックさをまとって現れる。

本を読む人が、他者や自身に求める性格……の理想値みたいなものがこのあたりにあるんだろうか。青春映画の主役には暗い奴が多い、の裏返しみたいな感じで。

読書=一人ですること、なのでたぶん読書家は「一人の時間の幸せ術」みたいなものに長けている。仕事は単に、可処分所得や、自尊心によって「ひとり」の時間のクオリティを上げるものか、理不尽に生活の中へあるもの。聖域、として「ひとり」のエリアが設定されていることが、やがてそこに〈あなた〉を招く際の真剣さや、去りゆく〈あなた〉への手抜きをしなさにつながる。

 かっこいい。

 でもたぶんここには「おじさんたち」の出る幕がない。
 おじさんたちは、ゲヒゲヒと笑う。
 労働の合い間に。
 強いものに弱いし、今の自分の握力を確かめるみたいに、弱いものへ強くふるまう。そういうみっともなさは、同種であるおじさん=僕、を時に癒す。「おじさんたち」って「そのままでい続けるのが得意」って意味だから。みっともない。でも癒す。そういう日々を喪い、ひとりになったあと、それをどう悼むのか、そのハウトゥーを読書からは拾えないうちに時間切れが来てしまった。

 いま、悲しい。勝手に悲しい。町も「しーん」としている。退職したからだ。
 ネットで遡ると、5年前の日記にはこう書かれている。

〈働いててストレスが一個もないので、長く続けられそうだ〉

 そのポジションは、「横乗り」とも「配送助手」とも呼ばれる。会社からもらった契約書には「駐禁対策」と書かれていた。運送業のトラックであれば駅前に駐車して配達に行ってもよろしい、駐車違反の切符を切ることはありません、とは国土交通省はもう未来永劫、言ってくれないらしいことは業界では有名なようで、当たり前にドライバーは罰金刑を食らう。

 それを毎回会社が支払うのもなぁ、ということで代わりに【助手席に座らせておく専用の人間】を雇うことにし、楽して暮らしたい僕がそこへ飛び込んだ。それが5年つづき、これは僕が一つの会社で働いた最長記録になった。このポジションに必要なスキルの無さと併せて、尊敬されなさそうな二つの事実だ。でもそれでよかった。

 自分は18万円くらいもらえて、「うすしお」や、えびのフライを食べ、『冷たい熱帯魚』の神楽坂恵とでんでんのあの場面で自慰行為ができれば幸せだったし、辞める月には、貰える額は20万円にさえなっていた。
 5年前の日記は、こう続いている。

 村上龍は小説家を最後の職業と呼んだけど俺最後の職業はこれだと思う。なんて思ったら怒られてしまうのか、と思うけど俺はそれをやっている立ち場としてこれを思ったんだし、というふんぞり返り方もある。

 もうふんぞり返れない。言うと中傷になる。

 最古のストレスで思い出すと、そこにはスキンヘッドのカシワさんがいる。ベテランのドライバーで、ブラッドサースティー・ブッチャーズの吉村秀樹に音楽的魅力と人間的魅力が無いような人で、つまり最悪だった。僕が横乗りをするまではミノリさんを助手席に座らせており、焼き肉をおごり、ブロンコビリーをおごり、ココナツカレーをおごり、「女が食うようなカレー」と陰では言い、「ヒサタカくん(彼氏)と別れたら結婚しよう」「自分は家もある。ヒサタカくんよりは金もある」「悪い話じゃないと思う」と日々口説きつづけ、別のドライバーの助手席へ避難すると「ミノリ。」「おれのミノリ。」と、シフトを決めている主任に詰め寄って脅し、ミノリさんを乗せているドライバーに詰め寄り、とうとう隣の市の部署へ行くことになった彼女へは「引っ越しを手伝わせてほしい」とすら言い、ずっと家で寝ていたほうがよい人だった。

 初めて助手席に乗った日、

「引っ越しするらしくて、俺のところには乗れなくなったんだよ」
と彼女を懐かしむ隣で、こんな人間ほんとうにいるんだと思った。
 気持ち悪いのはいいとして、車内で吸う電子タバコがきなこ臭いのがきつかった。

 トラック内って禁煙ですよね、とある日の朝一で言うと「こんな仕事おれはべつに好きでやってないんだ」「煙草くらい吸わないとやってられない」「なんだ、苦情を言ったもん勝ちか。」みたいに騒ぐので、午後からは木村さんのトラックに乗り換えて、エレカシの宮本の歌は生で聴くと本当にすごいという話を聞いた。

「ルールを作った会社じゃなくて、おれと戦おうとしたのが馬鹿すぎるんですよね」

 と電話で言うと総務は「きちんと注意しておきます」と、語尾に「笑」が見えた。ベテラン、かつ激昂型の人間になにも言えないのがどうやらここの雰囲気で、それなら、とみんながそういう人間になっていくし、所長が「人手が40人足りない」と朝礼で言う職場はそもそも何をしても辞めさせられないのでずっと治安が悪い。僕とカシワさんは、休憩時間に
「運送業……って英語でなんて言うんだ」
 と訊いてきたので「トランスポーター、とかですかね」と応えたらLINE相手の外国人女性に「I’m transporter.」と返信してたときが関係性のピークになった。



 配達してはいけないポジションなのに、僕は毎日ゴムの軍手を持参で出社した。
 助手席から動かないでもいい日は一日もなかったからだ。
 ドンキホーテのバックヤードも、スギドラッグも、ソフトバンクも整骨院も美容室もメガネ屋も行った。家系ラーメン屋も歯医者も酒屋も、ココナツカレー屋もあさひサイクルもアパレルの倉庫も行った。もちろん宅配も行った。駅から離れた地域の一軒家はお年寄りが多いので在宅率は高いが、チャイムの音が聞こえないらしく、不在票を入れると10分後の電話でネチネチ「いたのに。」と言われるか、ドアまで来てくれる時間がゆっくりで、それはいいとして〈一件3分以内〉みたいなノルマの敵となるので戻ってきたらドライバーが不機嫌になっていたりした。ピンポーンに「どうぞー」と言うのでドアを開けたら何してるんだお前!
「この角度以上ドアをあけちゃウチはいけないんだよ」
とパーとパーでVを作られたりした。
 駅から近い部屋ほど、そこの高い家賃を夫婦で払うためか日中は両方いなくて、不在票が飛ぶように無くなり、その後の再配達で帰りが21時とかになった。
 この給料で21時なのは間抜けすぎる。証券マンならまだしも、と思い始めたころにはカシワさん以外のドライバーとは仲良くなり始めており、でもその彼らが契約にはない配達でバンバン頼ってくる。契約書を見たが、やっぱり何回見ても配達に給料は出ていないと全員が憎くなってくる。地味に昼食も15時とかだ。パーとパーでVを作った細い親父に

「罰として、一時間後にもう一回来い。」

 と言われて加藤さんと一時間後に行ったらなぜか一時間前の丸坊主よりもっと丸坊主になっており、オロナミンCを2本くれたのはおもしろかった。契約書と通帳残高のことさえ思わなければ、たしかに一度やったら辞められない魅力があるにはあるのだった。工場の8時間とちがい、一日外を走り回れる8時間はロードムービーの楽しさがある。ゲヒゲヒ笑う男たちが同行者とくれば、4年なんかはあっという間に経つのだった。

 潮目が変わったのは、他のエリアの「横乗りくん」がズルをしたあたりからだ。

 トラックに駅で拾ってもらって、駅でおろしてもらう直行直帰のため、出勤退勤の打刻はアプリで行う。19時であがっているのに、21時に退勤を切っていた横乗りが、それを2年間していたことを白状してから、トラックには車内へレンズが向いた監視カメラが設置された。そこに入っている録画保存用のSDカードを、乗ったら自分でセットする。会社がお金に厳しくなったのは、コロナ禍で大儲けした翌年の、あの〈前年度比・収益ダウン〉からだから、もっと言うとコロナがケチの付きはじめかもしれない。そういう意味では運送業も世間並みなのだった。

 17時ごろに帰れる日もあるにはあった今までとちがい、19時までは何もなくてもトラック内で「映って」いないといけない。これまたある日、別のエリアの「横乗りさん」が荷台から落ちて肋骨を折ったことにより、業務外の動きでの労災補償が非常にややこしくなったことから、会社はA4用紙を刷った。会社はA4用紙を刷ることがある。

〈駐禁対策の人は絶対に配達をしないでください!〉

 絶対に、の横にふられている傍点を見ながら、もう総務に電話をかけて怒る若さが自分にないことに気づいた。お前らが人を増やさないからだろ。ゆっくり、ゆっくりといなくなっていく必要があった。

 もう辞める、と決めてからはなんというか「鼻から吸う風の通り」がよくなった。ブルーっぽい風の奥っかわを象みたいな目で見つめれば〈暑さもまだいます〉とでも言うかのような、ドキンちゃんのオレンジ色が、マーマーレードの果肉(かにく)線(せん)みたく散らばっていて、それをタワマン地帯のロータリーなんかで顔に受けるとドラマの最終話みたいで最高で、秋に仕事を辞めるのは素敵だと思った。そうすることで、生活の登場人物がゴソッと減る痛寂(いたざみ)しさまでを含めて娯楽だった。ここの人じゃなくなる、と思うとその後のひとつひとつに対し遠い目な優しさを向けられるか~~というとそうでもなく、6歳下の青山さんが40キロくらいで走りながらあ~~~~~

「地獄だ!」

 と叫んだあと50キロくらいになったときは横で「思うよ。」と、「そう思うよ。」の「そう」をハショるかたちで急いで思った。

 僕は僕の尊厳のためにこの場所を離れるのだけど、それがこの人たちにはたぶん「逃げた」の見た目をとるわけで、芯からそれが申し訳なかった。
 アプリのメモ帳を開くと、最初に打った分は太めになっている文字で「復讐・ポスティング・ジャーニー」とある。改行していないので以下、全て太字である。何? と見ていくと

【駅前 ヨガスタジオ】 

4キロの水を4つ ×2箱 呼び出しても誰も対応してくれず、出てきた人に「いつもの人だったらそこに置いてってくれますけどねぇ!」と初回なのに何十回目みたいな感じでキレてくる
別のドライバーが配達に行ったとき、男とベロチュウをしてて、バッと離れたとの情報

【××町 民家】

 ピンポンを押すと「どうぞー」と言う。4キロの水4つ 2箱 を抱きしめているのでドアを開ける腕はない 「開けてもらえますかー」というと「どうぞ!」と言う 「手が塞がってますので開けてもらえますか?」というと「え? 私に言ってるの? 今の私に言ったの?」と〈これに何十分でもかけてやろう〉的な腰を据えた口調に変わる (ドライバーが慌てて車から来てくれて、「彼は今、私に言ったんです。」と長瀬さんに謝らせてしまい、車の中で謝る。)

【××町 (マンション名) 1001号室】

エントランスのロック解除のドアフォンから玄関ピンポン、荷物の配達完了まで一言も喋らない。 捺印するとき印鑑の名字の向きが、逆さまになってないかだけは熱心に先っぽを見る。

【××町 保育所】

「(荷物は)重たいですか?」
 に普通です、と言うと「普通……」と言いながら奥に帰っていく 

【××町 ラーメン屋の上のコーヒー屋】

冷凍の荷物を配達したら店主が「今日はクロネコさんじゃなくてアストロ運送さんなんだねぇ、いつもはクロネコさんなのに」と言うので「今日はそうみたいですねー」と言うと「クロネコさんなんだよ。いつもは。今日は違った。今日はアストロさん」とまだ言ってるので「そう……ですね」と言うんだけど、代金引換のお金もぜんぜん出してくれないしなんなんだ、と思ってたらパチッ、と (声が大きくなる時の音がした)
「クロネコさんのほうがよかったなって言ってんの!」
 と叫ばれる 一回トラックに戻って社員に集金に行ってもらう。駅前で自営業してるおじさんって終始ピリピリしてる 生存競争きつめ&自分が倒れたらおしまいだから気を張ってるのか?

【××町 カレー屋 (仕事ではなく客)】

 注文したくて「すみませーん」と言うとカウンターの中から「うかがいまーす」と言うので「聞きます、の意味での『うかがいます』」だと思い「ビーフカレーと~」と言ったら「うかがいます!」と怒鳴られた これも駅前

 ……等々、休みの日のことまで書いてあり、【ポスティング】の【ジャーニー】を【復讐】でしようというのだから、悪意とともに、何かしらをいつしか、自分が本当に駄目になったころ、何かの書かれたA4用紙を刷ってそれぞれに投函しにいこうとしていたのだろう。ワードで打った活字よりは、筆ペンで書いたほうがヤバい薬局の店頭みたいでより怖いだろうというところまで決めていたけど、肝心なのは何を書くかである。

「死ね」とは思わないので死ねとは書きたくない。「ウエイトレスをいじめると、ろくな死に方しないよ。」と書いていたのは『手紙魔まみ』だが、運送業だっていじめないでほしい、うえで、「伊舎堂がアストロ運送を辞めてからなんか、復讐ポスティングジャーニーはじまったな」となるのも、現場の青山さんたちに何かしらの業務を増やす遠因となるかもしれない。それは苦しい。それなら一年経ったくらいから、一件ずつ順番にやっていくか? 金田一少年の事件簿の犯人みたいに。いや。こんな負の感情、百日(びゃくにち)も持ってたくないな、となったとき浮かんだのが「折り紙で折ったツル」だった。

 手裏剣だと凶器=殺意で、俳句で言う「つきすぎ」なので、折り紙で折ったツルだ。ピンク色の。が、ポストにある朝入っている。近所の子供のいたずらや、なにかの宗教活動との差別化を図るために、ツルの目のところに黒々と怖いタッチで目を書くことで「自分たちに誰かが悪感情を向けている」を思わせられるかもしれない。そのときに筆ペンは使おう。なんなら折り紙を開いたら「ウンソウギョウニ ヤサシクシロ 歯(ハ)糞(クソ)ガ」とあってもいいかもしれない。ウキウキしてくる。頭の中がまず「今の、私に言ったの?」のおばさん家の庭でいっぱいになり、自分は本当にあの家が一位だったんだな、と「照れた」。

 辞めるのを主任に伝えれば、退職願を持ってきてくれる。この伝える、のきっかけ作りに苦労した。

 お疲れさまでした~と帰ったあとにショートメッセージで「辞めようと思います」を送るのが一番いいのかなと思う一方、それは一日働いた奴の辞め方だった。一日働いた奴の辞め方なら「辞めます」で次の日来ない、iPhone機内モードにして自室で寝てるで良いとして、だからこそ5年も働ける会社がなかったのだ、機内モードでいいとして、一日の始まりに「辞めます」も、トラックを降りる夜の町で「辞めます」も、勤務中の、次の家、次の家、次は二手に分かれて配達しよう、はい、の合い間の「辞めます」も、どれも〈ただでさえ忙しい、延々携帯電話が鳴っている主任の心を揺らしたくないな〉の気持ちがあった。よりによって俺で。それくらいには自分は、鈴木主任が好きだった。ラッドウィンプスが好きで、よく「いいんですか」を帰りながら歌っていて、おれのアップルミュージックが役に立った。ある日、暗くなるのが早いみたいな話をしたからたしか冬、駅に着いたとき、それじゃあまた明日お願いします、と言おうとしたら急にハンドルにつっぷしてしまったロータリーで、顔を上げたかと思ったら

「こんなに楽しいのは久しぶりだった。」

 と言ったとき、顔が見れなかった。恋以外で恋みたいな気持ちになるんだと思った。そしてよりによってその恋が、恋でもないのに、悲恋のトーンをまとっていることには「なんなんだよ」があった。

 僕も主任も、このまま幸せになんかなれないんじゃないか。

 それとも幸せは、幸せが「ラッドウィンプスを野田洋次郎の声で歌う」だとするなら、我々はそれになれない、のではなく「もう過ぎた」、そんな意味合いで我々は幸せにはなれないのだった。昔楽しかったこと、という死んだお母さんを、ひき肉とクミンと処女の血の一滴を落とした土人形にして雨の中よみがえらせて、抱きしめたらグズグズに崩れるのを、そうなるのを知ってるうえで「いいんですか」を歌っていた。そのうちラッドウィンプスが香水になり、うっせぇわになり、Adоがutaになっても主任が好きだった。ひろゆきに感心してても、ブレイキングダウンを見てても、普通に、国籍を主語にしたヘイトを言ってても、「(笑)」を散りばめて訂正とたしなめをがんばるくらい好きだった。伝わってないだろうことが悲しかった。ミノリさんの送別会にカシワさんは来ないとして、僕もナチュラルに呼ばれていなかったことに自分は、これからも何種類かの、思い出す角度を変え、味(あじ)変(へん)をし、自分の普段の喋り方と人間観なんかも鑑み、何回も落ち込めるだろう。思い出す全員に会えないと思うと暗い部屋で眠るのも怖かった。〈また会おうと思えばいつでも会える、〉ほんとうにそりゃそうだ島本理生、〈でもそんな言葉にはなんの意味もな〉く、だからって

「最近どうですか? 

ヨシダさんとかセキさんとか、あとヨコオさんとかも呼んで牛繋でも行きましょうよ」

 と主任に電話してのそんな会が実現しても、その夜のレジで会計してるころには「こんなの、土人形だ」と思うだろう。焼き肉で飲み食いし、誰かが誰かの文句を言い、それで何回笑おうと、ここから自分は一回もこの人たちと出社できないのだった。

 でもやめないと。

 アストロ運送の荷物には、午前便と午後便がある。
基本的には、午前便は朝、すべて2トントラックに積む。そこに載せられないものや、トラック出発後に営業所に届いた荷物を今度は4トントラックが積み、市内にある集積所にそれらを置いていく。

 高架下とか、前はコンビニだったテナントとかを借りている部署もあって、鈴木・ヨシダ班の集積所はスーパーマーケット「つるかめや」の駐車場10台分だった。月々10万円で貸してもらっているのだが、何回注意されてもカシワさんが駐車場でアイコスを吸うのを辞めないので、「つるかめや」にいながら、「つるかめや」へ出入りすることが全社員に禁止された。トイレも借りれない。あいつ本当に最悪だと思う。

 それでも、午前便がひと段落したあとの、まだ3台とかしかいない「つるかめや」駐車場の風は最高だった。皆さんにも味わわせてあげたい。
カシワさんは休みの日で、フナヤマさんと、あとは鈴木主任、僕と、他の横乗りのおじいさん。だいたいが定年退職後にやるような仕事なのだ、で、4トントラックが来るのを待っていた。

 車止め。と言うんだろうか。これは確か、稲川淳二がデザインを考えたという話を聞いたことがある。ちかづいて、よく見るとそのブロックには、レゴだと凸が二つある位置に穴が開いていて、のぞくと小石がぎっちりと詰まっている。この石を何回も見た。

 しつこいが、恋じゃないのに恋みたいな気持ちになることは、しかももう愛していない職場でも、ある。ブロックに座った鈴木主任が足を広げて電話している。いい内容ではないことは「?」と「……。」の多い口調でわかる。というか、電話、イコール、いいことは起きていない、ということなのだった。

「ったく、ほんとにうちにはよぉぉぉ~~~」

 ガラケーをスラックスにしまい、鈴木さんが言った。社用の携帯電話は古いガラケーで、一日二回は充電がなくなる弱さなので、よく電源が通話中に落ちる。

 さっき車内のソケットで充電していたので、今日はまだ大丈夫なはずだ。
 宅配ボックスに入れて配達完了したはいいが、そもそも家の場所を間違えてたらしい、と言って、あるドライバーの名前を叫んだ。
「そこの家の人のところに行って暗証番号をおしえてもらわないといけない」
 遅くまで帰ってこない人だったらどうしよう……と、がにまたで立ち上がり、ちょこん、くらいでブロックを蹴った。

 バッタがいたら跳んだだろう。

「まぁあとはキヨセ係長になんとかしてもらいましょ」
 鈴木さんが鈴木主任になったのは昨年だった。
 その頃からラッドウィンプスが役に立った。

 鈴木さんが好きなのは4枚目の「おかずのごはん」だ。セツナレンサが僕は好きだけど、ほぼ英語なのでやっぱり「いいんですか?」多めになった。
 妻が嫉妬深い人らしく、女の人がいる飲み会とかは出席厳禁らしい。それを押し切ってミノリさんの送別会をひらいたというのかよ。一緒にスーパーに行くときなんかも、「女の人を見ないように」という理由でメガネを没収されているらしい。

 一年前の、主任に就任直後よりは疲れてなく見える。というか、「あとは××係長にやってもらいましょ」みたいなのをおぼえるようになった。
 やってもらいましょ、の「しょ」がいいねと思う。人間、「しょ」を覚えてからの人生の難易度は下がるのではないか。

 砂埃が立ちすぎている。

 主任がジュディーアンドマリーのオーバードライブを歌っている。
 ブロックを蹴り、宅配ボックスの件の返答が来るのを待っている。この人に言うのか、と思っているとオーバードライブが終わる。
 もちろん終わる。

 あとから思い出してみても、言うのは今だったね、の今、が今、なんだろう。
 走る~  
 とかって。口の中で小さく歌っちゃったりして、
 雲の~ 
 崖の割れ目を飛び越えるときにちょっと後ろに下がって……

 で、走り出す、 

    感じで、 

「鈴木主任」
「なんだよ! 怖いね。」



二週間後、「おかず屋本舗 こめ泥棒」に配達して5年が終わった。


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『すてるあぶら』 収載「退職」